七話 還る場所へ
翌日、私は今日も湯けむり庵に来ていた。
昨日のお焚き上げの台がまだ中庭にあって、少し灰が残っていたので、灰をお守り袋に入れてみた。
紅葉さんもきっと役に立つわ、と太鼓判を押してくれた。
その時、ふと変な感じがして注意してると、湯けむり庵の縁側に映った自分の影が、ふと伸びる方向と違うところで微かに揺れた。
「……ん?」
影の端に、子どもの小さな姿のようなものがちらりと見える。
すぐ消えたけれど、背筋にひんやりとした感覚が走った。
「鈴子、気づいたかしら?」
後ろから紅葉さんが現れる。
「幽世と現世の境が少し揺れているの。今見えたのはいたずら好きの影坊主。普段ならこちらに来ることのない怪異なんだけど、昨日のお焚き上げで幽世の堺の流れが動いたせいかもしれないわ」
「境が動いてる……?」
「そう、幽世と中ツ国……中ツ国って言うのはこの人間たちが暮らす世界のことなんだけどね。その境が少し揺らいでる。文太も茜たちも何やってるのかしら。ちゃんと締めておかないといけないって言ってあるはずなのに」
「それ、何が起きてるか直接ひいおじいちゃんに聞いたりできないんですか?」
「ちょっと鈴子!それいい提案だわ!思いつかなかった!」
紅葉さんが私の手を取り、連れられるまま女湯の洗い場へ行く。まだ開店前なので誰もいないけれど、鏡の前に座ると紅葉さんが私の後ろから手を伸ばしてきた。
「文太。文太、聞こえる……?」
紅葉さんの呼びかけに応えて、ひいおじいちゃんが鏡に映った。
「おう、紅葉」
「おい、紅葉、じゃないわよ。そっちの締めはどうなってるの?こっちとの境が薄れて、怪異が流れ込みまくってるわよ!」
「え?いや、そんなはずは……。縄は締まったままだぜ?」
ほら、とひいおじいちゃんが、背後にある大きなしめ縄を見せてくれた。
「本当ね……ほつれた感じもないわ。だとしたら、原因はこちらにある……?」
紅葉さんが考えている表情が鏡に映っている。その整った顔立ちが真剣に悩んでいるのは、割と見惚れてしまう。
「鈴子、昨日、迷い火を斬った時、変な感じしなかった?」
「変な感じ、ですか……?」
思い出してみる。
ええと……あの時は……。
「斬った後、青い火が燃え上ったじゃないですか。その時、線香みたいな匂いが広がっていくのが分かりました」
「そう……それだけ?」
紅葉さんが少し首をかしげる。金の瞳がじっと私を見つめる。
「えっと……あ、でも……火が燃え上がった瞬間、なんだか体がちょっとふわっとした感じになって……風に紛れてしまうような……」
私は言葉を探しながら続ける。
「なるほど……やっぱりね」
紅葉さんが小さく息をつく。いつの間にか頭の上に出ていた狐耳がぴくりと跳ねる。
「迷い火の一部が完全に幽世に還らず、中ツ国側に残ってるのよ。だから、境界が微かに揺れて、鈴子の影も変な方向に動いたの」
「え……じゃあ、あの小さな子どもの姿……影坊主……でしたっけ?」
「そう、そのいたずらっ子も境界に引き寄せられたのね。悪さをするつもりはないけど、ここに残るとちょっとやっかいなの。鈴子、さっき中庭でお守りに残りの灰を入れてたわよね?」
「あ、はい。ここにあります」
ポケットから出して見せると、紅葉さんが灰を鑑定しろと言う。
言われた通り、お守り袋を掌に載せて「開帳」と呟くと、鏡に鑑定結果が浮かんだ。
魔よけの札のお焚き上げの灰
紅葉の眷属の力が宿る
境界を見つける導きができる
幽世側の鑑定も灰の導きで可能
って幽世側の鑑定って何それ。
私の表情の疑問に気づいたらしい紅葉さんが、あ、もしかして、と呟くのが聞こえた。
「鈴子。その灰をちょっとだけ鏡に塗ってみて」
「あ、はい……」
指先に出した灰を鏡にこすりつけると、柔らかな青い光を放ち、鏡の中にスルスルと入っていく。
「文太、その光の先を断ち切って」
光はまっすぐにしめ縄に向かっていく。そしてしめ縄の中に入り込んだ。
「って、そういうことかよ!」
ひいおじいちゃんが槍を振りかぶって、しめ縄を真っ二つにする。
すると、しめ縄の中は燃え燻ぶっていて、燃えているところは焦げて空洞になっていた。
「ここに隙間ができてたのか。わりぃ、紅葉、気が付かなかった」
「これは気づくのは難しいわ。気にしないで、文太。鈴子のおかげで早めに分かったんだし」
紅葉さんが自分の髪の毛を何本か抜いて鏡の中へ流し込む。
「文太、応急処置だけどそれを使ってちょうだい」
「おう、ありがとよ」
ひいおじいちゃんが紅葉さんの髪の毛をしめ縄に括り付けると、ふんわりとした青白い光がしめ縄を包み込んだ。
「さて、鈴子。それじゃ行くわよ」
「え?」
「おそらく、残っている迷い火がまだいる。境をこれ以上広げる前に還さないと」
紅葉さんは私の肩に手を置き、少し笑みを浮かべる。
「鈴子、今度は灰の導きに従って、迷い火の在処を探すの。鏡に光を通して、あの揺れていた影坊主を追いかけるのよ」
私はお守り袋の灰を慎重に鏡に塗る。
すると、青白い光が鏡の中で柔らかく揺れ、そこに映し出された縁側の影の端から、まるで霧のように伸びていく。頼りない光の先には、先ほどちらりと見えた子どもの小さな姿……影坊主が微かに光を反射して揺れているのが見えた。
「そこよ、鈴子」
紅葉さんの声に合わせ、私は「開帳」と呟く。すると灰の光が影坊主に絡みつくように伸びていき、その先にある光の塊を捕まえた。
「逃げられないように、光で道を作るの。影坊主、迷い火、怖がらなくてもいいわ。あなたたちはちゃんと幽世に還るだけだから」
影坊主は一瞬戸惑ったように立ち止まるが、迷い火が影坊主を包み込むようにぐるぐると回り、二つの怪異は同じ方向を進み始めた。
ああ、影坊主も迷い火も、ただの迷子だったんだ。
じゃあ斬らなくてもいい。無事に還れればそれでいい。
「紅葉さん」
「なぁに?」
「斬らなくても還すことができるのなら良いですね」
私の言葉に、紅葉さんがきれいに微笑む。
「そうね。本来なら幽世で静かに暮らすのが、彼らには一番いいのよ」
ならこちらに来てしまう彼らを還すのが私の仕事。
紅葉さんと一緒に。
還っていく青い光を見つめながら、いつの間にか私と紅葉さんは手を繋いでいた。




