序章1
「はぁはぁ…!っ…うっ!!」
酸素が足りない。
走っているのに、変に顔が体より前に突き出てしまう。
荒い呼吸を繰り返すと、ヒュウヒュウと嫌な音が耳に入った。肺が悲鳴を上げている。
まだ幼い少女、クロトは走りながら目を擦った。
目が霞んで仕方がないのだ。
これは自分の視覚のせいなのか、辺りに立ち込める霧のせいなのか。
そんな疑問を抱いたその瞬間、何かに足を捕られると、踏ん張りがきかずその場に転がり伏した。
「痛っ!……はぁはぁっ……」
これ以上、走り続けることはできなかった。
気怠い中、うつ伏せになった体に渾身の力を入れて、仰向けになる。
視線はそのまま夜空に向かった。
瞬きを繰り返し、何かを掴むように、夜空に手を伸ばす。
そうして得た小さな安堵に、クロトは肩から力を抜いた。
『力が入るし、目もおかしくない』
そうは言っても、上等な衣はボロボロだった。裾の方は泥で汚れ、所々無残に切れている。
亜麻色の長い髪は、綺麗に結い上げられていたはずなのに、鳥の巣状態だ。
乱れた髪の一部分は汗で顔に張り付く始末。
こんな自分を見たら、姉達は冷ややかな視線を向けるだろう。
{クロト、身綺麗にしなさいな}
{身なりの乱れは、精神の乱れ。幼くとも、しっかり整えなさい}
『お姉様方……』
{きゃぁぁぁぁぁぁ!汚らわしい!!触るでないっ…ひゃぁっあぁぁぁぁ}
姉の悲鳴が、耳にこびり付いて離れない。
一体どうしてこんな事になってしまったのだろう。
ザッザッと、草を掻き分ける音が聞こえて、咄嗟に体が硬直するのが分かった。
追手はもうそこまで来ているのだろうか。
しだいに大きくなる足音に、バッと体を起こした。
見つかったら、殺される。
『死ぬしかない』
そう強く思ったはずなのに、手が震え、涙が頬を伝うのはどうしてだろう。
どこの誰ともわからない反逆者に殺されるよりは、自分で死を選んだ方が誇り高く潔いはずだ。
{クロト、誇り高く生きなさい。そうして潔くもありなさい}
厳格だった姉の言葉が、不意に蘇る。
『早くしないと…!!』
震える手を叱咤して動かした。
胸元に手を入れると服の中から、小さな石を取り出す。
鎖で繋がれていたそれは、手の中で淡く光り始めた。
最初は程よく丸みを帯びていた石が、光と共に形を変え、鋭利に尖った刃物になる。
『姉上様…すぐクロトも、逝きますから』
最後の遺言のように、そう胸の内で呟くと、不思議と震えが止まった。
首に刃物を突き当てる。
覚悟は決まった。
ゆっくりと目を閉じると、一筋の涙。
息を殺して、一気に首を掻き切ろうとした、その瞬間―――。
「待て!その命、我に与えてはくれまいか?」
聞き慣れない低い男の声に、クロトは驚きと共にカッと目を見開いた。
いつの間にそこにいたのだろうか。
赤銅を身に纏ったような容貌の男が、倒れ伏していた。
木の合間を縫うようにして、複数の足音は未だに耳に入ってくる。
追手ではないこの男は、一体どこからきたのだろうか。
背中からは赤銅の羽が、高級な絨毯のように広がっている。
耳からは小さな羽を模したような角が見える。
明らかに人ではなかった。
それが頭の中でわかっていながらも、不思議と恐怖を感じなかった。
クロトは、ゆっくりと瞬きを一度した。
一切の気配なく現れた男の顔は苦しいのか歪んでいる。
突然、男の赤銅の瞳が柔らかく細められて、口が開かれる。
「自ら命を絶つなど、お前のような小娘がするようなことではない。我に誓約の口づけを与えよ」
更に何かを言い募ろうとして、男はおもむろに片手を空に翳した。
クロトが不思議そうにその手の動きを目で追い、ゆっくりと男の顔を覗き込むと、男は気さくに笑った。
「邪魔されたくないからな、この辺りに薄い結界を張った。なぜお前のような小娘が追手に追われている?そなた、いくつだ?」
複数の質問に、クロトは咄嗟に答えられる部分にだけ答えた。
「10歳です。貴方は一体…」
「誓約の口づけと引き換えに追手を片付けてやってもいい」
言葉と共に、そっと差し出されたその手。
男の異形さを現すような薄気味悪く、青白く長い爪。
クロトは小さく首を左右に降りながらも、躊躇なくその手に自分の手を重ねた。
「助けて頂いても、帰る場所がありません。お姉様達も死にましたし…」
重ねた手は、親と子供程に違う。
壊れ物でも扱うかのように重ねた手を握られ、クロトは言い表せない不思議な感情を抱いた。
「帰る場所を与えてやろう。そこで我がために生きよ」
有無を言わせない声音だった。
しかし、威圧的ではない。
恐怖で支配しようという意識も感じられなかった。
気が付けば、クロトは赤銅の瞳に魅入られるようにして、その男の顔に自らの顔を近づけた。
赤銅の瞳が零れるかのごとく大きく見開かれたと思うと、優しく眇められて、クロトは大きな声を出して泣きたくなった。
その衝動をぐっと我慢して、重ねたままの男の手をぎゅっと握る。
何かに引き寄せらるようにして、クロトは男の唇に自らのそれを重ねた。
目を開けていられない程のまばゆい光が、大きく広がった。
唇を離すのと同時だっただろうか。
その光の眩しさに、クロトは意識を手放した。