第64話 シルヴィスとの待ち合わせ
「そうなんだ。ごめん……」
「いいえ、気になさらないでください」
リシュールが謝ると、クモイは主人に余計な心配をさせないように優しくほほ笑む。それにつられて、リシュールも少し笑った。
だが、筆が握れず描けないというなら、リシュールが今見ている絵はどうしたのだろうか。気になったリシュールは、クモイに尋ねた。
「でも、その絵は? どうして持っているの?」
クモイは絵のことを聞かれると思っていたのか、それとも最初から話そうと思っていたのか、すぐに答えてくれた。
「『絵の依頼を断る代わりに』と、その人からいただいたのです。私がこれから絵を描いてもらう人に依頼するのに、何かイメージがあったほうが擦り合わせができるだろうと、その人が昔、描かれたというこれらのスケッチをくださいました」
「そっか……。良い人だね」
「……そうですね」
リシュールはテーブルに並べられた絵をじっくりと見る。
正直、ここまで上手い絵を描けるかは分からなかったが、クモイの頼みだ。リシュールは何とか力になりたいと思っていたので、頑張ってみようと思った。
「じゃあ、その人に代わって、僕ができるだけのことをするよ。こういう雰囲気の絵を描いたらいいんだよね?」
するとクモイの表情がぱっと明るくなる。
「はい」
「描く枚数は?」
「七枚ほどを考えています。場面は――」
こうしていよいよ、リシュールの挿絵の制作が始まったのだった。
*****
「本日もお疲れ様でした。ありがとうございました」
「おう、また明日な」
リシュールは職人に挨拶すると、お昼ごろに仕事場の靴の修理屋から外へ出る。すると、きん、と冷たい空気が頬に触れた。
冬の寒さが厳しいアルトランでは、防寒具なしに外を出歩くのは危険である。そのためリシュールも帽子や手袋をし、マントも羽織っているが、頬だけはどうしても隠すことができないので、直接冷たさが肌に当たってしまうのだ。
「……寒っ」
リシュールはマントの前見頃の辺りを内側から掴んで、冷たい風が入り込まないようにする。そしてその足で踏み固められた雪の上を歩き、シルヴィスの店がある方向へ向かった。
修理屋の仕事は週六日制なのだが、その内の二日間が昼までの勤務になっている。そして今日はその昼までの勤務であるため、シルヴィスと昼食を食べる約束をしていたのだ。
シルヴィスと初めて会ってから、三週間近く経とうとしている。
その間に、彼がリシュールとクモイの家に何度か訪れたが、食事はまだしていなかった。
理由はクモイが「シルヴィスに料理を出したくない」「一緒に外食に行きたくない」と嫌がったからなのだが、リシュールとしてはどうしても絵本の挿絵を描く上でシルヴィスだけに聞いておきたいことがあったため、ひどく心配するクモイを説得して、彼と二人で食事に行く約束をしたのだった。
シルヴィスとの待ち合わせの場所は、彼の店の通りにある、「ハレリア」という店である。灰色のレンガで作られたその店には、通りに面した側に大きな窓ガラスがあり、そこに白い文字で大陸語で「ハレリア」と書いてあるのが特徴だ。
リシュールが「ハレリア」の近くまで来たときだった。店の向かい側の道に小さな人だかりができ、女性たちの、きゃっ、きゃっ、という明るい声が聞こえてくる。
何だろうと思い、今度は店側のほうに目を向けると、女性たちの視線の的になっていたのは、帽子を被り黒い毛皮を纏ったシルヴィスだった。
「シルヴィスさん⁉」
思わず声を出すと、空に目を向けていたシルヴィスが気づいてくれる。そして軽く手を挙げたあと、爽やかな笑みを浮かべながらリシュールのほうへ歩いてきた。
「やあ、思ったよりも早かったね」
白い息をはきながらそう言う。
「……あ、えっと、お待たせしました」
リシュールはそう答えながら、シルヴィスの後ろをちらと見る。
すると向かいの道にいる人だかりを作っている女性たちは、こちらの様子を伺うようにじっと見ていた。
「どうかした?」
「……いえ、その、別に……特には」
何といっていいか分からず曖昧に答えると、シルヴィスがリシュールの視線を追って、その先を見る。すると、また黄色い声が反響した。
「ああ、あれか。気にしなくていいのに」
「気にしているわけではないんですけど……」
ただ驚いたのである。
確かにシルヴィスの見目の良さからすると、女性が惹かれるのも分かるが、まさかこんな風に人だかりになるまでとは思わなかったのだ。
「都会ではよくあることさ」
「よくある……? でも、リルサを食べたときは、特にこういうことは起きませんでしたよね?」
「人は止まっているものを見たくなるんだよ」
あの日のことを思い出してみると、確かにシルヴィスはリシュールを追いかけて走ってきているし、そのあともリルサを買って、さっさとリシュールたちの家に行っている。
「分かるような、分からないような……」
「そんなことより、ここは寒いから中に入って温かいものを食べよう。何でもおごってあげるよ」
そう言ってシルヴィスがリシュールの傍に寄り、背中を押してくる。すると再び黄色い声が聞こえた。
「……」
事情はよく分からないが、とにかくシルヴィスの一挙一動に、女性が反応していることだけは分かった。
「……」
リシュールはどうしたらいいのかよく分からず、されるがままになっていたが、このときになって初めて、クモイがシルヴィスとの食事を避けたがる理由が分かった気がした。




