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影の審判者(シャドウ・アービター)――選ばれなかった王国【前編】

※この物語には、政治・社会制度に関する描写や架空の権力構造(ディープステート、言論統制、選挙制度の改変等)が登場しますが、現実の政治団体・政党・国家・宗教・団体等とは一切関係ありません。

本作はフィクションであり、特定の思想や立場を肯定・否定する意図はありません。


物語を通じて伝えたいのは、「誰もが考える権利を持っている」というシンプルなテーマです。

難しい話を抜きにしても、ひとつの青春群像劇、静かな革命劇として楽しんでいただけるよう構成しております。


物語の導入部となる「序章~第3章」では、閉ざされた国の構造と、主人公たちが“声を上げる前”の葛藤が描かれます。

どうか、彼らの第一歩を見届けていただけたら幸いです。

序章 黒き尖塔と契約の呪い

 かつて、この世界〈エンデラ〉に光はあった。

 人々はそれを「選択」と呼び、希望のように信じていた。

 だが、今やその言葉は、最も巧妙な呪いの一つとなった。

 帝国〈ネス=オウル〉の中心――四方を雲海に囲まれ、天空に届くとされる黒き尖塔〈ミネル・グレイス〉。

 そこに座すは、名もなき者たち。

 彼らは声を持たず、顔を隠し、記録にすら残らぬ存在。

 けれど世界は、彼らによって動かされていた。

 〈影の評議会ディープ・ステート〉。

 選ばれず、選ばせず、ただ契約によってこの世界の「形」を定める審判者たち。

 彼らが手にするのは、千年の昔より継がれる呪文書――〈影法典〉。

 その更新は、あらゆる法と政治、通貨、軍事、思想、信仰を一変させる。

 だが誰も、それに異を唱えることはできなかった。

 なぜなら民衆は、それが「自らの選択」であると、信じ込まされていたからだ。

 今宵もまた、評議会の静謐なる審問が始まる。

 「本日をもって、第六百二十四次影法典審定会を開始する――」

 無機質な声が、塔の奥底から響く。

 長机の周囲に並ぶのは、黒いローブに身を包んだ十二の影。

 その目は空虚で、口元は仮面に隠されている。

 まるで、この世のどの民族にも属さぬように。

 まるで、存在そのものを否定された者たちのように。

 「前回の更新から、民の『投票意欲』は安定的に推移。信仰的帰属による操作率は97.2%。反逆因子、無力化済み」

 「虚構信託指数、加算傾向。今期、娯楽装置の投入により全24地域で調整完了。暴動要因は最低水準」

 「今回の『候補者』選定は?」

 「予定通り。すでに複数案は完成している。結果は変わらない」

 「良し。儀式を始めよ」

 その瞬間、塔の天井に渦巻く紫電が閃いた。

 誰も見上げない。誰も言葉を交わさない。

 それが、すべてが「整っている」証だった。

 黒き尖塔の奥で更新される一枚の法典は、表の世界に伝えられることなく、ただ静かに、しかし確実に未来を塗り替えていく。

 そこに民主主義も民意も存在しない。ただ、制御された“選ばせるための選択肢”だけが整然と並べられる。

 一方その頃、遥か南方の辺境都市カディエル。

 古びた鍛冶屋の炉の前で、一人の少年が黙々と鉄を打っていた。

 名を、コウ。

 彼はまだ知らない。

 自分が、選ばれなかった者として、選ばれし者たちと対峙することになる運命を。

 そして、少女アンジュとの出会いが、この歪んだ王国の歴史を狂わせていくことを。

 影は静かに動いていた。

 誰の目にも映らぬまま、世界を終わらせる準備を整えて。


第一章 票なき民の国

第一節 選挙祭クルザールの朝

 鐘の音が、空気を裂いて鳴り響いた。

 それは祝祭の始まりを告げる音だったはずだった。だが、コウの耳には、何かを告げようとする“警報”のように響いた。

 辺境都市カディエル。大陸南部に点在する貧しい街の一つ。海霧が絶え間なく押し寄せ、街の端々を濡らしていくこの場所では、あらゆるものが朽ちるのが早かった。木造の屋根、衣服の糸、民衆の希望までも。

 それでもこの日ばかりは、街は賑わっていた。

 「選挙祭クルザールだ!旗を掲げろ!自分の意思を示す日だぞ!」

 年老いた商人が叫びながら、どこかで刷られた薄紙の“政策図”を配って回る。内容はどれも似通っており、まるで別々の候補者が同じ口で語っているかのようだった。

 それでも人々は笑い、踊り、賭け事に興じ、酒場の前では声高な演説も繰り広げられていた。

 コウはそれらを遠巻きに見ながら、錆びた工具を手にして、鍛冶屋の炉に火を入れていた。肩にくくりつけた革エプロンがすでに汗を吸い、重たく沈んでいる。

 「おい、若造。今日は休みにしていいんじゃねぇのか?」

 師匠であるヨア老人が、煤まみれの顔でにやりと笑う。

 「選挙の朝だぜ?この街の未来を変えるってさ。お前も一票、投じに行ってこいよ」

 「……票を投じたら、なにかが変わるんですか?」

 そう問い返したコウに、ヨアはしばし沈黙した。やがて、無理に笑みを作りながら、肩をすくめる。

 「ま、気分の問題さ。投票箱の中に、自分の“存在”を入れてるつもりになるってこった」

 「存在、ですか……」

 コウはうつむき、炉に火をくべた。炎がぱちりと跳ね、彼の瞳に揺らめく影を映し出す。

 そのとき、街の中心部に近い広場で、大きな声が響いた。

 「この選挙は偽物だ!あなたたちは選んでなどいない!」

 コウは思わず顔を上げた。

 遠くに見える演説台。

 そこに立っていたのは、赤いマントを羽織り、銀の髪を風に揺らす一人の若い女性だった。

 細身の身体に、決意だけを纏うようなその姿に、コウの胸はわずかにざわついた。

 「名をアンジュという者です。この国は、あなたたちの票を“利用している”だけです。選ばせることと、選べることは違います!」

 群衆の一部がざわついた。

 「また変なのが来たぞ」

 「狂信者か?疫病を撒いたあの連中か?」

 「しゃべらせるな。騎士団を呼べ!」

 石が投げられた。

 だがアンジュは怯まず、まっすぐ群衆を見据えたまま、声を張り上げ続ける。

 「あなたたちが自分の手で未来を選べると思っているのなら、それは幻想です。これは“影の評議会”が仕組んだ支配の儀式。選挙ではなく、契約です!」

 その名を耳にしたとたん、空気がひときわ冷えた。

 “影の評議会ディープ・ステート”――帝国において最大の禁句。存在すら否定される、影の審判者たち。

 「もういい加減にしろっ!」

 怒声と共に、騎士団の制服を着た男たちが演説台に殺到した。

 だが、アンジュはその場から素早く飛び降り、人混みをすり抜けるようにして姿を消した。

 コウは、ふと気づけば道具を手にしたまま立ち尽くしていた。

 火はすでに炉の中で沈み、冷たい灰となり始めている。

 彼は知らなかった。

 この一日が、自身の無関心を、無知を、そして“信じてきたもの”すべてを裏切る始まりとなることを。

 この選挙は、世界を変えるものではない。

 それどころか、世界がすでに“選び終えていた”ことを証明するものなのだと。


第二節 演説台のアンジュ

 コウは、無意識のうちに鍛冶場を飛び出していた。

 「……なんで、俺……?」

 誰に聞かせるでもなく、口から漏れた声が自分でも驚くほど小さかった。

 煙と油の匂いから離れ、濡れた石畳を踏みしめて歩く。街の中心、広場の片隅にはまだ人だかりが残っていた。先ほどの騒ぎの後、演説台は片付けられ、騎士団もすでに引き上げたようだった。

 だけど――彼女だけは、まだそこにいた。

 木箱の上に立っている少女。あのときの、赤いマントの女。

 「……あいつ、またやってる……」

 そう、誰に言うでもなくコウは呟いた。

 アンジュは、静かな声で話していた。

 もう騒ぎにはならないように、でも、ちゃんと届くように。

 「こんにちは。私はアンジュ。……この街の人じゃないけれど、伝えたいことがあるの」

 彼女の目が、まっすぐコウの方を見た気がして、コウは思わず視線をそらした。

 「選挙って、何のためにあるか知ってる?」

 彼女は子どもに語りかけるような優しい声で言った。だが、その言葉には芯があった。

 「“誰を選ぶか”ってことが大事なんじゃない。“選ぶ”って気持ちそのものが、自由かどうかってことなの」

 コウの眉がぴくりと動く。

 アンジュは、ポケットから一枚の紙を取り出した。それは、朝に配られていた“政策図”とそっくりだった。

 でも、紙の裏にはこう書かれていた。

 > 『選ばせてくれてありがとう』――それは、奴らの最高の罠。

 アンジュは続けた。

 「みんなが、“投票したから偉い”って思ってる。だけど、本当に自由なら、選ばないっていう選択だってあるはずでしょう?」

 「でも、選ばなかったら、声を失う。そう言われる」

 「そう思わされてる。だって、そういう風に“決められてる”から」

 コウの中で、何かがじりじりと焼かれるように熱を持ちはじめた。

 「あなたたちの“選挙”は、本当にあなたたちのためにあるの?」

 アンジュの目がまた、コウと合った気がした。

 「誰が候補者を決めてるか、見たことある?どの紙も、どの言葉も、どれもそっくりだと思わない?投票箱の向こうにいるのは、本当に“あなた”なの?」

 コウは知らぬ間に足を進めていた。

 そのとき、アンジュの背後に一人の男が現れた。

 茶色いマントに、胸元には青いバッジ。――投票監視官だった。

 「君、そこまでにしてくれ。演説許可は出ていない」

 「言論って、許可がいるんですか?」

 アンジュの声に、男はひるんだ。

 「……ここは公の場だ。混乱を招くような発言は禁じられている」

 「それって、“違う意見は言うな”ってことですよね」

 その一言に、周囲の何人かが顔を上げた。

 監視官は言葉を失い、ただ苦々しい顔で去っていった。

 アンジュは、コウの方をちらりと見た。そして、木箱から降り、彼に近づいてきた。

 「見てたんだね」

 「……うん」

 「逃げなかったね」

 「……いや、逃げるタイミングを失っただけ」

 「それでも十分よ。だって、興味を持ったってことでしょう?」

 コウは言葉を返せなかった。

 「名前は?」

 「……コウ」

 「コウ。覚えたわ」

 アンジュはそう言って、にっこり笑った。

 その笑顔は、どこか寂しげで――けれど、どこまでも真っすぐだった。

 この日、コウは“誰かに名前を聞かれた”ことより、“自分の名前が返された”ことに、強く胸を突かれた。

 それが、世界のしくみを壊す第一歩になることなど、まだ知る由もなかった。


第三節 コウの葛藤

 夜が、静かに街を包み込んでいた。

 昼間の賑やかな選挙祭の喧騒はすっかり消え、通りには屋台の片づけを終えた木箱と、流された紙屑だけが残っている。人々は誰もがどこか満足げな顔で、まるで何か大事な「義務」を終えたかのように家々へと戻っていた。

 コウは、鍛冶場の炉の前で一人、火も灯さずに座っていた。

 心の中で、何かが引っかかったままだった。

 (あの子の言葉……なんだったんだ?)

 「選ぶって、本当に自由なの?」

 「選ばせてくれてありがとう、それが罠だって?」

 「選ばない自由もある――?」

 コウの頭は、それらの言葉でいっぱいだった。

 鍛冶屋としての仕事は好きだった。火を扱い、鉄を鍛え、確かな形にしていく。目の前のものに力を与える。曖昧さが少なく、答えがある。

 だけど――政治とか、選挙とか。そういうものは、いつも遠くの誰かの話だった。

 「俺には関係ない」

 ずっとそう思っていた。そう思い込んできた。

 けれど今、初めて「関係ない」が不自然に思えた。

 (関係ないのに、なんで心がザワつく?)

 まるで、自分の知らないうちに、誰かに何かを“選ばされていた”ような、そんな変な感じ。

 ふと、作業台の上に置いてあった紙束に目をやる。昼間配られていた政策図のひとつだ。

 大きな見出しで「あなたの一票が未来を創る!」と書かれていた。

 (あんなの、どれも同じじゃないか)

 候補者の顔写真も、書いてある約束も、違いがあるようで同じに見える。

 「増税は避けます」「働きやすい社会へ」「国の安全を守る」

 どの紙にも、そんな言葉が並んでいた。

 (それが、“選択肢”なのか?)

 どれも、選んだつもりになるだけ。選んだように“見える”だけ。

 (……アンジュは、嘘をついてたわけじゃない)

 コウの胸が、少し痛んだ。

 けれど、その“正しさ”に従うことも、簡単じゃなかった。

 もし本当に、今の選挙が支配の一部だったとしたら?

 もし自分がずっと、騙されたままだったとしたら?

 それを認めるのは――とても、怖いことだった。

 そのとき、扉がきい、と小さく開いた。

 「コウ」

 入ってきたのは、師匠のヨアだった。手には小さな灯りを持っている。

 「火、落としてるじゃねえか。冷えるぞ」

 「……すみません」

 「……何かあったな。顔に書いてある」

 ヨアはそう言って、無言のまま隣に腰を下ろした。

 二人の間に、ゆっくりと静寂が落ちる。

 しばらくして、コウがぽつりと呟いた。

 「選挙って……本当に、意味あるんですかね」

 ヨアは驚かず、むしろどこか懐かしそうに笑った。

 「お前も、あの子に出会ったか」

 「え……?」

 「赤いマントのアンジュって子だろ?演説を何度も潰されても、毎年やってる。こっそりと、静かに」

 「……知ってたんですか」

 「知ってたとも。だが、何も言わなかった。お前は、どうせ興味なんて持たんと思ってたからな」

 コウは黙ってうつむいた。

 「……もし、全部が嘘だったら。もし、俺たちが“選んでる”と思わされてただけだったら、どうすればいいんですか」

 「その答えを見つけるのが、お前の番なんじゃないか?」

 ヨアは静かに立ち上がった。

 「コウ。火を鍛えるのは、鉄だけじゃない。考えることだって、自分の心を鍛えるんだ」

 そう言って、炉に火をくべた。

 しゅう、と音を立てて炎が灯る。

 コウは、その光の中で、もう一度あの笑顔を思い出していた。

 演説のあと、自分の名前を呼んでくれた、あの真っ直ぐな眼差しを。

 (……もし、あの子が本当に戦ってるなら)

 (俺は……もうちょっと、話を聞いてみてもいいかもしれない)

 静かに、心のどこかが決まり始めていた。


第四節 密会と真実の扉

 次の日の夕方、コウは街の外れ、古い井戸の跡地に立っていた。

 この場所は、誰も近寄らない“忘れられた場所”だった。昔、水が枯れてしまってから放置された井戸は、今では石の枠だけが残り、草に埋もれている。

 だけど、その井戸の石に――赤い印が、うっすらと描かれていた。

 「……やっぱり、これだったか」

 コウは昨日、アンジュが演説のあとに消えていった方向を追いかけてみた。

 途中で見失ったが、街の掲示板の裏に貼られていた小さな紙片に導かれ、この場所にたどり着いたのだった。

 井戸の中は、思ったより深かった。

 はしごがついていたのは偶然じゃない。きっと、誰かが使っている。

 コウは深呼吸し、覚悟を決めて、静かにはしごを降りていった。

 数メートル降りた先には、横穴がぽっかりと開いていた。

 小さなランタンが灯されており、誰かがここにいることを示していた。

 その先で、赤いマントが揺れた。

 「やっぱり来たんだね」

 声の主はアンジュだった。

 あの日と同じ、でもどこかほっとしたような顔をしていた。

 「……来るなって言われてないし」

 「言わなかったけど、来るとは思ってなかった」

 アンジュはふっと笑った。

 地下室は狭く、古い倉庫のような場所だった。壁には地図や紙が貼られ、書き込みだらけの資料が床に散らばっている。

 小さな机の上には、“政策図”とは全く違う、奇妙なリストが置かれていた。

 「それ、見てもいい?」

 「もちろん。……でも、驚かないでね」

 コウは、紙に目を通した。

 いくつもの名前がびっしりと並んでいる。

 政治家、企業家、放送局の幹部、新聞社の代表、学者、ジャーナリスト……。

 その横には、それぞれ金額と日付が記されていた。

 「……これ、なに?」

 「“報酬を受け取った人たち”の記録。選挙制度の裏で、お金と権力を交換してきた人の名前よ」

 コウの手が止まった。

 「じゃあ、やっぱり……選挙って……」

 「うん。あれは、見せかけなの。本当は、もう“選ばれている”。選ばせているように見せかけてね」

 アンジュは紙の束をしまい、コウを見た。

 「でもね、これを暴露しても、誰も信じないの。メディアは報道しない。言っても“陰謀論だ”って片付けられる」

 「……なんで?こんなに証拠があるのに?」

 「だって、“知りたくない”んだよ、人は。自分の選んできたものが、全部ウソだったなんて、怖すぎるもの」

 コウは言葉を失った。

 その気持ちは、わかる気がした。

 自分も、そうだったから。

 「でも、それでも、伝え続ける人がいなきゃダメなの」

 アンジュの声は、静かだけど強かった。

 「もし一人でも、目を覚ましたら。もし一人でも、“おかしい”って思えたら。きっと、何かが変わるって、私は信じてる」

 コウは、ゆっくりと彼女の目を見た。

 もう、自分が何も考えずに生きていたことは、認めるしかなかった。

 でも今は、それが恥ずかしくも、悔しくもあった。

 「……じゃあ、俺にも教えて。その“影”ってやつのこと。もっと詳しく」

 アンジュの瞳が、ほんの少し潤んだ。

 「ありがとう。コウ」

 小さな地下の灯りが、ふたりの間に揺れていた。

 その炎のように、まだ小さな“希望”が、確かに灯っていた。



第二章 黙契サイレンスの刻印

第一節 投票儀式と“刻印”の秘密

 投票当日の朝。

 カディエルの街は、昨日以上のにぎわいを見せていた。

 通りには花が飾られ、太鼓と笛の音が鳴り響く。子どもたちは紙でできた小さな投票箱を抱えて遊び、大人たちは顔を赤くしながら、今日の一票について語り合っていた。

 「投票は義務だ!」

 「自分の意思を未来につなぐんだ!」

 あちこちから、そんな声が聞こえてくる。

 でも、コウの心は落ち着かなかった。

 (これは、本当に“自分の意思”なんだろうか)

 アンジュの言葉が、頭の中を何度もよぎる。

 「選ばされているだけだよ」

 「本当は、もう決まってる」

 そんなこと、今までは考えたこともなかった。

 でも今は――そうである可能性を、否定しきれなくなっていた。

 「……行ってみるか」

 そう呟いて、コウは投票所へと足を向けた。

 投票所は、街の中心にある大きな建物――旧神殿の中に設けられていた。

 石造りの柱、奥行きのあるアーチ、しんと静まり返る空間。

 中に入ると、さっきまでの祭りのような雰囲気が嘘のように消え、空気が重く感じられた。

 案内係の男性が微笑みながら手招きしていた。

 「どうぞ、こちらへ。身分証をかざして、紙に署名をお願いします」

 「……はい」

 コウは言われるまま、名を記し、印を押した。

 その瞬間、奥から白いローブを着た女性が現れた。

 「投票者、コウ・エイン。左手をお見せください」

 「……え?」

 「少々の接触を行います。“確認印”ですのでご安心ください」

 彼女はそう言って、コウの左手首に冷たい金属の円盤を押し当てた。

 “チッ”という小さな音。軽く電気が走ったような感覚。

 「痛くはありません。これで、投票の準備が整いました」

 「これ……何ですか?」

 「識別印です。重複を防ぐため、皆さまにお付けしています」

 コウは小さくうなずきながら、自分の左手を見る。

 肌には何も残っていない。

 でも、皮膚の奥――骨の内側まで、何かが入り込んだような違和感が、確かにあった。

 そして、いよいよ投票の番が来た。

 仕切りの向こう、机の上に並べられた「候補者一覧」。

 名前と顔、簡単な経歴が記された紙。

 けれど、どれを見ても――昨日アンジュと見た“影のリスト”に載っていた顔ばかりだった。

 (全部、つながってる……)

 どれを選んでも、裏では同じ線につながっている。

 形を変えただけの“同じ答え”。

 コウは手を止めた。

 投票紙に印をつけようとした指が、ぴたりと止まったまま動かない。

 (これ……選んでるふりをしてるだけじゃないか?)

 そのとき、不思議な感覚が走った。

 頭の奥、深いところに――“何かが刻まれる”ような気配。

 言葉では説明できない、静かな“命令”のようなもの。

 《……疑問を持つな。選んだ。それでいい。……お前は自由だ》

 誰かが、心の奥に囁いてくる。

 コウは、ぞっとした。

 (これが……刻印?)

 アンジュが言っていた“沈黙の印”――黙ってしまうための魔法のようなもの。

 《考えるな。疑うな。次へ進め》

 声は静かだった。でも、強かった。

 「……違う!」

 コウは紙を握りしめ、投票箱に入れずにその場を離れた。

 係員が一瞬こちらを見たが、何も言わなかった。

 いや、“言えなかった”のかもしれない。

 そのまま外に出ると、空はいつの間にか曇りはじめていた。

 遠くで雷の音が鳴っている。

 コウは左手を見た。

 そこにはやはり何もない――でも、心には確かに何かが残っていた。

 これは、ただの投票じゃない。

 これは――「封印」だ。

 知らずに投じれば、誰もがそれに気づかないまま、自分の声を閉ざしてしまう。

 コウは息を呑んだ。

 (やっぱり、アンジュの言ってたことは……全部、本当だったんだ)

 そして、この世界は、本当に「選ばせているふり」をしているだけなんだ――と。


第二節 変わってしまった友

 投票所を出てから、コウは街をさまよっていた。

 まだ雨は降っていない。けれど空はずっと重く、まるで空そのものが黙って何かを見下ろしているようだった。

 (本当に、みんな……気づいてないのか?)

 選挙を「イベント」として楽しんでいた人々の笑顔が、頭の中でぐるぐると回っていた。

 誰もが“選んでいる”と思っている。でもその実、選ばされた道を歩かされている。

 (俺たちが見ているのは、壁に映された影だけなんじゃないか)

 そんな思いを抱えながら、コウは一軒の屋台に目を留めた。

 小さなたこ焼き屋だ。そこにいたのは――

 「……リョウ」

 同い年の友人だった。

 幼い頃からずっと一緒に育ってきた、気のいい奴。冗談ばかり言うけれど、情には厚い。

 そのリョウが、まるで別人のような無表情で、焼けたたこ焼きを整然と並べていた。

 「よお、リョウ。久しぶりに見たな」

 声をかけたが、返事はなかった。

 (……あれ?)

 「なあ、今朝、投票行った?」

 その瞬間、リョウがカチリと手を止めた。

 そして、機械のように顔を上げる。

 「もちろんだ。僕は国民だから、義務は果たしたよ」

 笑ってはいた。けれど、その笑顔に“中身”がなかった。

 「なあ、あの印って、なんか変じゃなかったか?」

 「印?何のこと?」

 「左手首に押されたやつだよ。冷たくて、電気みたいな……。そのあと、なんか“考えるな”って言われてる気がして――」

 「コウ」

 急に、リョウの声が低くなった。

 「そういうこと、言うもんじゃないよ。混乱を招く。今は選挙期間中だし、下手なことを言うと通報される」

 「えっ……?通報?」

 「君、誰かに影響された? 最近、“変な噂”を広めてる連中がいるって聞いた。そういうのは――国家の安全を脅かす行為だ」

 リョウの目が、まっすぐで、冷たい。

 それは、いつも笑っていたあのリョウの目じゃなかった。

 「なあ、冗談だって。そんな本気になんなよ」

 「冗談かどうかは、国家が判断することだよ。コウも……気をつけた方がいい」

 そう言って、彼はまた無言で鉄板に向き直った。

 コウはその場から離れるしかなかった。

 (……あれが、“刻印”のせいなのか)

 あのリョウが、“国家が判断する”なんて言うなんて。

 まるで、誰かの言葉をそのまま口にしているようだった。

 (考えないって、こういうことなのか……)

 まるで、心の奥に「壁」ができたみたいに、自分で考えようとしなくなる。

 おかしいと思っても、その気持ちが湧いてこない。

 それが、“沈黙の印”。アンジュの言っていた、黙らせる魔法の正体。

 それでも、リョウの最後の言葉が、ずっと耳に残っていた。

 ――「君、誰かに影響された?」

 (……アンジュが、狙われるかもしれない)

 今までは「変な奴がいる」で済まされていた。

 でも、コウが本気で動いたことで、アンジュの名前まで注目されてしまうかもしれない。

 (やばい……知らせなきゃ)

 コウは踵を返し、全力で街の裏通りへと走り出した。

 誰かの言葉じゃなく、自分の意思で。


第三節 裁かれるアンジュ

 裏通りは、いつもと違う静けさに包まれていた。

 コウは走りながら、足音を消そうと必死だった。

 胸の鼓動が早くなる。けれど、それ以上に心を締めつけていたのは、不安だった。

 (もう、遅いかもしれない……)

 あのリョウの反応。あの言葉。

 “通報”。“国家が判断する”。

 それらが意味するものは――アンジュに危険が迫っているということだ。

 井戸の跡地へと続く道に入った瞬間、コウは立ち止まった。

 そこに、見慣れない男たちがいた。

 黒い防具をまとい、腕には青い紋章。

 それは、騎士団の中でも特別任務にあたる部隊――“検閲隊”。

 (くそ……先回りされてる)

 彼らは井戸の周囲を無言で囲み、何かの準備をしている様子だった。

 コウは後ずさりし、裏手の塀をよじ登って裏口から回ることにした。

 急がなければ、アンジュは――

 地下へと通じる穴を抜け、小さな扉を開けた瞬間、コウは思わず叫んだ。

 「アンジュ!」

 彼女はそこにいた。けれど、すでに立ち上がっていた。

 小さな荷物をまとめ、いつでも逃げられるようにしている。

 「……コウ。遅かったね」

 「……なんで、逃げないんだよ!」

 「もう、知ってる。見張られてた。ずっと前から」

 アンジュの目は、どこか静かで、決意がにじんでいた。

 彼女は一枚の紙を見せた。

 それは――逮捕命令。

 “選挙妨害者・扇動者・情報撹乱罪”

 「街中に、この紙が貼られた。リスト157の一部が、外に漏れたの」

 「じゃあ、やっぱり……誰かが……!」

 「気づかないふりをした人もいた。でも、通報した人もいる。それが今のこの国の“現実”」

 「……くそっ!」

 コウは拳を握りしめた。悔しさが滲んだ。

 「君まで巻き込みたくなかったんだけどね」

 アンジュは、ふっと笑った。

 「でも、今さら逃げても同じ。だったら――言葉を届ける」

 彼女は立ち上がり、荷物の中から一本の筒を取り出した。

 「これ、“投票刻印”の正体を書いた資料。私の演説記録も、リストの一部も、ここにある。……コウ、これを持って逃げて」

 「俺が……?」

 「そう。私はここで時間を稼ぐ。あの人たちが来たら、堂々と名乗る」

 「そんなの無茶だ!」

 「無茶だって、わかってる。でも、“誰かが動かない限り、何も変わらない”って……私、もう知ってる」

 アンジュの目は、強くて――優しかった。

 コウはしばらく言葉が出なかった。

 でも、手を伸ばして、その筒を受け取った。

 「……必ず、届ける。絶対に」

 「うん。信じてる」

 そのとき、外で鋭い声が響いた。

 「開けなさい!国家検閲隊だ!」

 アンジュは深く息を吸い、ゆっくりと扉へ向かう。

 コウは別の通路から、裏口へと走り出した。

 地面を蹴る足に、迷いはなかった。

 彼の中で、確かな決意が育ち始めていた。

 (俺はもう、ただの“傍観者”じゃない)

 彼はもう、何も知らない少年じゃなかった。

 “真実”を知ってしまった者の一人として――声を上げる番が、近づいていた。


第四節 地下への逃走と影の正体

 コウは、夜の街を駆け抜けていた。

 手には、アンジュから託された記録筒。中には、投票刻印の仕組みや、〈影の評議会〉とのつながりを示す証拠が入っている。

 (絶対に、これを渡さなきゃ……!)

 騎士団の見回りが増え、広場には監視灯が灯されていた。

 市民たちは何も知らずに笑っている。

 その中で、アンジュが捕まった現実だけが、コウの心を締めつけていた。

 (俺だけ逃げて、ほんとに……これでいいのか?)

 足が止まりそうになる。

 けれど、彼女の最後の言葉が、胸の奥で鳴り響いていた。

 ――「何かを変えるには、まず“届けること”から始まるの」

 そのときだった。

 「こっちだ!」

 誰かの声が響き、暗がりから男が手招きしてきた。

 驚いたコウは、とっさに後ずさった。

 「……誰だよ、お前」

 「アンジュに頼まれてた。逃げ道の案内だ」

 黒いフードをかぶった青年だった。年はコウとそう変わらない。

 けれど、その目は鋭く、どこか悲しげだった。

 「ついてこい。ここじゃ話せない」

 ためらう間もなく、コウはその背中を追った。

 連れてこられたのは、古い水路の奥に作られた隠れ部屋だった。

 中には、十数人の男女が集まっており、どの顔にも疲れと覚悟が刻まれていた。

 「ここは……?」

 「〈ミネル下層派〉の拠点。俺たちは“影”の支配から逃れた者たちだ」

 「ミネル……って、あの尖塔の?」

 「ああ。あそこがすべての始まりだ。そして終わりでもある」

 コウは、資料筒を抱えたまま、その場に立ち尽くした。

 「……アンジュが、捕まった」

 そう言うと、部屋の空気が一瞬止まった。

 「やっぱり来たか……検閲隊。最近、動きが急に強まってたからな」

 男が悔しげに唇を噛む。

 コウは震える声で言った。

 「俺、どうしたらいい?この筒、どうすれば――」

 年長の女性が、そっと手を伸ばして言った。

 「君が持っていて。この情報はまだ、表に出すには早すぎる」

 「早すぎる?」

 「暴露すればいいってもんじゃないの。中身を知らない人にいきなり“真実”を突きつけても、信じないか、パニックになるだけ。まずは、伝える手段を整えなきゃ」

 別の男がうなずく。

 「この国を操っている〈影の評議会〉は、民が“目を閉じるように育てる”のが得意だ。言葉じゃ壊せない。必要なのは、きっかけだ」

 「……きっかけ?」

 「たとえば、“誰かが消された理由”。“誰が選ばれ、誰が選ばせているのか”。その矛盾に気づかせるきっかけが、情報の“使い方”なんだ」

 それは、アンジュの言葉とも重なった。

 ――「ただ暴くんじゃない。届けて、考えてもらうの」

 コウは、小さくうなずいた。

 「……俺、やります。アンジュが命がけで託してくれたんだ。逃げてるだけじゃ、何も変わらない」

 青年が、目を細めた。

 「いい目をしてる。名前は?」

 「コウ」

 「俺はジン。……よろしくな」

 小さな地下の一室で、新たな火が灯った。

 それは、まだ弱々しいけれど、確かに「変わろうとする意志」の火だった。

 その夜、コウは知った。

 〈影の評議会〉とは、人の形をしていない。

 本当の“影”とは――民の中に根づいた、「疑わない心」そのものだと。



第三章 選ばれし影の使徒

第一節 地下都市ノースヴェール

 空の見えない通路を抜けた先。

 そこには、想像を超える“もう一つの世界”が広がっていた。

 「ここが……ノースヴェール?」

 コウは思わず息を呑んだ。

 巨大な洞窟の中に築かれた街。

 岩壁に沿って家々が並び、天井には人工の光が星のように灯されていた。

 水が流れ、小さな農園すらある。まるで“地上をあきらめた者たち”が、自分たちの空と大地を作ったような場所だった。

 「ここは、元々帝国の避難シェルターだった。災害用の地下都市さ。けど、今はもう政府も存在を忘れてる。……いや、“忘れたふりをしてる”って言った方が正しいな」

 ジンが、手を後ろに組んで歩きながら説明していた。

 「ここにいるのは、影に従わなかった人、印に抵抗した人、そして“選ばれなかった人たち”」

 広場では子どもが笑い、壁には自由な言葉が描かれていた。

 「考えるな、は考えろのサインだ」

 「票がなくても声はある」

 そんなメッセージがあちこちにあった。

 「……なんで、こんな場所が隠されてるんだ?」

 「だって、この場所が“自由の証拠”だからさ。帝国がどれだけ支配してるつもりでも、支配されない人間がいるって証明になる」

 ジンは振り返り、真剣な目でコウを見た。

 「君も、“選ばれなかった”側に立つ覚悟があるか?」

 「……わからない。でも、アンジュはここに希望を託した。だから、俺も逃げずに立ちたい」

 その言葉に、ジンは小さくうなずいた。

 「……なら、見せてやる。ここの“心臓部”を」

 ノースヴェールの最深部には、巨大な旧軍司令室があった。

 そこには円形のスクリーンと、記録装置が並ぶ。中央には一冊の分厚いファイルが鎮座していた。

 「これは、俺たちが集めた“影の記録”。過去30年にわたる選挙操作、メディア買収、情報封鎖――すべての裏付けだ」

 ジンは、コウにそのファイルを開かせた。

 中には、驚くべき名前の連続。

 政治家、学者、企業のトップ、芸能人、司祭、教育者……。

 そして、その横には――金額。

 「……これが、影のネットワーク?」

 「違う。これは“買われた証拠”。つまり――彼らもまた、“選ばれた”んだよ。自由じゃなく、忠誠を」

 コウは思わず息を止めた。

 「じゃあ……アンジュは、なにを選んだんだ?」

 ジンは、少しだけ寂しそうに笑った。

 「“誰にも選ばれない”ってことを、選んだんだよ」

 その言葉は、コウの胸に深く突き刺さった。

 この世界では、「選ばれること」が名誉であり、守られることであり、生き残る術だった。

 でもアンジュは、それを拒んだ。

 自分の信じた言葉を、自分の足で届けようとしていた。

 そして今、コウはその“道”の上に立っている。

 「俺……この記録を、生かしたい。もっと多くの人に、本当のことを知ってほしい」

 「簡単じゃないぞ。信じない人も、裏切る人も出てくる」

 「それでも、知ってしまったからには、もう黙っていられない」

 ジンはしばらく黙っていたが、やがて頷いた。

 「……わかった。じゃあ、君にも仲間として、“任務”を任せる。これから一つ、危険な場所に行ってもらう」

 「危険?」

 「ノースヴェールの近くにある、旧情報塔“ラクト・ゼロ”。そこに、影の“原型”が保存されてる。……言葉じゃなく、“意志そのもの”を封じた記録だ」

 「意志……?」

 「影とは“考えを止めた民の集合体”だ。もし、それを見つけて解放できれば――この国を変える突破口になる」

 コウの中で、迷いが少しずつ消えていった。

 ――これはもう、誰か任せの戦いじゃない。

 自分の“声”を取り戻す旅だ。


第二節 リスト157の中身

 ノースヴェールの旧司令室――

 かつて地上から発せられたすべての命令がここを経由したといわれる場所で、コウは深く椅子に座り込んでいた。

 机の上には、厚く重たいファイル。

 “リスト157”――影の評議会が秘密裏に報酬を与え、「協力者」として使ってきた者たちの名簿。

 ジンはその中から数ページを抜き出し、コウの前にそっと差し出した。

 「これが、“今までの選挙に関与してきた者”たちの一部。名前と受け取った金額、そして……投票操作に使われた手段も載ってる」

 コウは、覚悟を決めて紙をめくった。

 1人目、2人目、3人目――

 見たことのある名前もあれば、まったく知らない者もいる。

 それでも、“影のつながり”が網のように広がっているのが伝わってくる。

 「みんな……何かしらの立場にいる人ばかりだ」

 「ああ。影は、“声を持つ者”を買うのが一番効率がいいと知っている。言葉を操る者、映像を扱う者、票を数える者――全部だ」

 ページをめくるたび、コウの背中に冷たい汗が伝った。

 そして――ある名前で、手が止まった。

 “ヨア・レイン”

 「……え……?」

 文字が、にじんで見えた。

 「……嘘だ」

 コウはその名を指差した。

 「これ……俺の、師匠の名前だ」

 鍛冶屋のヨア老人。

 幼い頃から面倒を見てくれた。無口だけど、どこか温かくて、寂しさを包んでくれるような存在だった。

 「ありえない……そんな人じゃ……」

 ジンがゆっくりと隣に腰を下ろした。

 「コウ。君にとって大切な人だったかもしれない。でも、影は“優しい顔をしている”からこそ、民は気づかないんだ」

 「でも……!」

 「よく見ろ。その横に記されている日付。アンジュが初めて捕まった時期と一致してる」

 コウは、顔をしかめた。

 記録には、金額とともにこう書かれていた。

 > “協力報酬:異端分子の所在報告および居住地の提示。報酬条件:匿名保持”

 「……俺が……鍛冶場でアンジュの話をした、そのすぐあとだ」

 コウの胸に、ずんと重たい痛みが広がった。

 「俺……信じてたのに。ずっと一緒に働いてきたのに……!」

 「きっと、最初からじゃない。最初は善良だった。でも、どこかで“選ばれてしまった”。そのとき、断ることができなかったんだ」

 コウは立ち上がり、部屋の隅に駆け寄った。

 壁に掛かっていた古い鏡に、ぐしゃぐしゃの自分の顔が映る。

 「信じるって、何なんだろうな……」

 そう呟いたその声は、震えていた。

 誰かを信じる。何かを信じる。

 それは“その人が嘘をつかない”と願うこと。

 けれど、その願いが裏切られたとき――心はどこに戻ればいいのか。

 ジンが、ゆっくりと近づいてきた。

 「コウ。ここから先は、もっと苦しくなる。でも……それでも進むのか?」

 コウは目を閉じ、深く息を吸った。

 「俺はもう、知らないふりをしたくない」

 「ならば……君も選ばれたな」

 「いや。俺は――“選ばれない”方を、選んだんだ」

 ジンが、思わず笑った。

 その言葉は、この場所に集う者たちの合言葉のようでもあった。


第三節 分裂する反乱者たち

 ノースヴェールに緊張が走っていた。

 広場には、普段よりも多くの人が集まり、誰もが押し殺したような声で何かを話していた。

 「アンジュが連行されたって……やっぱり、検閲隊にやられたのか?」

 「彼女は目立ちすぎた。正しいことでも、言いすぎれば命取りだ」

 「いや、違う。“正しさ”が届かなかったんだよ。言葉じゃ足りなかったってことさ」

 その中心にいたのは、ジン。そしてコウ。

 コウは皆の前に立ち、アンジュから託された記録筒を手にしていた。

 彼女の覚悟を無駄にしたくなかった。ただそれだけだった。

 「……これが、アンジュの残した“証拠”です」

 言いながら、手元の筒をしっかりと握る。

 「影の構造、刻印の仕組み、情報操作の記録……全部がここにある。でも……これを、どう扱うかは、俺たち次第です」

 その言葉に、反応は割れた。

 「今すぐ公開すべきだ! 世間が知らないから、こんなことになったんだ!」

 「バカを言うな。中身を暴いたところで、誰が信じる?証拠だけじゃダメだ。タイミングと“流れ”が必要だ」

 「お前は慎重すぎる。今まで何もできなかったじゃないか!」

 「もう一度捕まったら、今度はアンジュみたいに“消される”ぞ!」

 口論は次第に大きくなり、言葉がぶつかり合う。

 自由を掲げる者たちが、自由を守るために争い始めていた。

 コウはその光景に、ただ立ち尽くしていた。

 (みんな、“正しい”と思ってる。でも、その“正しさ”が違っている)

 争いの渦の中、ふと、ひときわ静かな声が届いた。

 「コウ」

 振り向くと、そこにいたのは、薄青のフードを被った少女。

 見覚えのある顔だった。

 「……シエラ?」

 「うん。アンジュとは、別の場所で活動してたの。今まで、連絡を取るなって言われてたけど……あなたが彼女の記録を持ってきたって聞いて」

 コウはうなずいた。

 「……シエラ。どうすればいいんだろう。これ、どうしたら……」

 彼女は少し黙ってから、言った。

 「この記録、使い方を間違えると、ノースヴェールが内側から崩れる。でも、正しく伝えられれば――新しい火を灯せる」

 「……正しく?」

 「それは、“伝える言葉”じゃなく、“誰が、どう語るか”ってこと。コウ、あなたが“裏切られた人の名前”を見つけたこと。……それを隠さないで話すの」

 コウは目を見開いた。

 「俺が……?」

 「そう。“選ばれた人”に裏切られた痛みは、本当の言葉になる。誰もが正義を掲げたがるけど、その正義には“物語”がないと届かない」

 「物語……」

 「アンジュは、それを一人でやってた。今度は、あなたが語る番」

 争っていた仲間たちの声が、少しずつ静まりはじめていた。

 皆がコウとシエラの方に目を向けている。

 コウは、そっと前に出た。

 「俺は……信じていた人に、裏切られました。ずっと大事だった人が、影とつながってた。でも、それを知って、黙っていられなかった」

 「だから、逃げずにここに来ました。俺にとって、この記録は“誰かのせい”を暴く道具じゃない。これは、“自分の目を開くための鍵”なんです」

 広場の空気が、少しだけ変わった。

 叫ぶ声が止み、誰もが――自分の中の“静かな疑問”に向き合い始めていた。

 ジンが、ゆっくりとうなずいた。

 「……よし。なら、次の手を打つ」

 その目は、はっきりと何かを見据えていた。


第四節 検閲騎士団の襲撃

 それは、音もなく始まった。

 深夜。ノースヴェールの天井灯が一斉に揺れた瞬間――遠くで「ドン」と重たい衝撃音が響いた。

 誰かが叫ぶより早く、地下都市の壁が震え始めた。

 「爆音……!? これは……!」

 ジンが顔をしかめ、通信装置に走る。

 「……こっちが先に動いたつもりが、逆だったか」

 コウは何が起きているのか理解できず、ただその場に立ちすくんだ。

 「ジン、これは……!」

 「検閲騎士団だ。連中、ノースヴェールの位置を突き止めた」

 その言葉に、全員が息を呑んだ。

 「どうして……ここは隠されてたはずじゃ……!」

 「どこかで情報が漏れたか、あるいは……最初から“泳がされてた”かもしれない」

 壁の奥から、重く金属を引きずるような音が近づいてくる。

 それは、地面を踏みしめる重装歩兵の足音。検閲騎士団の独特な行進音だった。

 「防衛隊、配置につけ!市民は避難ルートCへ!」

 ジンが叫び、反乱者たちが動き出す。

 「コウ、お前はこっちだ!記録筒を持って、必ず逃げろ!」

 「でも……!」

 「お前まで捕まったら意味がない!」

 叫ぶジンの言葉が、地下の空気を切り裂いた。

 そのとき、爆風が襲った。

 ノースヴェールの南側通路が吹き飛び、騎士団の黒い影が現れる。

 「逃走者を発見。沈黙化処理を実行する」

 その声は機械のように無感情だった。

 コウは背中に記録筒を括りつけ、仲間の一人に手を引かれて走り出した。

 爆音、悲鳴、命令、煙――すべてが混ざり合う。

 小さな子どもが泣きながら、母親の手を引いて逃げていく。

 若い兵士が弓を放つも、検閲騎士団の厚い装甲に阻まれる。

 「前方を制圧せよ。言語発信源、即刻処理」

 検閲騎士団は、人の“声”に反応して動く。

 言葉を封じ、考える者を排除する。それが彼らの任務だった。

 「しゃべるな!気配だけで移動しろ!」

 反乱者のひとりが叫ぶ。

 コウは、肺が破裂しそうなほど走りながら、それでも足を止めることができなかった。

 (こんなことで、終わってたまるか……!)

 アンジュがくれたもの。

 シエラに託された言葉。

 ジンたちが守ろうとしている場所。

 全部が、自分の中で火になっていた。

 「コウ、こっちだ!」

 シエラが隠し通路を開け、手を伸ばしていた。

 「北通路へ抜ける!第二の退避口に通じてる!」

 「ジンは……!」

 「残って時間を稼いでる!行って!」

 ためらいながらも、コウは飛び込んだ。

 扉が閉まり、重い鉄音が響く。

 その後ろで――

 「ノースヴェールは、消させない!」

 ジンの最後の叫びが、耳に焼きついた。

 狭い通路を抜けた先、ようやく外気が流れ込んできた。

 地下都市ノースヴェールは、地鳴りとともに崩れはじめていた。

 その光景を振り返ったコウの瞳には、涙が浮かんでいた。

 (……俺が、届けなきゃ)

 いまや希望の記録は、彼の背中ひとつに委ねられていた。


第五節 血と誓いの夜

 夜が明けなかった。

 空は黒く、星の一つも見えない。

 風が吹きつける岩山の尾根に、コウは一人、膝をついていた。

 あのとき、ノースヴェールの最後の扉が閉じたあと――

 崩落の音が地下から響いてきた。誰かの悲鳴が混ざっていたかもしれない。でも、それすらも飲み込まれるほど、静かだった。

 今、目の前にあるのは、瓦礫と、焼け焦げた空気と、ただの“喪失”。

 「……守れなかった」

 その言葉が、自分の声だとは思えなかった。

 アンジュを助けられなかった。

 ジンも。司令室の仲間たちも。

 あの地下都市も――もう、存在しない。

 (俺は、ただ記録を持って逃げただけじゃないか)

 肩に背負った筒の重みが、心の重さと重なってのしかかる。

 言い訳も、慰めも、意味を成さなかった。

 そのとき、誰かがそっと隣に座った。

 「……見えない夜って、やっぱり怖いね」

 声の主はシエラだった。

 「でも、それでも明けるって、信じるしかないのよ。私たちは」

 コウは顔を上げることができなかった。

 「こんな結末、望んでなかった。みんなが、命懸けで築いてきた場所を、俺……守れなかった」

 「違うよ。コウが記録を持ち出してくれたから、今も“火種”は残ってる」

 「だけど、あれはもう“希望の火”じゃない。“復讐の火”になりそうで怖い」

 沈黙が流れた。

 シエラは、星のない空を見上げながら言った。

 「私ね、かつて騎士団にいたの。小隊で、沈黙化任務にも参加してた。言葉を封じる“対象”を見つけて、連行する部隊にいた」

 「……え?」

 「自分の手で、何人もの“声”を消した。でも、あるとき、一人の少女に言われたの。“あなたは、選ばされた側じゃなく、選び続けられる側よ”って」

 「……それって……アンジュ?」

 「うん」

 シエラは、少しだけ微笑んだ。

 「だから、私は決めた。“守る”って言葉は、盾になるだけじゃない。“誓う”って意味でもあるって」

 その言葉が、静かにコウの胸に染み込んでいく。

 彼は、そっと拳を握った。

 「俺は……もう、ただの逃げるだけの奴じゃない。誰かの言葉に動かされるだけでもない」

 「コウ……?」

 「俺は誓うよ。影の支配を、終わらせるって。奪われた声を、取り戻すって。誰かの正しさじゃなくて、“自分の想い”で動くって」

 その声には、昨日までにはなかった“意志”が宿っていた。

 シエラはうなずき、手を差し出した。

 「その誓い、私も一緒に背負うよ」

 コウは、その手を強く握った。

 夜はまだ明けていなかった。

 だけど、二人の間に生まれた“言葉”だけが、小さな光となって確かに灯っていた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


“選ばれなかった王国”という言葉には、「誰にも期待されなかった」「変わることを諦められていた」国、という意味を込めています。

その中で、主人公たちは“変える側”ではなく、“問いかける側”として行動します。


序章~第3章では、まだ物語の土台部分です。

コウ、アンジュ、シエラたちがそれぞれ何を背負っているのか――

そして、なぜこの国に異変が起きたのか。


次章から、世界はゆっくりと、でも確実に“軋み始めます”。


どうぞ、引き続きお付き合いいただければ幸いです。

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