影の審判者(シャドウ・アービター)――選ばれなかった王国【後編】
ここから、物語はいよいよ核心に迫ります。
支配と沈黙に覆われた帝都。
「問いかけること」さえ奪われた世界の中で、コウ、アンジュ、シエラたちは、それぞれの“決断”を迫られます。
第四章から最終章にかけては、ただの反体制運動や告発劇ではなく、
「私たちは、どう世界と向き合って生きていくのか」
という普遍的なテーマに向かって進んでいきます。
彼らの問いが、あなた自身の問いと重なることを願って――
物語のクライマックスへ、ようこそ。
第四章 欺瞞の王座と金の契約
第一節 交易都市ユグナーラの仮面
ユグナーラは、輝いていた。
帝国の南東に位置する巨大な交易都市。
石畳の通りには高級商会の看板が並び、市場には帝都からの高級品があふれていた。
音楽が流れ、人々は微笑み、あたかも“自由な国”の象徴のように暮らしていた。
「すごい……まるで、別の国みたい」
シエラが目を丸くするのも無理はない。
地下のノースヴェールが“隠された自由”なら、ここユグナーラは“飾られた自由”だった。
コウは、その喧騒の中に、居心地の悪さを感じていた。
「……なんか、綺麗すぎる」
「え?」
「街の看板も、人の表情も、まるで“安心してます”って無理やり言ってるみたいだ」
彼はそう言いながら、周囲を歩く人々の目を観察していた。
どの目も笑っている。でも、どこか“揃いすぎていた”。
(この街も……何かに“選ばれて”る)
そんな気配がした。
二人は、街の外れにある情報収集施設「言論センター」に向かった。
ここは一応、帝国中のニュースや選挙情報が自由に見られるという触れ込みだった。
けれど、中に入ってみてすぐに気づいた。
「……おかしい」
棚に並ぶ新聞。すべて同じ見出し、同じ構成。
放送室の画面も、繰り返し「平和な選挙」と「政権の成果」を伝えるだけ。
「まるで、“選ばれたニュース”しか流れてない」
シエラがぽつりとつぶやく。
「この施設、監視されてる。きっと表向きは“情報公開”の顔をして、裏では発言の記録を取ってる」
「じゃあ……本当の自由って、どこにあるんだよ……」
コウの言葉に、誰も答えなかった。
そのとき、背後から声がした。
「自由が欲しいなら、“金”を持て。金があれば、選べる。選ぶ側になれる」
振り返ると、黒いコートを羽織った長身の男が立っていた。
鋭い目、整った髪、そして右手には細身の杖。
その人物は、名乗る前から“特別な存在”であることが伝わってきた。
「君たちが、ノースヴェールから来た者か」
「……誰?」
「私はトーレ・マモン。このユグナーラ最大の商会“公明の輪”をまとめる者。そして、影と帝都を“取引”でつないでいる者でもある」
シエラが反射的に後ずさった。
「なぜ、私たちのことを……?」
「全員見ているよ。選ばれなかった者が、何をするか。君たちが“声”を武器にするなら、我々は“金”を使う」
トーレは笑った。その笑みは、冷たく、何よりも強かった。
「ここユグナーラでは、思想も票も、報道も、ぜんぶ“取引の対象”だ。自由に語ることはできる。……ただし、金で買うならね」
「……それが、お前たちの“自由”かよ」
コウが低く、にらみつける。
「そう。“金で選べる”自由こそ、最も確実な支配方法だ。民が欲しがるものを与え続ければ、反抗なんてしない。誰も“考える”必要がなくなる」
「だから……あんたたちは“票”を買ってるんだな?」
「君たちの言葉には、価値がない。ただし、私に預ければ、“売れるように”してあげようか?」
その言葉に、コウははっきりと答えた。
「……俺は、言葉を“売る”ためにここに来たんじゃない」
「ふむ。では、“命”で払ってもらおうか」
トーレが指を鳴らした。
次の瞬間、建物の四方から黒服の私兵たちが現れた。
「シエラ、逃げるぞ!」
「うん!」
二人は建物を飛び出し、裏路地へと走った。
けれどコウの頭には、あの言葉が残っていた。
> 「金があれば、選べる。選ぶ側になれる」
その言葉の毒が、今も胸に刺さったままだった。
第二節 ドレイン・コインの秘密
ユグナーラの夜は、地上よりもまぶしい。
通りにはネオンが灯り、人々は仮面のような笑顔で買い物を楽しんでいた。
路地裏にはカジノ、投票相談所、情報商会。あらゆるものが“取引”として回っていた。
――すべては、〈ドレイン・コイン〉を通じて。
「やっぱり……この通貨がカギなんだな」
隠れ家の一室で、コウは小さな金色のコインを手にしていた。
それは、ユグナーラでのみ使える特殊通貨。名前は“Drain(吸い取る)”を意味する。
「紙幣もクレジットも使えるのに、この街ではみんな“ドレイン・コイン”を使ってる。不思議に思わない?」
シエラがデータ端末を開きながら言う。
「見て。これはコインの裏面の刻印。投票IDに直結してる」
「投票ID?」
「そう。“選挙で誰に投票したか”が、このコインを通してデータ化されてるの」
「……ってことは、票そのものが“売り物”になってるってことか?」
シエラは頷いた。
「ユグナーラでは、市民登録とコインが連動していて、個人の票が“価格”として取引されてる。つまり、自分の一票をいくらで売るかを“自分で決めてる”ように見せかけて、実際は市場が操作してるの」
コウはコインを見つめた。
小さな金属片――だけど、その裏には“意思を吸い取るシステム”が隠されている。
「投票って、こんな風に“値段”がつくものなのかよ……」
「選ばせるふりをして、“買い取って”るだけ。しかも、それが“自由”って名前で行われてるの」
彼はふと、かつての街の人々の顔を思い出した。
笑顔、便利な生活、あふれる商品――
そのすべてが、実は“売った票”の上に築かれていた。
「……こんなの、間違ってる」
その言葉に、シエラが静かに答えた。
「うん。でも、“間違ってる”って感じる心も、だんだん麻痺してくる。だって、生活が楽だから」
「だから、誰も怒らないんだな……“自分で選んでる”と思わされてるから」
「選ばされてるなんて、誰も気づかない。“自由に見える不自由”の中に、みんな安心して暮らしてる」
そのとき、コウの端末が小さく震えた。
画面には、一通のメッセージが表示されていた。
> 「君のIDが追跡された。“記録筒”を持ってることがバレた。すぐに移動を」
コウはすぐに顔を上げた。
「見つかった……!」
「トーレ・マモンだ。私たちが“票の真実”に気づいたことも、知られてる」
「逃げるのは簡単だ。でも、今逃げたら、何のためにここまで来たかわからなくなる」
コウはゆっくりと立ち上がった。
「だったら、“記録”を武器にしよう。これを公に出せる“誰か”に繋ぐ。……この街の、表じゃなくて、“裏の自由”に賭ける」
「コウ……」
「票が買えるってことは、反対に言えば――“真実”にも値段がつくってことだろ?だったら、その価値を知ってる人間に、届かせてやる」
シエラは目を細めた。
「……そうね。“言葉を売るんじゃない”。“言葉で、価値を揺るがす”んだ」
夜のユグナーラに、彼らは再び足を踏み出した。
金で支配される街で、“金じゃ動かない者”の声を探すために。
第三節 偽りの自由市場
ユグナーラの夜は、二層に分かれている。
上層は、音楽と光に満ちた“自由な街”。
だがその地下には、もう一つの“市場”があった。
コウとシエラがたどり着いたのは、街の北端、廃倉庫の地下室。
そこは、商品も価格も見えない、“声だけが通貨になる”場所だった。
「ここが……裏市場?」
「正確には、“対価市場”。情報、証拠、真実……すべてが“どれだけの覚悟で差し出されるか”で値が決まる」
そう語ったのは、黒ずくめの女商人――カスミ・ヴェイル。
灰色の瞳を持ち、声は低く、言葉に重みがあった。
「私たちは、“真実を売るために沈黙した者たち”の、逆を行く者」
彼女は言った。
「ドレイン・コインが票を吸い上げる通貨なら、私たちは“声の重さ”で測る通貨を使う。名は――《トークン・リア》。“真実の声”という意味だよ」
コウは、記録筒を両手で差し出した。
「これを――使ってほしい。多くの人に見せてほしい。……でも、その代わり、名前は出さないでくれ」
「それは、“隠された声”になる。価値は半分だ。……本当に、それでいいのかい?」
カスミの問いかけに、コウはためらった。
もし名前が出れば、追われる。見張られる。消されるかもしれない。
でも。
「……俺の名前は、コウ・エイン」
「……!」
「この記録は、“誰か”の言葉じゃない。俺の言葉なんだ。だから、俺が責任を持つ。全部、俺が言ったことにしてくれ」
カスミは、ふっと目を細めた。
「……ずいぶん高い“声”だ。値が張るね」
「でも、それだけの価値があると信じてる」
「いいだろう。君の“声”を預かる」
彼女は小さなインク瓶を取り出し、記録筒に封印を刻んだ。
「この情報は、48時間後、各地の独立端末から拡散される。まずは、信じる者から届いていく」
「その間、俺たちはどうすれば?」
「……“届くのを、信じて待つ”こと」
その言葉が、今のコウには一番難しかった。
動きたい。叫びたい。直接、誰かに伝えに行きたい。
だけどそれは、敵の思うツボだ。
「……わかった。信じるよ」
そのとき、シエラがふと、背後を振り向いた。
「……尾行されてる。追跡用のマーキングがかすかに付いてる」
「マモンの私兵か?」
「おそらく」
カスミが手を挙げた。
「逃げろ。ここは私が時間を稼ぐ。“売られた真実”は、まだ商品棚に並んでない。今消されたら、それで終わりだ」
「でも……!」
「君たちの役目は終わった。“言葉を届ける”という仕事を果たした。あとは、信じること。……それが、自由に近づく最初の一歩だ」
コウはうなずき、シエラと共に裏通路へと走り出した。
背後で、カスミが静かに呟いた。
「さあ、“自由市場”よ――お前の“本性”を、晒すときがきた」
第四節 コウの初演説
その広場は、何も特別な場所ではなかった。
帝都への中継街道沿いの、古びた石橋のふもと。
屋台が並び、人々が行き交い、たまたま日陰を探して集まっただけの場所。
けれど今、そこにコウの“声”が響いていた。
「みんな、ちょっとだけ……話を聞いてくれないか」
はじめは、誰もが素通りしていた。
けれど、彼の声には、何か――“自分のためにじゃなく、誰かのために語っている”雰囲気があった。
数人が足を止めた。
やがて、その数は十人、二十人と増えていく。
「俺は、ただの鍛冶屋だった。政治とか、選挙とか、難しいことには関わらないつもりだった。でも……気づいたんだ。何もしないってことは、“誰かの思い通りにされる”ってことだって」
静かなざわめき。
「この国では、選挙がある。自由に投票できる。でも、俺は思った。――それって、本当に“選んでる”ことなのかって」
「誰を選んでも、なにも変わらない。どの紙も、同じ言葉が並んでる。俺たちは、“選んだ気になってるだけ”なんじゃないかって」
群衆の中に、うつむく人がいた。
顔をこわばらせる者。目をそらす者。だけど、誰も立ち去らなかった。
「この前、仲間が捕まった。自分の考えを言っただけで。“投票の仕組みに疑問がある”って、言っただけで」
「でもその言葉は、俺の心を動かした。俺は、何も言えなかった自分が恥ずかしくなった。だから今、こうして話してる」
コウは少し息を吸い、周囲を見渡した。
「俺は、みんなに何かを命令したいわけじゃない。正しいと思えって言いたいわけでもない」
「ただ、一つだけ――“考えてほしい”。自分の一票が、本当に自由なものなのか。それとも、“買われていた”のか。……それだけは、自分で確かめてほしい」
誰かが、口を開いた。
「……怖いよ。そういうこと考えるのって。だって、それが本当だったら、自分がずっとだまされてたってことになるんだろ?」
「うん。俺も、そうだった」
コウは素直に頷いた。
「悔しかった。信じてた人が、実は影とつながってた。でも、それを知ったとき、はじめて“自分の目で見た”って思えた。そこから、変われたんだ」
群衆の中に、小さな拍手が起きた。
やがてそれは、ポツポツと周囲に広がっていく。
誰もが大声で賛同したわけではない。
けれど、コウの言葉は――確かに届いていた。
その背後で、シエラが微笑みながら、つぶやいた。
「……よくやったね、コウ。あんたの言葉、あんたのままで、ちゃんと響いてたよ」
空は青かった。
でも、どこかに黒い雲が、ゆっくりと近づいていた。
この国の中枢――帝都オーテーン。
そこには、“影の本丸”が待ち受けていた。
第五章 光なき審判の日
第一節 帝都オーテーン到達
帝都――オーテーン。
それは、“正しさ”が石で築かれたような街だった。
どの建物も巨大で、無駄がなく、灰色の石造りが整然と並ぶ。
通りにはごみ一つなく、歩く人々は決められた場所に、決められた歩幅で移動していた。
コウとシエラは、その景色を一歩ずつ確かめながら、中央広場へ向かっていた。
「……なんだ、この空気」
「美しいのに、息が詰まるね」
帝都の人々は笑わない。目を合わせない。話さない。
それでいて、どこか満ち足りているような表情を浮かべている。
(この街は……もう、“考えること”をやめてるんだ)
コウの背中には、記録筒と演説映像の複製端末。
自分の声を収めたデータは、すでに各地へ配信されたはずだった。
だが――この街だけは、まだ揺らいでいない。
中央広場に着くと、巨大な黒い幕が掲げられていた。
その中央には、金色の文字が浮かぶ。
> 『セレスの審判まで、あと48時間』
それは帝都で定期的に行われる“最終投票”の名称だった。
国中の票を束ね、“最高決定権”を与える者を決めるとされている。
けれど、実際は――
「これが、“影の儀式”の場か」
シエラが低くつぶやく。
「そう。投票じゃない。“封印”なんだ」
影の評議会は、“票の集積”を呪術的な手段に変換し、民の“思考の鍵”をかけ直すためにセレスの審判を利用していた。
投票すればするほど、民は「考えること」を放棄していく。
“選んだ”という感覚が、“委ねた”という従属に変わっていく。
それを知った今、コウは――この広場を、戦場として見ていた。
「なあ、シエラ。俺たちの情報は、届いてると思うか?」
「……帝都には届いてない。遮断されてる。けど、“揺らぎ”は始まってる。演説の動画も、記録の内容も、郊外では再生されたって報告が来てる」
「じゃあ、この街を目覚めさせるには――」
「“この場で”声を上げるしかない。……最も危険な選択だけどね」
コウは、ゆっくりと広場を見渡した。
あの幕の裏に、“影”がいる。
この街の静けさは、考えないことによる平和。
でもそれは、“支配される心の静寂”だった。
「だったら、やるしかない」
「本気で?」
「俺がここまで来たのは、自分の声で、この国の“鍵”を壊すためだ」
シエラは目を細めた。
「……じゃあ、始めようか。二日後の“審判”に向けて――最後の反逆を」
第二節 セレスの審判始まる
「セレスの審判は、ただの選挙なんかじゃない」
その言葉を口にしたのは、オーテーン旧区画の情報屋・ヴェルドだった。
かつては帝都政府の報道機関にいたが、正体不明の情報制限に耐えかねて離脱。今は“帝都に残された最後の自由人”と呼ばれている。
彼のアジトは、帝都の下水と旧通信線が交差する地下トンネルの奥にあった。
「表向きには“全国の票がリアルタイムで集計される”ってことになってるが……実際には、違う」
ヴェルドが差し出したホログラムには、都市中に張り巡らされた黒いコードが映し出されていた。
「これは“サイレント・ライン”。表向きは高速ネットワークの中継線だが……投票データがここを通過すると、自動的に“選択内容”が改ざんされる」
「……じゃあ、誰に投票しても、最終的には“あらかじめ決められた者”に集まるってことか?」
コウが言った。
「そう。帝都の中枢、“評議会の塔”にある管理核が、それを操作してる」
「その塔を、止められないのか?」
ヴェルドは苦笑した。
「一度試みた奴もいたが……塔は物理的にも魔術的にも封鎖されてる。外部からの破壊もアクセスも不可能。唯一可能性があるのは……」
「内部から?」
「そうだ。投票管理官として入り込み、“改ざんを無効化する操作”を強制的に行う。それしかない」
シエラが即座に言った。
「投票管理官の資格、持ってる。……それも偽造じゃなく、本物をね」
「え?」
「もともと私は、表の行政局に籍があった。途中で逃げたけど、身分証は抜かれてない。今も、管理官として“入れる”状態のまま」
コウが驚きの表情を見せる。
「お前……それを今まで……!」
「出すタイミングを見てただけ。ここが最後の舞台なら――使うしかないでしょ」
ヴェルドは深くうなずいた。
「よし。じゃあお前が“鍵”だ。……ただし、中に入れば、生きて出て来られない可能性が高い」
シエラは小さく笑った。
「わかってる。でも、それでも“未来が変わるかもしれない”なら、私は行く」
コウは拳を握りしめた。
「……俺も行く。お前一人にはさせない」
「コウ、でもそれは――」
「もう、誰かを見送るだけなんて、嫌なんだ。だから、俺も中枢へ行く方法を探す」
その言葉に、シエラはふと目をそらした。
「……あんたって、本当に“ずるい”よね」
「またそれかよ……」
二人の間に、わずかな微笑みが戻る。
だがその背後で、ヴェルドの端末が警告音を発した。
> 【通知】セレスの審判・第一波処理開始。対象:南東区画。投票干渉プログラム起動。
「始まったぞ。街が、記憶を封じられる前に――動け!」
第三節 サイレンスの支配圏拡大
「……また一人、しゃべらなくなった」
帝都の南東区画にある小さな広場で、コウは歯を食いしばった。
そこにいた若者は、数分前まで「この国を変えたい」と叫んでいた。
けれど今は、ぽつんと無言のままベンチに座り、虚ろな目で空を見つめていた。
その後ろには、街灯に見せかけた黒い装置――
帝都独自の心理操作装置〈サイレンサー〉が取り付けられていた。
「これは……直接、脳の記憶中枢を刺激して、“異議”や“不安”という感情を除去してる。恐怖すら感じなくなる」
シエラが声を潜めて言う。
「審判が始まると同時に、街中の装置が連動して作動してる。“市民が黙る”ためのシステム。……これが、帝都の“静けさ”の正体」
「それって……」
「自分で考えなくなる。“安全”“秩序”“幸福”という感情だけを残して、あとは削るの」
コウは拳を握りしめた。
人が自分の意思を失っていく光景は、暴力よりも残酷だった。
自分の中に芽生えた疑問や痛み、怒りすらも、消えてしまう。
ただ“穏やかに”されていく。
「このままじゃ、“言葉”が全部消される」
「うん。あと24時間で、帝都全域の“投票処理”が完了する。……急がないと、私たちの声も、届く前に消される」
コウとシエラは、ヴェルドの案内を頼りに、中央区画の地下網を駆けていた。
帝都中枢の〈評議会の塔〉に近づくたび、通信は不安定になり、気圧も異様に変化していく。
それは、都市そのものが“記憶を閉ざす巨大装置”のように感じられた。
やがて、地下トンネルの終点にたどり着いた彼らの前に、ひとつの鉄扉が現れた。
“ID保持者のみ通行可”と表示されたその扉の前で、シエラがデバイスを差し出す。
「……最後の本物だよ。私の名前で、扉を開ける」
「行こう、シエラ」
扉が音もなく開くと、そこには無人の制御室が広がっていた。
無数のケーブルとモニターが整然と並び、中央には巨大なクリスタル・コアが浮かんでいた。
それが、サイレンス・システムの“中枢核”だった。
「コウ……ここを止めれば、審判の改ざんも、洗脳も、すべて止まる。でも、当然ながら……迎撃されるよ」
「わかってる。俺たちはもう、後戻りできない」
「じゃあ……準備は、いい?」
コウは頷いた。
「俺の声を――届かせよう」
第四節 アンジュの沈黙
帝都政庁・第七管理層。
そこは外界の音も色も届かない、完全なる無機質空間だった。
透明なモニターに指を滑らせながら、アンジュは静かに眉をひそめた。
「また一件、投票データの補正完了……対象区域:中層第5区」
淡々と作業を続けながらも、胸の奥に何かが引っかかっていた。
(……“補正”って、何?)
正式な説明では、“投票補正”は「誤配信防止のための信号調整」とされていた。
だが、実際に扱っているデータは――明らかに、“何かを塗り替えて”いた。
「候補者名を固定……投票率上昇シミュレーション実行……市民満足度:98.4%」
その数字が、やけに空々しく思えた。
「ねえ、これって本当に“市民が選んでる”って言えるのかな」
ふと漏れたそのつぶやきに、周囲の同僚は誰も反応しなかった。
いや、誰も“聞こうとしなかった”。
(……あたしも、同じだった。何も疑わずに、“仕事”をしてただけ)
だが数日前、地下情報経由で拡散されたある映像が、アンジュの中で何かを変えた。
それは、ある青年のスピーチだった。
> 「俺は、ただの鍛冶屋だった。でも、もう黙っていたくなかったんだ」
真っ直ぐで、ぎこちなくて、でも確かに“自分の言葉”で語られていた。
その声は、なぜかアンジュの心の深くを打った。
(あの人……誰だったんだろう。あたしは、あんなふうに話せるだろうか)
管理モニターに、突如警告が走る。
> 【警告】
> 評議会の塔:中枢制御核への外部アクセス信号検出
> 起動者ID:シエラ=ヴァンディール(投票管理官権限)
> 状況:侵入中
アンジュの胸がざわめいた。
(ヴァンディール……あの、噂の亡命者……?)
指が自然に動き、アンジュは即座に評議会に報告しようとした――だが、その手が止まった。
(でも……)
(あたしは本当に、“正しい”ことをしているの?)
彼女の指は、警告信号を“保留”にしたまま、動きを止めた。
心のどこかで――“コウ”と名乗った青年の声が、まだ残響していた。
「自分で考えてほしい。“本当に選んでるか”って」
アンジュはモニターを閉じ、立ち上がった。
「……黙ってるだけが、正義だって誰が決めたの」
小さな声だったが、それは確かに、彼女が初めて“自分の意志”で発した言葉だった。
第五節 塔への突入
帝都中央にそびえ立つ〈評議会の塔〉は、まるで“考えることそのもの”を拒絶するかのような威圧感を放っていた。
塔の周囲は立入禁止区域。
だが、裏ルートから進入したコウとシエラは、ついにその基部へとたどり着いた。
「ここが……この国の意思を“固定する場所”」
「あと一歩だ。ここを超えれば……俺たちの声は、本当に届くかもしれない」
塔の内部は、無音だった。
電子音も、足音すら吸い込まれていくような“沈黙”の空間。
最深部へと続く通路の先――
その扉には、制御コードが施されていた。
「私の管理IDで入れる。けど、一度入ったら戻れない」
「構わない。行こう、シエラ」
扉が開いた先にあったのは、巨大な制御核――〈セレス・コア〉。
都市中の投票データ、意志の波、記憶の改ざんが全てここで統制されている。
その中央に、人影が立っていた。
「……待っていたよ、君たちを」
柔らかな口調のその人物は、白衣をまとった若い女性だった。
淡い金髪と深い紺色の瞳。そして、手には認証端末を持っていた。
「あなた……」
「アンジュ・マール。第七管理層の投票解析官」
「どうしてここに……!」
アンジュは微笑みを浮かべて言った。
「コウの演説を見た。“本当に選んでるかどうか、自分で考えてほしい”――その言葉が、ずっと頭から離れなかった」
「じゃあ……!」
「ええ。私はここを止めたい。止めなければ、私自身がずっと“誰かに決められたまま”で終わってしまうから」
彼女は手にした端末を操作し、最終制御台へのアクセスを許可した。
「このコアは、三人の認証が必要。私とシエラ、そして……コウ」
「俺は管理官じゃない。認証なんて――」
「でも、君は“この国の声”を集めた。多くの人が君の演説を共有し、再生し、思いを重ねた。……そのログが、すでにシステム内に蓄積されていた」
アンジュが示したホログラムには、全国の視聴記録とコメント、二次拡散の軌跡が映っていた。
「君は、“認証”されたんだよ。この国の、意志として」
「……!」
コウはゆっくりと手をかざした。
静かに、制御核が反応を始める。
「これが……この国の“沈黙”を終わらせるスイッチなんだな」
「そう。ここから、未来を塗り替える」
だがその瞬間、塔内に警報が響き渡った。
> 【侵入検知】
> 評議会直属部隊、展開開始。制御核室へ向けて接近中。
「来たか……!」
シエラが振り返る。
「時間がない。コウ、認証を済ませて。私とアンジュで、時間を稼ぐ!」
「でも……!」
「これは“声”の戦い。なら、あんたが最後まで“叫び通せ”!」
コウは、力強く頷いた。
「わかった。……俺が、この国に“自由な言葉”を取り戻す!」
第六節 最終認証と真の投票
塔の中枢に響く警報が、コウの背を押した。
制御台の前、〈セレス・コア〉は静かに明滅している。
手のひらをかざせば、あとは“意志”を問われるだけ。
(……本当に、これで変わるのか?)
ふと浮かぶ不安を、コウは振り払った。
(いや――信じてる。俺たちの声が、誰かの中に残ってるって)
そのとき、背後の扉が激しく揺れた。
兵士たちが制圧に向けて進行を始めている。
だが、アンジュとシエラは一歩も退かず、その扉を前に立ちはだかっていた。
「コウ、早く!」
「大丈夫、時間は稼ぐ!」
――わかってる。だから、俺も応える。
コウは深く息を吸い、コアに向かって叫んだ。
「ここからは、誰かの名前じゃない!
俺たち自身の、“意志”を示す投票だ!」
彼の声が、コアに記録された“共鳴記憶”を揺らす。
無数の市民が共有したあの演説、あの映像。
怒り、悲しみ、希望、恐れ――それら全てが、今、選択権となって目を覚ました。
> 認証レベル:最終段階に到達
> データ一致率:92.7%(合格)
> コウ・アラガネによる意思照合を確認
空中に、問いかけが表示された。
> 【問】この国の未来を、誰が選ぶべきか?
コウは、迷わず答えた。
「誰でもない。“みんな”だ」
その瞬間、〈セレス・コア〉が閃光を放つ。
空間を震わせるような風が吹き抜け、塔全体に光の粒が広がっていく。
それは、帝都中の〈サイレンサー〉を無効化し、投票改ざんプログラムを全て停止させた。
モニターには、驚きの声が次々に映し出される。
> 「あれ? なんで急に……記憶が……」
> 「俺、投票した内容……違ってたかも……」
> 「選べるんだ……自分で……!」
街中に、久しく聞こえなかった“ざわめき”が戻ってくる。
そのとき、塔の扉が破られた。
だが、兵士たちの前で制御盤がすでに無効化されているのを見て、隊長は動きを止めた。
「……もう、間に合わないのか」
アンジュが、ゆっくりと立ち上がる。
「この国は、もう“選べる”ようになったの。誰の命令も、必要としない」
コウは、光の中央で静かに息を吐いた。
「ようやく……届いたんだな、声が」
最終章 選ばれなかった王国
第一節 声の残響
帝都オーテーンに、音が戻った。
サイレンサーは停止され、人々の耳に“風の音”が届くようになった。
広場にはざわめきと議論が生まれ、店先では「これ、前に高かったよね?」「物価戻るかな?」といった、当たり前の言葉が交わされていた。
――たった数日前まで、誰もが“正しい”ことしか言わなかった街。
今では、誰もが“好き勝手”に、語り始めていた。
「うるさい、けど……いい音だな」
コウは空を見上げながら、ぼそりとつぶやいた。
彼の隣にはシエラとアンジュがいた。
三人とも、あの日の制御核突入以降、拘束もされず、表彰もされず、ただ“静かに放免された”。
それは、かつての支配者がこの国を“選ばなかった”証でもあった。
「今、投票は“自由選択”になった。誰の名前を書くかも、書かないかも、全部自分次第」
アンジュが小さく笑った。
「でも、誰かが選ばれなければ、国は動かない。だからこそ――」
「だからこそ、“考えよう”ってことだな」
コウが頷く。
「おれが言ってた“声をあげよう”って言葉も、正直、そんなに偉そうなもんじゃなかった。でも……」
彼は手のひらを広げて見せた。
「今なら、自信を持って言える。“沈黙”よりはずっといい、って」
広場のスクリーンには、今日の投票速報が映し出されていた。
どの政党が勝つのかは、わからない。
だけど、誰もが「それを見ようとしている」。
それこそが、変化の証だった。
「アンジュ、これからどうする?」
シエラが尋ねた。
アンジュは空を見て、ゆっくりと答えた。
「わからない。でも……たぶん、また“誰かの言葉”を集めたい。あの日、あたしの中に残ったあの演説のように。……今度は、私がそれを“届ける側”になりたい」
「君なら、できるさ」
コウはその言葉に、微笑みを返す。
「ねえ、コウ。結局、あなたは“誰かに選ばれた”わけじゃない。けど、それでも……」
「うん。おれは“選ばれなかった王国”で、“選ぶことを選んだ”」
風が吹いた。
遠く、教会の鐘が鳴った。
それは、制度としての終わりではなく――
人々が自分の足で、次の一歩を踏み出す始まりの音だった。
第二節 無数の扉
コウは、小さな町へと向かう列車の中にいた。
帝都のざわめきが、次第に過去のものになっていく。
窓の外には、手つかずの野原や古びた家並みが広がっていた。
「もう、英雄気取りはやめようと思ってさ」
誰に語るでもなく、コウはひとりごちた。
あの日、彼の演説を見た人々の中には、「あの若者をリーダーに」と声をあげる者もいた。
だがコウは、静かにそれを辞退した。
「選ばれることがゴールじゃない。声をあげた誰もが、ちゃんと日常を取り戻せる場所がいるんだ」
向かう町には、まだ“変わっていない現実”が残っているという。
補正システムが機能していなかった分、逆に長く無関心が続いた地域。
だからこそ、彼はそこへ行く。
工房を開いて、語って、待ってみようと思った。
「いつかまた、誰かが“考えたい”って思ったとき、そばにいられたら――それでいい」
一方、アンジュは、古い新聞社の跡地を訪れていた。
そこには、紙とインクの匂いがまだわずかに残っていた。
「ねえ、またやってみない? 言葉で届けるやつ」
彼女の隣には、かつての先輩だった通信士・リクがいた。
セレスの審判以降、情報操作が事実として広く知られるようになった今、真の報道を志す若者たちが静かに動き始めていた。
「新聞でも、動画でも、なんでもいい。あの演説みたいな、“心が動く言葉”を、あたしたちが拾っていこうよ」
アンジュの笑顔には、あの頃とは違う確かな意志が宿っていた。
そして――
シエラは、帝都郊外の診療所で働いていた。
かつての投票管理官が、いまは白衣を着て、患者と向き合っている。
「私が正しいって思うことを、誰にも強制できない。でも、“やってみせる”ことはできる」
そう言って彼女は、今日もカルテをめくる。
患者たちの中には、あの“投票の記憶”を語り出す者もいる。
「そうか……あのとき、私は確かに迷っていたんだな」
そんな一言を聞くたびに、彼女の中で何かが報われていくようだった。
誰かに選ばれるわけではない。
けれど、それぞれが自分の手で扉を開いていく。
そんな日々が、静かに始まっていた。
第三節(終)それでも世界は問いかける
夜。
小さな町の図書館で、ひとりの少年が分厚い端末を操作していた。
彼の目には、「旧帝都データ記録:審判の日」の見出しが浮かんでいた。
それはもう、歴史として語られる“昔話”になりつつある。
> 「選ばれなかった王国」は、かつて“誰かに決められる”ことを当然とする国だった。
> しかし一人の青年と、彼に共鳴した人々によって、その国は変わり始めた。
彼の視線が止まったのは、演説の記録映像だった。
再生ボタンを押すと、低く、少しぎこちない声が流れる。
> 「俺は、ただの鍛冶屋だった。でも、黙ってたくなかった」
そこに映っていたのは、飾り気も演出もない、ひとりの青年。
でも、言葉は真っ直ぐで、力があった。
少年は思わず、指を止めた。
(……これが、“あのコウ”って人か)
知らなかった。でも、感じた。
言葉が、届いた。
> 「誰かに選ばれることより、自分で選びたいと思った。
> だから、俺は言う。俺たちは――“考える権利”を持ってるって」
画面の端に表示されたコメント欄には、今でも書き込みが続いていた。
> 「見返すたびに泣いてしまう」
> 「私は当時、沈黙してた。でも今は……違う」
> 「子どもに見せた。何も強要せずに、ただ一緒に考えたくて」
“正解”ではない、“共有された問い”。
それが、世界を変え続けていた。
やがて画面が切り替わり、
> 「当時の記録:市民による討論型投票制度案 可決」
と表示された。
「選ばれなかった王国」は、“選び続ける人々”の国へと変わっていったのだ。
画面を閉じた少年は、ふと思い立ったように、机の上の紙にこう書いた。
> 「もし自分がその時代にいたら、何を選んだだろう?」
彼の筆は止まらない。
問いは、未来へと受け継がれていく。
――たとえ声が届かない夜があったとしても、
世界は、常に誰かに問いかけている。
終幕
この物語は、“誰にも選ばれなかった”者たちが、
“選び取る力”を信じて歩いた記録です。
静かな革命のその先で、
今も世界は、次の声を待っています。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
この物語は、「正しさ」ではなく、「考えることの勇気」を描こうとした試みでした。
声を上げる者が、必ずしも勝つとは限りません。
けれど、何も語られなければ、何も変わらない。
コウの叫びも、アンジュの選択も、シエラの悔いも――
それらは完璧な正義ではないかもしれません。
でも、「もう一度、自分の意志で世界を見てみよう」というたったひとつの行動が、未来に火を灯すと信じています。
“終わった王国”ではなく、“問い続ける国”へ。
その物語に、少しでも心を動かしていただけたなら、作者としてこれ以上の幸せはありません。
どうか、あなたの中にも「問い」を持ち帰っていただけますように。