第1章5 再会
「一体何があった?」
怒りを無理に押し殺した声音に、誰もが耳を疑った。
声が先か姿を現したのが先か。
ルーイッドが息を詰め、婆が目を見張ったのが同時。
悠然と微笑み、深く礼をするのは、ライーただ一人だ。
「そなた…」
婆が驚愕したままぽつりと零す。
異形の姿を隠そうともせず、赤銅色の瞳が鋭く光って婆を射抜いた。
「一体何があったと聞いている。我が問いに今すぐ明確に簡潔に答えよ」
「村娘が流行り病にかかり、その娘を助けようとしてクロトが力を使いました。クロトは娘の症状をその身に引き受け、病にかかったも同然です」
黙ったままの二人に代わり、ライーが端的にそう延べた。
「馬鹿な事を。紡ぎ女の役目を超えた力など、使ったところで自らの身を滅ぼす」
そう呟いて、赤銅の君はより一層怒気を強めて婆に詰め寄る。
「そんな事のためにあの娘をここに置いているわけではない」
監督不行き届きもいいところだと、吐き捨てる。
「それは重々承知しておる」
婆は静かにそう返した。
そうして即座に挑戦的な目でこうも言った。
「だがな、そなたがあの娘を放っておく間に、あの娘も十三じゃ。誰かを助けたいと思っても不思議はあるまいよ。それともそなたは、あの娘が心優しき娘だと知らなかったかのう…みな周知の事じゃがな」
そもそもの監督不行き届きは誰であるかという皮肉が込められた。
「放っておくとは心外だ。やれる事はしてやったし、定期的に報告は受けていた」
非難を浴びる謂われはないとばかりの赤銅の君。
婆は見せつけるように、大袈裟に溜め息を付いた。
呆れた顔を隠しもしない。
「あの娘に、そなたは不釣り合いじゃな」
赤銅の君の背を見つめる位置にいたライーが、咄嗟に息を飲んだ。
その背に今まで感じた事のない、憤怒という名の殺気を感じとったのである。
失礼は承知の上で、慌てて会話に割り込む。
「お婆様、それは言い過ぎではありませんか?」
婆は何も言わず、赤銅の君を睨み上げるばかり。
更に婆に何か言おうとして、ライーは咄嗟に口を閉ざした。
赤銅の君が、突然身を翻して部屋から出て行こうとしたからだった。
開け放したドアはそのままに、赤銅の君は去っていく。
ライーがすぐさま婆の方を振り返った。
言いたい事が伝わったのだろう。
婆はこう言った。
「追わんでいい。気が向けばまたここに戻ってくるじゃろうて」
ライーはゆっくりとルーイッドにも視線を向けた。
先程からずっと押し黙ったままであったルーイッドが、こちらを見ている。
「そう言えば…昼食がまだだったな」
ぽつりと呟くと、ルーイッドは部屋から出て行った。
◆◆◆◆◆
赤銅の君の青白い指が、ベッドに横たわるクロトの歪んだ口元に触れた。
ひっきりなしに漏れる声に唇がカサカサに乾いている。
身を切るような痛みに、体が変な体制で硬直していた。
「っ…ぁぁ…うぅ」
一体この娘は何をしているんだと、苛立たしげに思う。
その身を危険に晒す行動とるなど、誓約者として自覚がなさすぎる。
悪態が零れそうになったが、それを意志の力で飲み込んで、クロトの体の上に片手を翳した。
クロトの力とは根本的に違う魔の力が溢れ出す。
それは紫紺の球体で、クロトの体から病の元を吸い取っていく。
クロトの顔が更に苦痛に歪んだ。
「ああっ!」
より一層苦しむ声が大きくなったが、赤銅の君は微動だにしなかった。
紫紺の球体が徐々に大きくなる。
時間にして一呼吸程。
次の瞬間、球体は握り潰され弾け飛んだ。
少しばかりの煙が散ったがそれも直に消えた。
クロトの表情が緩やかに和らいで、穏やかな寝息に包まれる。
寄れた寝間着の隙間から、痣がちらついた。
そこにそっと指を這わせ、赤銅の君は大きく溜め息を付いた。
唐突な目眩に視界が揺らぐ。
力が底をつき始めていた。
急激に体から力が抜けていく。
ベッドの脇にあった椅子に倒れるようにして座り込んだ。
だるそうに顔を上げてクロトを見る。
痛みから解放された寝顔は安らいでいて、無意識に笑みがこぼれた。
力のため、延いては生き延びるために、今すぐ誓約の口付けをすべきなのはわかっている。
だが、どうしても寝ているクロトの唇を奪う気にはなれなかった。
座っている事すら辛くなり、赤銅の君は腰を曲げてだらりとベッドの端に上半身を預けた。
『起きるまでは保つだろう』
自分の中に残る力を計り、そう結論を出す。
クロトの寝息を間近に聞きながら、赤銅の君は意識を手放した。
◆◆◆◆◆
壮絶な痛みに薄れかけていた記憶が蘇る。
上の姉であるフェイトの銀糸の髪。
下の姉であるデクマの漆黒の髪。
同じ裾長の衣を着ていたのに、パッと見た時の印象はまるで違った二人。
自分の視界から、だいぶ離れた所で二人が忙しなく動いていた。
一体いつの記憶だろうと首を捻っても、答えは出てこない。
立ち居振る舞い、話し方。
そういうところを冷静に追って見ていくと、二人はまるで同じ人形のようだった。
不思議だった。幼い時はそうは思わなかったはずだ。
しかし、テーゼという狭い世界から抜け出した今は、二人の姉の異質さがよくわかる。
村娘であるシェダルの子供らしさが愛おしい。
成人しているルーイッドが、婆の小言を恐れているのが微笑ましい。
ライーが向けてくれる榛色の瞳の温かさは誰にも真似できない。
挙げていけば切りがないほどに、みな個性に溢れ、いきいきと生活している。
あのままテーゼで生活していれば、自分も姉達と同じ人形の仲間入りだった。
姉の死を肯定してるわけではないが、そうならずに済んでよかったと切に思う。
不意に姉達が消えて、赤銅の君が映った。
ぼんやりと赤銅の君の一挙一動を見つめる。
いつの記憶だろうなんて思う事もない。
会ったのは二回きりなのだから。
{我のために生きよと言っている。そなたが死ねば、我もそのうち力尽きて死ぬ}
今でもこの言葉の意味は分からない。
『私が死にそうになったら、この人は少しは私を顧みてくれるだろうか』
また視界が変わった。
テーゼで住んでいた屋敷の地下。
床に隙間なく敷き詰められた棺。
その一つを、フェイトが開けて。
『これは!?』
急激に現実に引き戻された。
痛みはいつの間にか消えていた。
「っつ……!!」
クロトは飛び起きた。
◆◆◆◆◆
窓から差し込む日差しの色が薄いオレンジに変わっていた。
机に開かれたままの教科書がパラパラと音を立てている。
ベッドから降りようとしてクロトは驚愕した。 夢の続きかと思った。
赤銅の髪が風に舞っている。
「………」
言葉を口にしたはずなのに、声が出ていない。
クロトはそっと両手で喉を抑えた。
その手が震えている。
「目覚めたようだな」
クロトは体を硬直させた。
声と共にけだるそうに起き上がる体から目を離せない。
「どうした、どこかまだ痛むのか」
一つ欠伸を噛み殺して、赤銅の君はこちらを見た。
その表情が、三年前倒れていた時の表情と重なって見えるのは気のせいだろうか。
視線の先は手の添えられた喉元。
「声でも失ったか?病の元はすべて吸い取ったはずだがな」
一体どうしたものかと呟いて、赤銅の君の双眸が眇められた。
何やら考えを巡らせているようだ。
その目がゆっくりと伏せられる。
その目に、鋭さが足りない。
その声に、張りが足りない。
この人はこんな風だっただろうか。
「あなたは…」
確信が持てなくて、クロトはそこで言葉を切った。
そうして即座に息を飲む。
なぜならば、はっとして顔を上げた赤銅の君の顔が力なく笑んでいたからだ。
「声を失ってはいなかったようだな」
「…私より、貴方の方が問題あるようだがな…」
数年前の丁寧な話し方とは一線を画していた。
赤銅の君が驚いたように目を見張ったが、かまわなかった。
「問題か。そう言えばそんなものもあった」
呟くように言い放たれたのと、腰を上げたのが同時。
えっと思った時には、赤銅の君は断りもなくベッドの端に腰掛け、体を捻るようにしてこちらを見ていた。
近くなった距離。
驚きながらも、その顔をじっと覗き込んでクロトは口を開く。
「顔色が悪い。今更何をしに来たんだ?ちょうど三年…あの時この部屋で言ったように力でも尽きたか?」
そんな旨い話があるかと揶揄するように言わずにはいられない。
質問しながらも、答えなんて聞きたくない。
力が尽きたから来たのだと。
そのためだけに来たのだと。
そんな言葉は聞きたくないのだ。
口を挿む暇を与えず、更にクロトは続ける。
「何しに来たかなんて問うだけ無駄だな。気まぐれを起こしただけなら、帰るんだな。とても忙しい身の上のようだし」
嫌味な口調。
これでは会いにこなかった恋人を責めるようではないか。
そう思ってすぐさま自嘲する。
自嘲しながらも、こんな自分に嫌気が差して早くこの場からいなくなればとも思った。
不意に赤銅の君が笑った。
力ない笑みであったが、こちらを揶揄するような笑い。
「少し会わない間に、誓約者殿は口が悪くおなりだな」
実にたくましいと付け加えられる。
余裕綽々な相手に、抑えていた感情が溢れそうになる。
ぎゅっと掛布を握る。
視線を外してそっぽを向く。
なんでか涙が出そうだ。
「…戯れ言など必要ない。帰ればいい」
お帰りはあちらとばかりに窓を指差す。
異形の指がこちらの顎を掴み、くいっと赤銅の君の方を向けられた。
涙に濡れた顔を見られる羽目になる。
すぐさま顎を掴まれた手を払い退けるべきなのに、それすら思うように行動できない。
「戯れ言ではないと言ったら?」
挑戦的な顔と言葉に苛立ちが募る。
「……い」
ん?と聞き返されるのにも腹が立つ。
いつだって自分は赤銅の君の手の平で転がされている。
静かな怒りが湧き上がる。
「情けないとそう言った」
こちらも挑むように、相手を見つめる。
「貴方に言いように振り回される自分が情けないと、そう言った。気まぐれなら立ち去ってほしい。貴方に私は必要ないのだから」
どこか生気に欠けている赤銅の君の事を心配している自分が許せない。
こんな風に心乱されないために、遠い日、指折り待つのを止めたのではなかったか。
不意に顎を掴んでいた手から力が抜けた。
「振り回されてるのはこちらだと思っていた…が…な」
語尾が消えて、顎を掴んでいた手がぽとりと掛布の上に落ちた。
大きな体が倒れてくる。
その横顔からは血の気が引いていた。
冷えていく体にこちらも背中が凍りつく。
「赤銅の君!!」
目蓋すら動かない。
あんなにも腹が立っていたのに、それすらも一気に吹き飛んだ。
体を捩って無理矢理に場所を開けると、赤銅の君をベッドに寝かす。
その後は一瞬たりとも迷わなかった。
『狡い人』
クロトは赤銅の君の唇に自らのそれを押し当てた。
『私に本当に力があるのなら…この人を助けて』
あの時と変わらぬ光に、クロトは咄嗟に目を閉じた。




