二話 糸を切る
通りゃんせ、通りゃんせ
こーこはどこの 細道じゃ
天神さまの 細道じゃ
ちっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに
お札を納めに まいります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ
懐かしい動揺を夢の中で聞いた。
私は誰かと手を繋いで、その歌を歌って遊んでいた。
たぶん場所は湯けむり庵の中庭だ。
お父さんの実家の銭湯で訳のわからないことに巻き込まれて1か月。
あれが夢だったのか現実だったのか正直よくわからない。
あれから私は銭湯へは行かず、就活に明け暮れていた。
大学の学生課はもちろん、先輩たちに相談したり色々やっている。が、経過は芳しくない。相変わらずやってくるお祈りメールに心が何度も複雑骨折してる。
思わず引きこもりたくなるが、そういうわけにもいかない。就活失敗の上に卒業できないとかシャレにならないので、卒業の単位のためにも大学には真面目に通っている。
「鈴子ー、お友達が来てるわよー。お母さん出かけるから、お茶出してあげなさいねー」
ある日曜日の午後、出かけていくお母さんに呼ばれて玄関に出てみると……。
「はぁい、鈴子♡」
語尾にハートマークをつけて、にこにこ笑うなきぼくろのショートカット美女がいた。
「おかえりください」
ドアを閉めようとしたら、足と突っ込んできて閉めさせない。
「やだ、痛いじゃない」
「じゃあ足を入れないでくださいよ」
「大事なお願いがあってきたの」
「お断りします」
「あなたの将来にもかかわることよ」
「あなたに関わるほうが、私の未来がダメになる予感しかしません」
そう言って完全にシャットアウトしてやりたかったのに、私は気づいた。――彼女の笑顔の奥に、ほんの一瞬だけ翳りが差したのを。
あれは冗談でも、軽口でもない。
私の胸の奥に、嫌な予感がひやりと走る。
「……何を企んでるんですか?」
「企んでるだなんて。人聞きじゃなくて、狐聞きの悪いこと言わないで。ちょっと、お風呂場に入らせてくれればいいのよ」
「……は?」
「説明はするわ。その代わり、あなたの家のお風呂場を見せてほしいの」
軽い調子の声なのに、目だけは笑っていなかった。
「……どうぞ」
仕方なくドアを開けて家に招き入れると、風呂場に案内する。
別に何の変哲もないただのありふれた風呂場だ。
「……うん、やっぱりね」
彼?彼女、かな、今は。
彼女は風呂場の鏡をしげしげと覗き込んできれいな指先で鏡を撫でる。
「鈴子、ちょっとこっちへ」
「……何ですか?」
「この鏡に掌を当てて、開帳、って言ってごらんなさい」
「……それなんですか?」
「あなたの中にあるものを見せてあげるわ」
仕方なく洗い場に膝をつくと、鏡に掌を当てて
「開帳」
と言うや否や、鏡が波打ったあとに文字が浮かび上がった。
「な、なにこれ」
「あなたのステータスよ、鈴子」
ってゲームかよ!!
湯守鈴子
人間
銭湯スキル レベル2
鑑定 レベル1
って何なの、これほんと。
「銭湯スキルは上がってるわね。これはこの間、湯煙童子を還したからね、きっと」
「いや、あの、これ何なんですか?」
「何って、ステータスよ、あなたの」
「何の役に立つんですか、これ」
「よく聞いてくれたわ。これはあなたが湯けむり庵でやるべきお仕事のための必須のスキルよ」
「私は普通に世間一般に就職する気なんですが」
「無理よ。だってもうあなたは幽世に関わってしまったんですもの」
「かくりよ?」
「ええ、今ここにある現世とは違う怪異の世界のこと。一度でもそちら側に関わってしまったら、向こうの存在たちはもうあなたを認識してしまうの」
「認識って……どういう意味ですか?」
「簡単に言えば、向こうの世界からあなたの認識が消えることはできないってこと。逃げても追ってくるし、関わらざるを得ないわ」
いやいやあんなこともうまっぴらごめんなんですが!
「ふつうのお仕事をしたくても、あいつらは執拗に邪魔してくるわ。たぶん、もう邪魔してる」
「え!じゃあ私の就活がうまくいかないのって……!?」
「可能性はあるわね」
なんてこった……!!
「じゃあ、邪魔さえ断ち切ったら、普通に就職できるってこと……!?」
「そうね。でもそのためには、幽世からの糸、ああ、縁の糸ってことだけど、それをどうにかしないといけないわ」
「ど、どうしたら……!?」
「そうね。どれくらいの糸があなたに絡まっているのか、私にも見えない。だったら方法は一つよ。一本ずつ確実に切っていくしかないわ。絡まったものは解くより切ってしまうほうが早いでしょう?」
道理だ。
「まず今見えている一本を切りましょう。さあ、湯けむり庵へ行くわよ」
「え?」
「あかなめを還すのよ」
お姉さんは、紅葉、と名乗った。
銭湯の表にある小さな稲荷にいる神様だという。
「正確に言えば、土地神ね。ずっと昔からあの地の地脈を守ることと、湯という生き物にとってなくてはならない癒しを守ることが仕事なの」
ときれいな笑顔で教えてくれた。
銭湯ができたころからあそこにいて、湯けむり庵を守っているのだと。
神様なので、男型にも女型にも姿を変えられるらしい。基本は女型でいるほうが楽らしく、その姿で風呂を楽しむのが何より好きなのだと。
もう納得はしていた。
この世には人ならざる者がいるのだと。
「幽世はね。本当にほんの小さな隙間からこちらに干渉してくるの。路地裏の影や、夕暮れ時の草むらや、本当に些細な場所から。あなたが見たように湯の中も幽世からしたらよい出入口なのよ」
「お風呂が道になってるってことですか?」
「ええ、そうね。そしてその道の向こうから糸を伸ばして、こちらに関わってくるのよ。別に悪さをする怪異ばかりではないわ。だけど、できれば幽世から出てこないほうがお互いのためでもあるわ。棲み分け、って大事だもの」
少しだけ寂しそうに笑う紅葉さんは、彼女自身が神様であることの寂しさなのかな。
紅葉さんは、湯を通して出てくる怪異を還すために、ひいじいちゃんにお願いして、稲荷社と言う住処を作ってもらいあの場所を守っているのだと教えてくれた。
湯けむり庵は、一種の結界のような役目がある場所なのだとも。
「さあ、行くわよ」
今日も開店前の洗い場へ。
手ぬぐいを手に紅葉さんと入ると、そこはいつもぴかぴかのはずなのに、黒く汚れていた。
床の目地にどろりとした影がへばりつき、湯気もなんだか重く感じる。
金属が錆びたような匂いがして、私は思わず鼻を押さえた。
「……掃除、サボってたとかじゃないですよね?」
「いいえ。これは“舐められた”跡よ」
紅葉さんの声がひどく冷たく響いた。
舐められた?
何を言って……と思った瞬間、奥の排水口のあたりで「ぺち、ぺち」と濡れた音がした。
……何かいる。
湯気の向こう、壁際の影がゆらりと動く。
水垢のような黒いものが、まるで生き物のようにうねっていた。
それは細長く、ぬらぬらしていて、蛇のように床を這いながら――――赤い舌をぺろりと出した。
「な、なにあれ!?」
「あれが“あかなめ”よ。風呂場の垢や汚れを舐めて歩く怪異。放っておくと、人の気をも舐め取って衰えさせるの」
あかなめは、こちらを見た。
いや、“見た”というより、目もない顔の中央がこちらに向く。
ぬるりとした腕のようなものを伸ばして、紅葉さんの足元の水を舐め取った。
ぞわりと鳥肌が立つ。
「やだもう……!なにこのビジュアル!ホラー映画!?」
「鈴子、落ち着いて。あなたの“銭湯スキル”を使うのよ」
「こんな状況でスキル発動とか言われても!」
紅葉さんが湯船の蛇口を開くと、熱い湯がどっと流れ出す。
その湯が床を走ると同時に、彼女は低く呟いた。
「湯気の門を――閉じなさい」
湯気が渦を巻き、あかなめを巻き込み、あかなめはそこから逃れようと暴れる。
だが、その動きは鈍い。
私は咄嗟に、壁に立てかけてあった桶を掴んで、反射的にぶん投げた。
その際「還れ!!」と強く念じた。
桶は、見事に命中した。
ぺしゃり、と鈍い音がして、あかなめの身体が一瞬潰れたように見えた。
黒い水が弾けて、床に溶ける。
「……やるじゃない」
「い、今ので合ってます!?」
めっちゃ物理だったけど。
紅葉さんがにっこり笑い、指先で湯気をひと撫でする。
黒ずんでいた床が、じわじわと元の光沢を取り戻していく。
――どうやら、あかなめは、幽世に還ったらしい。
「これで一本、切れたわね」
紅葉さんの言葉に、私は深く息を吐いた。
「はぁ……銭湯スキルって、ほんと物理なんですね」
「ええ、あなたは現世側の武器そのものだから。神様よりも、よっぽど現実的に働くのよ。じゃあせっかくだから、もう一つのスキルも使ってみましょうか」
「え?」
「私を鑑定してごらんなさい。表層のデータだけは見えるはずよ、ほら」
紅葉さんが私の手をつかんで、その豊満かつ形の良い胸に導く。
う、柔らかい……。
「か、開帳」
そう言葉にすると、洗い場の鏡に文字が浮かび、文字だけがはがれて、私の前に浮かんだ。
紅葉。
土地神にして稲荷狐。
湯守の力を持つ。
三行だけの情報は、ふわふわしたあとにシャボン玉のようにはじけて消えた。
「今のがあなたのもう1つのスキルよ。使っていくうちにレベルも上がって、もっといろんなことが見えるようになるはずだわ」
「え、それって何でも?」
「まさか。湯守に関することだけよ。だから、テストの問題や答えなんかは分からないわ」
なぁんだ……。
がっかりする私を見て、紅葉さんが湯気の中でふわりと笑った。
まるで湯の女神のように、美しくて――でもどこか、儚げだった。
こうして私は少し不思議な出来事に巻き込まれていくのだった。




