2.0 ヒマワリ(1)
紫保は、机の上の写真立てを手に取って、中の写真を抜き別の写真を入れた。古ぼけた写真には、髪が伸びる前の紫保と今は亡き父親が映っている。
新しい写真には、母と母の再婚相手と紫保の三人が映っている。日付は一週間前の物で、昨日ようやく焼き増しが終わったのだ。
部屋の一角に重ねたダンボールを脇に抱えて、リビングへと向かった。
新品のシステムキッチンからは、料理を作りながらリビング全体を一望できる。シンクの前では紫保の母、有紗が昼食の準備をしていた。
「お母さん、ダンボールどこ?」
有紗はテレビと料理に夢中になりながら、少し後になって反応した。
「駐車場の奥の方に置いてきてくれる? お昼ご飯、作り始めたばっかだから、ついでに散歩でもしてきたらどう? まだ慣れてないでしょう?」
「うん、そうしようかな…」
紫保は食卓の椅子に掛けておいた白いカーディガンを羽織って、もう一度ダンボールを抱えて持った。
既に車は父親と仕事に行ったようで、ガレージは空っぽになっていた。物があるとすれば、既に片付けを終えた父親のダンボールがかさ張っているぐらいだ。
ダンボールの山に自分のダンボールを重ねた紫保は庭に向かう。キーホルダーのついてない鍵をワンピースのポケットから取り出して、ガレージと庭を繋ぐドアの鍵穴に差し込んだ。
ドアノブを回すと、それまで静かだったのが、セミがひしめき鳴く音でいっぱいになった。庭はそこらじゅうがヒマワリだらけだった。いや、父親が有紗にプロポーズするために、ハートをかたどって植えたので、二階から見れば、庭の中央に黄と茶のハートが咲き誇っているのである。
紫保はその結婚エピソードを思い出しながら嘲笑しながら、勝手口の門の鎖の暗証番号式の鍵を解いて外した。
ふと、再婚の話を聞かされた日の思い出が蘇った。
「なんで今更結婚するの? 仕事も大きいプロジェクト任されたってこの前言ってたじゃない。別に男なんかに頼らなくたって…――」
「違うの、紫保。経済的に結婚したいんじゃないわ。まぁ、確かに彼、お金持ちよ? …でもね、あんな風に告白されちゃったら、ね」
有紗は照れ笑いしながら缶チューハイのプルトップを引き上げた。
「このヒマワリは僕たちが初めて一緒に咲かせたヒマワリの末裔なんだよ。キミとまたここで暮らせる日を夢見てずっと育ててきたんだ…だってさー!! えへへっ」
――バカじゃないの…。
紫保はいつも、男が嫌いで仕方なかった。男に媚びる女も、女に媚びる男も毛嫌いしていた。
――だから傷付くのに…第一、パパのこと、そんな簡単に裏切れちゃうの…?
門を開くと、自転車にまたがった男子と、もう一人の男子が突っ立ていた。
「え、あっ」
自転車に乗っていた男子は、もう一人を残して坂を下って行った。
「それ僕の自転車っ」
残されたもう一人は下って行く男子に向かって叫んだ。
「あの…人の家の前で一体何を…」
男子は顔を赤らめてTシャツの袖で顔の汗を拭いた。
「すみません、えっと、僕達、染谷先生に絵を教わってる者で…」
「…お父さんの教え子さん?」
「お、お父さん!?」
「あ…その、うん、娘の紫保です」
「そっか、そうだったんだぁ。ここの近所の人が若い女の人が出入りしてるーなんてウワサしてたから、てっきり…」
「あはは、それきっとお母さんのことね…」
童顔な有紗は年の割に若く見えるようだ。
「僕、尾谷泰彦。さっきのは宇波猶臥っていうやつで、僕たちこの坂の下の方に住んでるんだ」
――尾谷くんと…宇波くん、か。
「えっと、私は綾瀬紫保。事実婚って言うのみたいだから籍は入れてなくて苗字違うの」
「そうなんだ、ちょっと複雑だね」
泰彦が頭を掻きながら坂の下を指す。
「…案内しようか?」
ポケットからケータイを取り出す。時間は十分にあるようだ。
「お願い」
「あ、猶臥!」
坂の下方の木陰で自転車を止めて待っていた猶臥が、しゃがみながらケータイをいじっていた。
「げ、オンナ…――」
猶臥が走ろうとする。それを泰彦が捕まえた。
「何で逃げんのー…さっきまで好奇心いっぱいだったのお前じゃんかよー…」
「いやいやいや、先生の彼女があんな若かったら引くって! 幻滅だってば!」
――この人たち、お父さんに憧れてるみたい…?
「違うってさ、娘さんだって!」
「ハァッ!? 娘!? 先生って子供いる年かよ!? しかも俺たちと同じぐらいなんだぜ!?」
「あの…誤解してるみたいだけど…」
「うわあああああ喋んなあああああああ!!! どんどん俺の理想が崩れるだろおおおおおおお」
――この子アタマ大丈夫?
「綾瀬さん、ごめん、こいつ興奮すると手に負えなくて!」
「う、うん…」
紫保がそっと猶臥に歩み寄る。
「な、なんだよ! そんな見んじゃねぇよ!」
「宇波猶臥…だっけ? …名前」
「ま、まぁな」
「私、宇波くんみたいな人…――」
紫保は言うか言うまいか一瞬だけ躊躇ったが、言うことにした。
「嫌いだから」
そう言い放つと、踵を返して家の方に向かって歩いて行ってしまった。
「何だよ、俺だってお前みたいな泥棒猫嫌いなんだからな!」
――お母さんを盗ったのは誰だっていうのよ…。
やりきれない思いが紫保の腹部で疼いた。