九話 穢れ湯の向こう(後編)
紅葉さんは深く息を吐いて、湯船の縁で掌を合わせた。湯船からの湯けむりが一瞬、静止したように見える。
「鈴子、湯船に入ってみて」
「は、はい」
紅葉さんに言われるがまま、湯船に入る。
腰まで沈めたところでよく知った湯船の中だけど、何か違和感があるのが分かった。
「鈴子。目を閉じなさい。目ではなく、あなたの中にあるスキルで湯の奥深くを見てごらんなさい」
言われるままに瞼を閉じると、自分の呼吸だけが、やけに大きく聞こえた。
やがて、光が見えた。
うねうねとした矢印のように湯船の中を進む光はまるで縄のように何かを縛り上げた。
それは人の形をしているようでもあり、ただの影の塊のようでもある。
動かない。けれど、確かに“何か”がそこにいる。
「――見えたのね」
紅葉さんの声が、遠くから響く。
ゆっくりとさっきより深く体を沈める。お湯は表面こそいつもの温度だが、肘から先、胸のあたりに触れた瞬間、私の脳裏にたくさんの記憶の断片が押し寄せた。
小学校の入学式、両親が仕事で来られなくて代わりにおじいちゃんとおばあちゃんが来てくれて、嬉しかったけど、嬉しさと真逆に感じた寂しさ。
小学生の頃、同じクラスの男子に意地悪されて悲しかったこと。
友達が内定の報告をしてきた時、スマホの画面を見つめて震えた手。
私は誰にも選んでもらえないんだという、圧倒的な置いてきぼり感が胸の奥でぎゅうっと黒い塊になる。
それを縛るのは光の縄だ。
これは、私の中にあるものだ。
私の中にある穢れを否応なく見せられる。
私の中のどろどろした穢れが、その全部が、水面の底で小さく揺れている。
それは“私”の嫌なところだった。嫉妬、焦り、諦めかけた気持ち。目を逸らしたくなるような弱さが、そこにあった。
「受け止めなさい。それもあなたよ。全部あなたを作るもの」
紅葉さんの声は厳しくもあたたかい。
「それを光の縄ごと断ちなさい。大丈夫、鈴子ならできる」
「……できますか?」
私の弱々しい呟きに、紅葉さんが湯船の外から私の頭のてっぺんを撫でてくれる。
「できるわ。だってあなたは私が名前を与えた愛し子だもの」
「え……?」
「あとで説明してあげる。だから今は先にやる気べきことをやりなさい」
私なら……できる?本当に?
ぐっと湯船の中で拳を握る。
「そう。想いを拳に集めて」
お湯の中だから、ってだけじゃなく、拳が熱を帯びてくるのが分かる。
この熱は私の武器だ。
指の間からじんわりとお湯よりも熱い、燃えるような温かさが溢れてくる。
胸の奥の不安や焦り、私の「穢れ」が、その熱に引き寄せられて、ぎゅっと小さくまとまっていく。
「想いを、声に出してごらんなさい」
紅葉さんの優しい声に導かれて、私は唇を震わせながら、震える声で言った。
「私だって……悔しい。羨ましい。寂しくて仕方ないことも、逃げたくなることだってある。けど、私は諦めるのは嫌。選ばれなくても、私は私の道を自分で選びたい……!」
その言葉が湯の中で波紋になり、光の縄が少しだけ揺れた。縄の表面に、小さな亀裂が入る。
亀裂は言葉の振動を追って走り、暗い塊をどんどん暴いていく。
私の穢れを私の力が暴いていく。
「そのまま拳を放ちなさい。怒りや悲しみをぶつけるんじゃない、あなた自身の生んだ穢れを受け止めるために」
私は深く息を吸って、肩の力を抜き、拳をゆっくりと湯船の中に突き出した。
湯の中を進む光の縄に向かって、全身の想いを一点に集めるように。
――衝撃は、波のように広がった。
拳が斬撃になり、光の縄がぱちりと弾けた。縄は泡となって湯の表面に散り、薄く白い霧に変わりながら、ふわりと消えていく。
お湯に感じていたぬるぬるした嫌な感じがなくなったのが分かった。
視界の端に数字がゆっくり浮かぶ。
〈銭湯スキル Lv.3 → Lv.4〉
胸の中にぽっかりとした空洞ができたようで、同時に何かが緩やかに解けていく感覚がした。涙が熱い湯にぽたりと落ちる。恥ずかしいほど弱い自分の一部を、私は確かに受け入れたのだ。
しかし紅葉さんは首を振らず、むしろ目を細めてもっと深く頷いた。
「まだ、半分よ。5まで上げるわ。そのために自分の“縁”のひとつを手放さなければならない。あなたの中にある寂しさを奥深くまで開帳してみなさい」
紅葉さんに言われるまま「開帳」と呟くと湯の底から、また別の光が立ち上がる。今度は私の幼い頃の姿だ。
いくつくらいだろう。
小さな手にきつく持っているのはお母さんが買ってくれた人形。あの頃は両親がものすごく忙しくて、でも一緒にいたいって言えなかった。
幼いながらも両親が私のために頑張ってくれていたことは分かっていたから。
どうしても離せなかった“安全”の象徴。私がそれを握りしめている限り、前に進むエネルギーは無条件に消耗されてしまう。
恐怖がほんの一瞬、胸をよぎる。失うことの痛みは、斬ること以上に怖い。けれど、紅葉さんが私を見つめる目には、疑いはない。そこには信頼しかない。
「手放す、と言っても忘れるわけじゃない。ここにある想いは、あなたの心の栄養になる。形を変えて持っていきなさい」
私は幼い私ごと人形を抱きしめた。ああ、寂しかった私がここにいる。さみしいって言えなかった私に今の私が言えることは一つだ。
私は過去の自分に「ごめんね」とだけ言った。
私自身が、あの頃の私の寂しさを忘れてしまっていてごめんね。
次の瞬間、幼い私は人形を手放し、人形は湯に沈んだ。一度沈んだ人形は水面に浮かびあがり、泡となり、淡い光を放って溶けていった。その光が、湯全体を金色に染める。
視界が温かい光で満たされ、身体がふわりと軽くなる。耳の奥で、風鈴のような透明な音が鳴った。
〈銭湯スキル Lv.4 → Lv.5〉
湯けむりが黄金色に輝き、浴室全体が柔らかな祝福の光に包まれる。その輝きは紅葉さんの目の色に似ていた。
「よくやったわ、鈴子。さすが私の愛し子ね」
その言葉が、私の胸に深く落ちる。力を得たというより、どこかに帰ってきたような不思議な安心感が広がった。
湯から上がると、外の世界の色が少し鮮やかに見えた。スマホの画面に届くお祈りメールの無情な通知の文字列も、どこか遠くの世界からのようだ。
紅葉さんが私の肩にそっと手を置く。
「さて、これで一段落。よくやったわ、鈴子。」
私は微笑んだ。胸の中に、まだ残る小さな痛みはあるけれど、それはもうさみしいものではない。自分で抱え、溶かし、また育てていけるものになっていた。
「あ、そうだ!紅葉さん!紅葉さんが私の名を授けたってどういうことですか!?」
現実に引き戻されて、一番気になっていたことを叫んだ。
「あら、私、そんなこと言ったかしら?」
「……うわ、ごまかそうとしてる!ずるい!!ずる狐!!」
「ちょっと、神に向かってずるいって何よ、祟るわよ」
「だってずるいです!」
「あーもうしょうがない子ね。今度教えてあげるわ」
「今度じゃなくて今!」
「欲しがりすぎるのはよくないわよ」
その時の紅葉さんの何とも言えない笑みは私の知らない「向こう側」の笑顔だった。




