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十話 別れの予感

10話で終わらせる予定でしたが、前後編が2回入ってしまったので、本編が後1話とエピローグでもうちょっと続きます。

 朝もやが少し冷たく感じる季節になってきた。

 湯けむり庵のお湯の温度も少し上がった。

 「ふーーー気持ちいいわねえ」

 私の隣では、開店前のお風呂を楽しむ絶世の美女……という姿をした神様。

「朝のお風呂は最高よねえ、鈴子」

「それには同意します」

 今日は朝風呂に入りたい!と駄々をこね、こほん、いや強請る紅葉さんのために、おばあちゃんが朝から湯を張り、何故か呼び出された私が付き合っている。

 まあこんな朝もいいか、などとあきらめながら、私はお風呂の中で拳に力を籠める練習をしていた。

「鈴子、スキルの練習もいいけど朝風呂を楽しみなさい。このお湯の中にストレスを溶かして、今日も就活頑張らなくちゃ、でしょ?」

 就活……。そうだ、私の最初の目標。

 だけど、少し変わってしまった気持ちがある。それを紅葉さんに言ったらなんて返してくれるだろう。

 紅葉さんはじっと私を見つめて、ほんの少しだけ金色の目を細めた。

 

 「ふふ、そろそろ私がいなくても大丈夫ね、鈴子」

 

 え……?今なんて……?

 湯船の中でぼんやりしていてよく聞こえなかったけど、なんだか胸の奥に紅葉さんの声が引っかかる。

 「さあ上がってフルーツ牛乳飲みましょうか!」

 「え、紅葉さん……?」

 勢いよく洗い場のドアを開けて、茶目っ気たっぷりの美しい笑顔を向けてくる。

 「早く来ないと、鈴子の分まで飲んじゃうわよ?」

 「え、ダメです!私の分は飲んじゃダメですからね!」

 紅葉さんの言葉を聞き返す前に有耶無耶にされて、その時はそれで終わった。



 ……おかしい。

 私が不信感を覚えたのは、それから数日後だった。

 湯けむり庵に行っても紅葉さんに会えない。おばあちゃんに「紅葉さんは?」と聞いても曖昧にはぐらかされるばかりだった。

 紅葉さんに会えなくなって1週間が経った。

 こんなに長く会わないでいるのは紅葉さんに出会ってから初めてのことで、1人で湯船の中でスキルの練習をしていても、そばで紅葉さんが励ましてくれないことがとても心細い。

 季節が進んで、すっかり寒くなってしまい、日も短くなった。

 私が決めたことを紅葉さんに聞いてほしいのに、本人不在のまま時間が過ぎていく。

 紅葉さんはどこに行ったのだろう。

 表のお社に話しかけても返事はないし、鏡の中のひいおじいちゃんにコンタクトをとってみても知らないと言われた。

 まるでおいて行かれたような寂しさ。私はこの寂しさを知っていたけど、子供の頃とは違う深みのような寂しさだった。

「鈴子、今日はうちでごはん食べていくかい?」

 おばあちゃんが洗い場を掃除していた私にそう言ってくれたので、甘えることにした。

 銭湯の掃除を終えて、裏手にあるおじいちゃんとおばあちゃんの住む家に行く。

 夕飯を終えて、おじいちゃんちの居間でくつろぎながらお風呂に入ってから帰ろうかな、なんて考えているとふと声が聞こえた気がした。

 手を止めて耳を澄ませてみると、それは小さな子がすすり泣きをしているように聞こえて、私はその声を辿った。

「おじいちゃん、私、お風呂に入ってから帰るね」

 今の時間ならおばあちゃんが番台にいるはず!

 急いで表に回ると暖簾をくぐる。

「おばあちゃん!」

 私がそこで見たものは――。


 脱衣所で倒れてるお客さんたちと番台で突っ伏してるおばあちゃんだった。


 脱衣所にもうもうと籠った湯気の向こうですすり泣きがはっきりと聞こえる。

 いる。

 この湯気の向こうに原因が。

 私は手ぬぐいを手にして、ゆっくりと一歩を踏み出した。

 湯気の奥から、しゃくりあげるような泣き声が聞こえる。

 子どものようにも、大人のようにも聞こえない。

 湯けむりの中、湯船の表面にぽつんと影が浮かんでいた。

 それは、小さな女の子の姿をしていた――けれど、輪郭が水のように揺らいでいる。


 私は手ぬぐいを握りしめる。

 紅葉さんがいなくても、やらなくちゃ。

 私しかいないんだ、今この子と対峙できるのは。


 「あなた……泣いてるの?」


 声をかけると、影がぴたりと動きを止めた。

 それから、湯面がわずかに泡立つ。まるで、誰かが沈んでいくように。


 “湯の底から、手が伸びた。”


 これはいけないものだと本能的に思った。

 この手に、この子を渡してはいけない!

「だめ!」

 思わず叫ぶ声と同時に、私は手ぬぐいをぎゅっと握りしめ、服のまま湯の中に踏み込む。

 手が伸びてくる――それは冷たく、ぬるりとした水の感触で、まるで何かに吸い込まれるような感覚が指先に伝わる。


 心を集中させる。今ここに紅葉さんはいない。紅葉さんの助けはない。

 でも、私には私のスキルがある――拳に込めた力に意識を集中させる。


 「あなたは還らないといけないよ……あなたのいるべき場所へ私が還す」


 影を抱きしめながら拳に力と想いを籠めて、心の中でただ願う。

 “還す、還す、あなたを還す……!”


 手は一瞬ぎくりと揺れた。

 影の女の子のすすり泣きが小さくなり、湯面に光が反射して、影を包む。

 手はゆっくりと水に沈み、影の女の子の輪郭も私の腕から溶けるように消えていった。

 消えていくとき、声が聞こえた。

「ありがとう」

 って優しいお礼の声だった。

 

 あの子はあの迷い火と同じ、ただの迷子だった。

 でももうちゃんと還ったから、私のやったことはきっと正しい。

 

「よくやったわね、鈴子」

 私の肩を叩いた優しい手のひらと頭上から降ってきた声に振り返ると、紅葉さんがいつも通りの綺麗な笑顔で笑っていた。

「紅葉……さん……」

 体から一気に力が抜けて、湯船の中にへたり込む。

「あらあら、もう服のままお風呂に入るなんて」

「だ、だって……」

「分かってるわ、見ていたもの。あなたが今還したのは湯影、という怪異よ。人の魂を湯気で舐めて生命力をかすめ取るの」

「え、生命力って…!!じゃあお客さんやおばあちゃんは!?」

「落ち着いて。大丈夫よ、みんな少し夢を見ていただけだから」

「夢……?」

「ええ。湯影は、命を奪うほど強い怪異じゃないの。ただ、寒くて寂しい季節になると現れて……人のぬくもりを分けてもらおうとするのよ。そして温もりを分けてもらう代わりに、人に優しい夢を見せるの。だから、あの子にとっては“人に触れること”が生きる手段だった。お客さんや瑠璃子のぬくもりを少しもらって、あなたに抱き締めてもらって、たくさんのぬくもりを得て幽世へ還ったのよ。あの子を攫おうとしていたのは別の怪異よ。よく気づいて守ったわね」

「おばあちゃんたちは、もう大丈夫……?」

「ええ。もう目を覚ます頃よ。鈴子、あなたがちゃんとあの子を“還した”から」

「……私が?」

「そう。私がいなくても、自分の力でね」

 紅葉さんは湯気の中で微笑んだ。その笑顔は、どこか少し寂しそうでもあった。

「そろそろ、私がいなくても大丈夫ね」

「えっ……紅葉さん?」

「私の役目はそろそろ終わり。私も幽世へ帰る時が近いわ」


 え……?


「ねえ鈴子。楽しかった?」

「た、楽しかったって……」

「私は楽しかったわ。あの日、昔の湯けむり庵にあなたが現れてから今日までとても楽しかった。こんなに楽しかったのは、昔文太に色々教えていたころ以来よ」


 にっこり笑う絶世の美女は何を言ってるのだろう……。

 理解を拒む私の心に触れるように、紅葉さんの掌が私の頬を撫でる。


「これはここまで頑張ったあなたにご褒美よ」

 紅葉さんが手渡してきたのは、如意宝珠だった。

「開帳してごらんなさい」

「――開帳」

 手のひらの如意宝珠から文字が浮かび上がる。


 如意宝珠

 荼枳尼天がその手に持つ宝珠

 どんな願いも叶える


 ここまでは以前見た文言と一緒。


 そのあとに文字が続いていた。


 ――願いの形は心の中に


 願いの形……?私の願い……?


「この宝珠は一つだけあなたの心からの願いをいつか叶えてくれるわ。だからそれまで励みなさい」

「あ、あの紅葉さん!私、決めたことがあるの!聞いてくれる?」

「あら、何かしら?」


「私、湯けむり庵を継ぐことにしたの!」

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