三話 頑張ること
相変わらず私の元にはお祈りメールばかりが来る。もうそろそろ新規のエントリーもしんどくなってきた。
周りがすでに就職内定を決めた友人たちばかりだからなおさらだ。
「鈴子、まだ決まらないの?」
友人の美香が学生課の机に突っ伏す私の肩を叩く。
「うん……」
「ねえ、ちょっと気分転換しない?新しいカフェ行こうよ、奢るから」
「それって……」
「そう、鈴子があそこのパフェ食べたいって言ってたとこ」
「え、行く」
二人で大学を出たところで、門の外側であの人が私を待っていた。今日は男型で、黒いラフなパーカーにジーパンを完璧に似合う感じで着こなして、門を行く女子たちがちらちら見てる。いや、チラチラ見た後、振り返って二度見してる子ばっかりだ。なんで今日はイケメンバージョンなの。
「ああ、鈴子」
やめて、名前呼ばないで。みんなめっちゃこっち見てる。
「良かった、鈴子に会えて」
「……何か御用ですか、紅葉さん」
「ああ。一緒に来てくれるか?」
なんで今日はオネエ言葉じゃないのよ……。TPOってやつ?神様がそういうの気にするわけ?
「ねえ鈴子!誰よ、めっちゃイケメン……!」
美香が目をハートにしてる。
うん、まあ正体知らなかったら、ほんとめちゃくちゃイケメンだもんね、このお稲荷様……。
「えっとね、おじいちゃんの銭湯によく来る常連さんで、昔から顔見知りの……お兄さん……?」
今は、お姉さん、じゃなくていいよね……?
「はじめまして、鈴子の友達?」
「あ、はい!大貫美香っていいます」
「そう。僕は紅葉。鈴子とは昔からのなじみでね。今日は鈴子に用事があって迎えに来たんだけど、君と先約があったかな?」
「いえ!先約なんて程のモノじゃないです!ほら、鈴子、お迎えに来てもらったんだから行かなきゃ!」
美香~~~!!裏切ったなああああ!!
初対面のイケメンに、理解ある友達の振りしやがってえええ!!
……こうして私は行きたかったカフェでの奢りに未練を残しつつ、神様に連行されることになった。
紅葉さんは相変わらず人間離れした足取りで、私の少し前を歩いていく。
目を細めてみると、頭の上に耳がぴょこぴょこしているのが分かる。
少し湿った風が吹いていて、空気は雨の前みたいな匂いがした。
「ねえ、紅葉さん。今日ってなんですか?」
「ちょっと、開店前に様子を見てほしくてね。お湯の具合が変なんだ」
「お湯って……」
「湯けむり庵の湯気。あれが“重い”のよ」
「重いって、湯気が?」
「普通はね、湯気は風に流されて散っていくもの。でも今の湯気は、天井に張りついて離れないの。まるでそこに、誰かが湯気を塗りたくってるみたいに」
銭湯に着くころには、空はすっかり茜色。そろそろ開店時間が迫ってる。
いつの間にか女型に変わっていた紅葉さんと一緒に店に入る。
すると、脱衣所の湯気抜きの窓から、もくもくと白い蒸気がこぼれていた。確かに、いつもより濃い。
まるで、誰かが中で泣いているみたいに。
洗い場に入ると、ふわりと甘い香りがした。
石けんでも、シャンプーでもない。湯そのものが、花の匂いをまとっている。
「ねえ、紅葉さん。なんか……いい匂いしません?」
「気づいた?」
紅葉さんは静かに微笑んで、湯気の向こうを見つめる。
「“湯気女”よ。あれはね、癒しの香りで人を溶かすの」
「は?」
「疲れた人の心に寄り添って、湯と一緒に現れる。気づかず長く浸かっていると、湯気の中に飲まれて消えるの」
思わず、胸の奥がどきりとした。
今の私、まさに“疲れた人”じゃないか。
え、私溶かされちゃう?
紅葉さんが話している間にも、湯気がふわりと私の肩に触れた。
まるで「お疲れさま」って囁かれたみたいで、ほんの少し涙が出そうになる。
そう、私、疲れてるの。
就活頑張ってるのに全然うまくいかないし、今日は奢ってもらうとこだったのにポシャッちゃうし。
なんか知らないうちに幽世とかいうものに絡めとられてるし……。
ねえ、この先の私、何かいいことあるのかな……?もう色々疲れちゃったよ……。
ふと顔を上げると、湯気でぬれた鏡に私の顔が映っていて、私の声じゃない声が聞こえた。
『もう頑張らなくていいのよ……鈴子』
ふわりとした温かい湯気が私の頬を包む。あったかくて気持ちいい……。
涙が一筋こぼれていた。
『何も頑張らなくていい世界へ連れて行ってあげるわ……』
本当に……?
その時、私の肩は強くつかまれた。
「だめよ、鈴子。湯気女の甘言を聞いてはダメ。糸を切って還すのよ」
紅葉さんの声だ。
切る?糸?
その時、ぼんやりとした視界に、私の手首に絡まっている糸が見えた。それは鏡の中に繋がっている。
そうだ、私は……!
手に持っていた手ぬぐいに銭湯スキル、と呟くと手ぬぐいブレードに変わり、続けて鏡に向かって「開帳」と呟くと
湯気女
幽世から繋がれている
糸さえ切れば、そのまま幽世に戻る
と鑑定結果が出て、私は手ぬぐいブレードで勢いよく糸を断ち切った。
『なぜ……?こちらに来ればもう頑張らなくていいのに……』
断末魔のような湯気女の言葉に、私は言い返す。
「頑張らなくていい世界なんて楽しくないでしょ。頑張って就活して、友達と美味しいもの食べて、な毎日のほうが私はずっといい。お風呂に入って癒されるのは毎日頑張ってるからだよ」
鏡の中の湯気の人影が薄まると甘い香りがぱっと弱まった。
小さな泡がひとつ、またひとつと弾けると、湯気はいつもの温かい匂いに戻っていった。
「やるじゃない、鈴子」
紅葉さんが私の背中を軽く叩く。
「スキルもレベルアップしてるわ、確認してごらんなさい」
紅葉さんに言われるまま、鏡に手を当てて「開帳」と呟くと、鏡が揺れてにじむ文字が見えた。
湯守鈴子
人間
銭湯スキル レベル3
鑑定 レベル2
その数字を見て、私の胸の奥で小さく火がついたみたいに、笑いがこぼれる。
頑張らなくていい世界じゃなくて、頑張ってる世界で癒されるほうが、やっぱり私にはいい。
「ねえ紅葉さん」
「何、鈴子」
「今日、友達にカフェで奢ってもらう予定だったんですけど、ポシャっちゃったんで責任とってください」
「責任?」
「はい。私と一緒にカフェ行きましょう。あ、その時は女型でお願いします。男型の紅葉さん、まじでイケメンだから、知ってる人に一緒にいられるとこ見られたくないので」
まあ女型の紅葉さんもめっちゃ美女だから一緒にいたら目立つのは変わりないんだけど、男型よりはマシ。
「ふふ、それじゃ私が友達の代わりに奢るわ」
「え、紅葉さん、人間のお金持ってるんですか?」
「あら、失礼ね。私の家の前にある賽銭箱にはそれなりに入れてくれる人間がいるのよ」
「それ、下手したら賽銭泥棒になるじゃないですか!不可です!絶対ダメ!」
まあまだ今月はお小遣い残ってるし、仕方ない、私が奢ってあげよう。




