第47話 クモイの本当の名前
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「リシュ!」
クモイが椅子から立ち上がり、ドアのほうを向く。だが、リシュールがその声に振り返ることはなかった。
「出て行っちゃったな」
シルヴィスは茶化すように言った。
「あなたのせいでしょう」
クモイは振り向き、低い声で非難した。するとシルヴィスは笑いを引っ込めて、呆れたように言い返す。
「言わなきゃ利用していることと同じだぞ」
「……」
痛いところを衝かれたのだろう。クモイは不快な表情を浮かべると、踵を返して部屋から出て行こうとする。シルヴィスは、慌てて椅子から立ち上がり、彼の手首を掴んだ。
「ちょっと待て、どこへ行く」
「追いかけるんです。放してください」
「駄目だ」
クモイは振り払おうとするが、シルヴィスの掴む力は思った以上に強く中々離れてくれない。
「今、クモイがリシュを追いかけて何を話す? 『騙していてすみませんでした』と謝るのか?」
その言葉にクモイはカッとなって強く言い返した。
「私は騙してなどいません!」
「さっきお前が、リシュに『謝る』と言っていたじゃないか」
「それは『話していなかったことを詫びる』と言ったのです」
「屁理屈だな」
クモイはシルヴィスを睨め付けたあと、ふいっと顔をドアのほうに向けた。
「何とでもおっしゃってください。それより私はリシュのところへ――いい加減に放してください! これは私とリシュの問題です!」
「いやだね」
しばらく抵抗していたが、シルヴィスのほうが力が強かった。解くのは無理だと分かるとクモイは項垂れ、腕に力を入れるのをやめた。
「少しは落ち着いたか?」
「……落ち着いたも何も、別に取り乱してはおりません」
「お前って……、本当にあの子の前だけ愛想がいいんだな」
シルヴィスがクモイの手首から手を離し、やれやれとため息をつく。クモイはむすっとした表情を浮かべ、ぽつりと呟いた。
「嫌われたくないからです」
「もう嫌われているかもしれないけどな」
口元は笑っているが冷眼を向けるシルヴィスに対し、クモイは彼を睨みつける。
「誰のせいだと……」
「いいから落ち着けって。行先は魔法で分かっているんだろう?」
「……」
クモイは黙っている。シルヴィスはそれを見て、「図星」だと思った。
「全く、嫌われたくないとか、誠実でいたいとか、上辺だけもいいところだ。リシュが知ったらどんな顔をするか。トイレに行っていることまで分かるんだぜ?」
「私はシルヴィスと違って、家のどの部屋に入っているかまでは把握していません」
クモイのツンっとした言い方に、シルヴィスは長い息をはいて、呆れかえった。
「まるで俺が、誰かの行動を見ているみたいじゃないか」
「リシュのことを見ていたじゃありませんか。あなたは私よりも長く、それこそ一年前から『ルベル』としてリシュの行動を見ていたでしょう。今の姿とは似ても似つかぬ格好をして」
言葉尻は丁寧だが、中身は毒をはいているかのようである。
だが、シルヴィスは意に返さなかった。肩を竦めると、その理由を説明した。
「もうやってないって。それに、それはあんたに頼まれたからだ。忘れたのか? 魔法で変装するのが得意な俺に嫌な役を押し付けておいて、自分は『そこまでやってません』って自慢するようなことじゃないだろう。ついだからもう一つ文句を言ってやる。下宿屋のおかみに告げ口させやがって、一人で何もできないくせに人の悪口を言うなよな」
屋根裏部屋の下に住んでいた「ルベル」という青年は、シルヴィスの変装姿だった。彼は屋根裏部屋に住むリシュールの様子を、クモイに頼まれてずっと見守っていたのである。さらに、あの部屋から出るための口実づくりに加担していたのだった。
「……勝手に言っていればいいでしょう」
悪態をついたクモイは、先ほどまで座っていた椅子に再びかけると、前かがみになり大きくため息をついた。
他人事だと思っているシルヴィスは、その様子を面白そうに見ながら一言言った。
「なあ、カイル」
だがその瞬間、クモイはその瞳に燃えるような怒りを顕わにする。
「その名で呼ぶな」
怒りのせいか、言葉遣いも変わる。だがシルヴィスは怒りをぶつけられても平然としていた。
「なんでだ。親からもらった大事な名前だろ。あんたが言いたくないんだったら、俺が次にリシュに会ったら話してやる。どうせ自分のことは何も話していないんだろう? 人の過去を調べつくしてよく言う」
「カイル」とは、クモイの本当の名前である。
リシュールには「忘れた」と言っておきながら、彼は自分の過去の名前を憶えていたのだ。
「『クモイ』という名が気に入っているんだ。それ以外で呼ばれたくない」
言い返されたが、シルヴィスはさらに突いた。
「あっそ。どちらにしても、何も知らないで挿絵を描く手伝わなくちゃいけないなんて、リシュがかわいそうだ。あの子が前のような腹黒い強欲の主人だったらいいが、優しい素直な子じゃないか」
「……」
五十年前までのクモイは、人の中で生活するとき「魔法を使わない」ようにしてきた。
しかし、魔法を使わずに、自分が理想とする絵を描いてくれる絵描きを探すには容易なことではなかった。
どうすれば、「絵描き」を見つけることができるのか。
色々と考えた末に、絵描きのパトロンをしている人物が一等執事(主人の世話をする者)の職に就いたことがあった。絵描きの伝手ができることを期待してのことである。
だが、その主人はシルヴィスの言う通りで欲が深く、毎日女と酒に酔っていた。
クモイがこの主人の本性を知ってから、度々「辞めたい」と願い出たが、中々聞き入れてもらえなかった。




