第85話 賭け
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リシュールが早朝に訪ねて来た同日、夜が深まったころにシルヴィスの元を訪れた人物がいた。
部屋のドアを急かすように叩く音がしたので、シルヴィスがドアを開けると、そこには仏頂面をしたクモイが立っていた。
その顔からは、「何故呼び出した」という苛立ちが手に取るように分かる。
この日、シルヴィスはリシュールを帰したあと、御令嬢の誕生日会に行く前に、魔法でクモイに「リシュールのことで話したいことがある。今夜来るように」と「〈手紙〉」を送っていた。
彼らの場合の「〈手紙〉」というのは、紙に要件だけ書いて魔法を掛けると、鳥のような形となり、その名の如く飛んで相手に届くというものだ。クモイをはじめ、魔法使いの仲間に連絡するときは、お互いこの手段をよく用いる。
そのため、受け取ったクモイはシルヴィスの元に訪ねてきたのだった。
呼び出されたほうは不機嫌だが、シルヴィスは気にした風もなく「入ったら」と言った。クモイは、じろじろとシルヴィスの姿を見たあと、三歩だけ進んで部屋に入る。
「何だ、そのみっともない恰好は」
シルヴィスがドアを閉めると、クモイはむっとした表情で言った。
彼が指摘したシルヴィスの格好というのは、日中に御令嬢の誕生日会に出席した状態ではあったが、まとめてあった髪は崩れ、背広とベストは脱いでいる。また、ネクタイも結ばれておらず、襟の間を通して首に掛けてあるだけだった。
その上、襟シャツ(ワイシャツのこと)の第一、第二ボタンは外されているので、あまりの体裁の悪さに、クモイは辟易したようである。
だがシルヴィスは悪びれもせず、事情を説明した。
「ひと仕事終わったあとに、仕方なくあんたを待っていたんだ。とりあえずシャツを着ているだけいいとしてくれよ」
「仕方なくって……呼び出したのはお前だろう。その上、着崩れしておいてよく言う」
クモイは大きくため息をつくと、さっさと部屋の中央に移動し、コートを着たままラクチュアに座る。リシュールがいつも座っている席を避けたところを見ると、クモイは己の主人がここに通っていることを魔法で調べていそうだと、シルヴィスは思った。
それならば下手に探りを入れる必要はない。
シルヴィスは単刀直入に、クモイに尋ねた。
「あんた、知っているんだろ。このひと月、リシュが仕事から帰ったあとここに寄っていること」
「……」
クモイは微動だにしない。
ドア付近に立っているシルヴィスからは表情も見えないので、彼は右側の壁伝いに移動し、クモイの真正面の辺りまで来ると立ち止まる。
だが、意外にも顔に浮かぶのは疲労の色だけで、さっきのような苛立ちすらも消えており、ただ話を静かに聞いていた。
それを見て、シルヴィスは話を続ける。
「ずっと挿絵を描いてる。ずっとだ。帰るのは夜の九時ごろだぞ。『クモイが心配するだろ?』と聞いても、『最近帰りが遅いから』としか言わないんだ」
「……」
「聞いているのか、カイル」
「だから、その名で呼ぶなと言っているだろう」
シルヴィスがクモイの昔の名で呼ぶと、クモイは反射的に返事をした。
「何だ、聞こえているんじゃないか」
シルヴィスは腕組みをして、背を壁にもたれた。
「俺は心配しているんだ。リシュがあんたと生活し始めてから、初めてこの部屋で会ったとき、リシュは屋根裏部屋で生活していころより体に肉がついて、血色も良くなって安心していた。それなのに最近はどうだ? 前のように痩せてきている。俺が店のものを持ってきても食べない」
「……何がいいたい」
「あんたが焚きつけたんだろう」
するとクモイは、何をおかしなことを、と言わんばかりに鼻で笑った。
「焚きつけた? 人聞きの悪い。私は特に何か言った覚えはない」
「だったら、何故リシュは焦るようにして描いている? 俺は言ったんだ。数年かかってもいいって。それなのに毎日、毎日、神経をすり減らすようにして描いているんだ」
するとクモイはシルヴィスを睨むようにじっと見ていたが、何も答えない代わりにふいっと視線を逸らす。
「……」
「まただんまりかよ」
シルヴィスはため息をつくと、壁際から移動し、いつも自分が座っているラクチュアにどかっと腰を下ろした。
「あんた、俺に言ったよな。『絵本を作ろうって言い始めてから、随分と時間が経ってしまった』と。だから『数年延びたって、大したことない』って。それなのに今更急いでリシュに作らせて、あの子に大変な思いをさせてどうするつもりだ。まさか本当に、挿絵を描いてもらったらリシュから離れる気か? その気持ちを察したリシュが、急いで挿絵を描いているっていうのか?」
シルヴィスの追及は止まらない。
「あの子は優しいからな。クモイのためを思ったら、自分の気持ちを押し殺すこともいとわないだろう。なあ、人の気持ちを弄んで満足か」
まくし立てるシルヴィスに対し、クモイは長いため息をついて、面倒そうに答えた。
「私は約束しか守ることができない」
だが、その脈絡のない答えに、シルヴィスは眉を寄せた。彼に約束を守らせているとしたら、シルヴィスが思い浮かぶのはただ一人しかいない。
「マリとの約束か? 何故、そこまで死者にこだわる。絵本ができれば、あとは魔法具を探すくらいだろう。それだったらリシュの傍にいながらでもできるはずだ」
シルヴィスはリシュールのことを思ってクモイを説得したが、彼はただぽつりと「死者じゃない」と言った。
「……は?」
意味が分からずシルヴィスが不快な声で発すると、クモイはもう一度長いため息をついてから言った。
「私は賭けをしている」
シルヴィスは訝しげな表情を浮かべた。
「賭け? 誰と?……まさか、マリか?」
だが、それにクモイは答えなかった。
「……とにかく時間がない。悪いが、挿絵が描き終わるまでリシュの面倒を見ていてくれ。多分、あの子のことだから、夜に部屋の明かりがついていると私が心配すると思って、お前のところに来ているのだろう」
クモイはラクチュアから立ち上がると、さっさとドアのほうへ歩いて行ってしまう。
「ちょっと待て、ちゃんと説明しろ」
「説明しなくても、挿絵ができあがったときに全て分かる」
淡々とした声でそう言うと、クモイはシルヴィスの部屋を出て行ってしまった。
「……」
残されたシルヴィスは、ラクチュアから立ち上がり唖然としていたが、彼の言った意味を理解したとき、シルヴィスができたことは「じゃあ、今夜全て分かるってことか……?」と独り言ちることだけだった。




