氷の辺境伯は後悔しない ~婚約破棄の夜会を、私は柱の陰から見ていた~
短編『婚約破棄は受理できません』の番外編です。あの夜会を、柱の陰から見ていた男の話。
本編未読でも読めますが、先に本編を読むと二割増しで楽しめます。
書いてみて分かったんですが、この人、思っていたより重症でした。
私は、感情の起伏に乏しい。
そう自覚したのは七歳の冬だ。父の戦死の報せを聞いた瞬間、悲しみより先に「では次の指揮官は誰か」と考えた。周囲は私を気丈と呼んだが、違う。単に、悲しみが遅れて届く体質なのだ。三日後の夜、一人で厩の藁に埋もれて泣いた。
誰も知らない。
以来、感情が遅れて届くことを前提に生きてきた。即断が必要な戦場では、これは美点ですらあった。社交界は私を「氷刃卿」と呼ぶ。構わない。誤解は盾になる。
その盾が、王家の縁談三件を防げなかったのだから世話はない。
*
建国記念の夜会に出たのは、三件目の縁談を断る算段のためだった。壁際の柱の陰。ここは音が良く集まる。誰がどの派閥と踊るか、観察するには最上の席だ。
「エルシャ・グラン=アルディス! 貴様との婚約を、この場で破棄する!」
第二王子の声が弦楽を割った。
ああ、始まったか、と私は思った。王都に着いた時から兆候は見えていた。王子と男爵令嬢の噂。アルディス公爵令嬢への根も葉もない中傷。筋書きの雑な芝居だ。
気の毒に、と柱の陰で他人事のように令嬢を見て——私は、少し姿勢を直した。
彼女は、笑っていなかった。泣いてもいなかった。
扇を閉じ、完璧な角度で一礼して、こう言ったのだ。
「殿下。まず伺いますが、理由をお聞かせいただけますか」
声が、震えていない。
それどころか、その後の彼女は証言の書面の有無を問い、契約書の条文を引き、王子が写しを破ろうとして破れない(あれは後で本人に聞かねばなるまい)一幕を挟んで、慰謝料と名誉回復と——聖痕の鑑定。三つ目の条件が出た瞬間、男爵令嬢の顔から血の気が引くのを、私は柱の陰から見ていた。
断頭台ではなく、逃げ道を残した刃だった。目的のために復讐心を切り捨てる判断力。十一年分の準備を一晩で仕上げる実務能力。そして最後、署名を終えた彼女が浮かべた笑顔。
あれは社交用の顔ではなかった。
檻から出た者の顔だ。
私は知っている。長い遠征から領地に戻った朝の、私の顔と同じだった。
気づけば夜会は終わっていて、私は縁談を断る算段を一つも進めていなかった。珍しく、感情が遅れずに届いていた。
届いた感情の名前が、分からなかっただけで。
*
二週間後、私はアルディス公爵家の応接間にいた。
「単刀直入に申し上げる。エルシャ嬢、私と婚約していただきたい」
断られた。恐ろしく速かった。0.2秒というのは体感ではなく、本当にそのくらいだったと思う。
構わない。想定の内だ。求婚ではなく契約の提案だと告げ、条件を並べた。期限一年。報酬は相場の倍。王家の縁談を防ぐ盾。
彼女の目の色が変わったのは、報酬の話ではなかった。
「北の領地は帳簿が焦げ付いていて」
そこだった。焦げ付いた帳簿、の一言で身を乗り出す公爵令嬢を、私は初めて見た。変わった人だ、と思った。それから、その変わり方は嫌いではない、とも。
「失礼ですが閣下、ご趣味は?」
「帳簿だ」
「は?」
「いや、違う。趣味を持つ時間があれば帳簿を締めている、という意味だ」
……なぜああ答えたのか、今でも分からない。趣味を問われて経理を答える貴族がどこにいる。言い直したが遅かった。彼女は真顔で頷いていた。たぶんあの瞬間、私は「会話の下手な雇い主」として分類された。概ね正しい分類なので、抗議はしない。
「条件を詰めましょう。契約書はこちらで起草します」
「話が早い」
交渉は一時間で終わった。彼女の起草する条文は美しかった。無駄がなく、抜け穴がなく、双方の退路が対等に確保されている。戦場の布陣図に似ていた。
署名の直前、私は言った。
「第七条を足していただきたい」
「伺います」
「本契約は偽装である。従って、いずれの当事者も、契約期間中に相手方へ本気の恋愛感情を告白してはならない——と」
彼女は一拍おいて、「そんなの、わざわざ書かなくても」という顔をした。書き足して、署名した。私も署名した。
なぜあの条項を入れたのか。
彼女は恐らく、私が事務的な人間だから入れたと思っている。そう思われている方が都合がいい。
本当の理由は、こうだ。
私は感情が遅れて届く。三日後、三ヶ月後、あるいは一年後——あの夜会で届いた名前の分からない感情が、いつか正しい名前で届いてしまった時のために、鍵を掛けておく必要があった。契約に忠実であることだけが、私の取り柄だ。ならば契約で縛っておけば、私は間違えない。
我ながら、完璧な自衛だと思った。
*
その完璧な自衛を、私が世界で一番憎むようになるまで、あと半年もかからないのだが——それはまだ、署名の夜の私の知らない話だ。
北へ発つ日、馬車の隣で彼女は言った。
「閣下。着いたらまず、一番焦げ付いている帳簿から見せてください」
「夫人、その前に屋敷と使用人の紹介が」
「帳簿から」
「……帳簿からにしよう」
交渉には、負けた。
この一年、どうやらそういう一年になるらしい。
悪くない、と思った。
感情は、珍しく遅れずに届いていた。
(了)
お読みいただきありがとうございました。氷の辺境伯、中身はこんな男です。
本編『婚約破棄は受理できません』が想像以上に多くの方に読んでいただけていて、正直、驚いています。ブックマークも評価も感想も、全部見ています。ありがとうございます。
二人の偽装婚約生活は、近日中に連載として始める準備をしています。詳細は活動報告でお知らせしますので、少しだけお待ちください。
——一条かすみ




