第77話 小さな変化
「大丈夫?」
リシュールはそう言って、ラクチュアの傍に膝をつき、クモイの顔を覗き込む。
「……はい」
うなずくクモイの灰色の瞳には疲労が滲み、額の辺りの髪は、汗に濡れたせいで貼り付いていた。相当嫌な夢だったのだろう。
「すみません、お見苦しいところをお見せして……」
クモイは小さくなってまた謝った。
「だから、謝らないでいいって。僕は気にしていないから」
「ですが……」
何を言っても態度を崩さないクモイに、リシュールは小さくため息をつくと、立ち上がる。
「リシュ……?」
「クモイのことは心配だけど、もし一人でいたいなら僕は部屋に引っ込むよ」
辛そうにしているクモイが我慢することを望んではいないし、できれば頼って欲しいとも思っている。
だが、クモイがリシュールに頼ることを拒むのであれば、自分ができることは暫く彼を一人にしてそっとしておくことや、夕飯の支度をすることだろう。料理は得意ではないが、クモイが調理をしているところを見ているので、何かしらは作れるはずである。
そう思っていると、思いがけずクモイがリシュールを引き止めた。
「お待ちください――!」
リシュールは驚いてクモイを見ると、彼自身もびっくりしていて灰色の瞳を丸くしていた。
「あっ、えっと……」
自分の行動に思考がついていっていないらしい。当惑している様子のクモイに、リシュールは優しく笑った。
「クモイがいて欲しいって思うなら、傍にいるよ。そうだ、お水をもう少しもってこようか?」
クモイは視線を泳がせ、どうしたらいいか戸惑っていたが、もう一度リシュールの顔を見ると、おずおずと尋ねた。
「……いいのでしょうか?」
「もちろん! ちょっと待っててね」
リシュールはそう言って、クモイからカップを受け取ると調理場のほうへ向かう。だが、そのとき一つ思い出したことがあって、クモイのほうを振り返った。
「そうだ、クモイ」
「はい」
「着替えなくて大丈夫?」
「え?」
「汗をかいていそうだから。きっと着替えたらすっきりするよ」
クモイは主人に言われ、自分が着ているセーターに触れる。
リシュールと最初に出会ったころは礼服しか着ていなかったクモイだが、この部屋に越してきてからは、シルヴィスが普段着ているような、小奇麗な服を着て生活していた。
最初は「礼服で過ごします」と言っていたクモイだが、もし同じ建物に住む人物が訪ねてきたときに、クモイが礼服を着た状態で対応することになると、「兄弟で住んでいる」と周りに言っているのに、「兄に召使いのようなことをさせているのか」と変な噂が立ってしまう。
そうなれば住みにくくなるかもしれないと、クモイとの間で話になり、今のような格好をしているのだった。
「……そう、ですね。では、着替えてまいります」
「じゃあ、マントを――」
そう言って、リシュールが調理場にある椅子から濃い灰色のマントを手に取ろうとすると、クモイが「それは必要ありません」と言って止めた。
「え?」
「部屋に着替えを置いてありますので、そちらで着替えてきます」
「あ、そっか……」
クモイは、曖昧に返事をする主人に、軽くお辞儀をして自室に行ってしまう。
「……」
リシュールは、カップに水を入れながら、クモイの変化に複雑な思いを抱いていた。
これまでのクモイは、何でもマントがあれば事足りていたのだろう。
だが、リシュールが防寒具として使っているため、その間はマントから物を取り出すことができなくなる。そのため、必要なものを部屋に置いているのだと思われた。
クモイが、マントだけの生活になっていないことは、リシュールにとって嬉しいことだ。
だがそう思う反面、自分がマントを使うことで、クモイが不便になってはいないだろうかと考えると、胸の奥がちくりと痛むのだった。
クモイが生成り色のセーターに、灰色のスラックスに着替えてくると、彼はリシュールが持ってきた水をゆっくりと飲み干した。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
「……」
「……えっと」
だが、そのあとの会話が続かない。
リシュールはどうしようかとぐるぐる思うと、精一杯自然な風を装いながら、「そうだ!」と言ってラクチュアから立ち上がり、調理場のテーブルに置いていた紙袋を持ってくると再びクモイの隣に座った。
「今日、画材屋に行ったんだよ。それでね、色固を買ったんだけど――」
リシュールはがさがさと紙袋を開き、色固を見せようと思ったが、その前に店員に貰った広告紙が目に入ったので、それだけを取り出す。
「そのとき店員さんと少し話をしてね、広告紙を貰ったんだ。おすすめの画家の個展なんだって。画家の名前は、えーっと、リヒテル・ターナーだって。今の時期はしていないけど、確か……そう、夏の時期って書いてある。今年の夏の時期になったら、きっと開催されるから行ってごらんっていわれたんだよ。だからね、えっと、その……」
「リシュ」
努めて明るく話したつもりだったが、クモイがそれとは反対に静かで、少し強張ったような声で主人の名を呼んだ。
リシュールはどきりとしたが、それでも笑顔を崩さずに「何?」と聞いた。
するとクモイは、触れてはいけないものに触れるように、恐々《こわごわ》とリシュールに尋ねた。
「何故、私がうなされていたのかをお聞きにならないのですか?」




