03 沈黙のシスターとの初めての出会い
【毎日昼の12時と夕方の18時の2回更新します】
~この容疑者のヒロイン、実は……~
《沈黙のシスター》のあだ名を持つ尼子冴絵は、
今日を含めて三十日前にこの二年二組に現れた転校生だった。
そのときの自己紹介があまりにも衝撃的すぎて、
その日のうちに付けられたあだ名が《沈黙のシスター》だったらしい。
尼子が転校してくる前の週末のうちに、転校生が来ること自体は教室中に知れ渡っていたので、
そのことに対しての驚きはなかった。
実際、俺もそう聞かされていたので来るのはわかっていた。
だから週明けの月曜日に、どんな生徒が来るのかにみんなの関心が集まっていた。
なんせわかっているのは転校生と言う情報だけで、
男か女かだけじゃなく名前も一切明かされていなかったからだ。
そして朝礼のときに担任の猪口先生に連れられて、
その温和しそうな小柄な少女はやって来た。
川口が言うにはそのときの猪口先生の顔がすでに複雑だったらしい。
尼子は先生と並んで真新しい制服姿で教壇に立っていた。
そしてかなり整った顔だったので男子生徒たちからは、おおっ、というどよめきも漏れていた。
そして転校生初登場時の定番通りに、
先生が黒板に大きな文字で《尼子冴絵》の名を書いた。
ここまでは普通だ。
だがその後が違っていた。クラス中の視線が尼子に集まりみんなが尼子の第一声を待っている。
……いったいどんな声でしゃべるのか?
舌っ足らずの甘え声なのか? 元気がある張りのある声なのか?
それとも見かけによらぬハスキーでセクシーな声なのか……?
まずはそこに期待が集まるのは当然だ。
だが……、尼子は黙ったまま口は開かない。
緊張しているのかもしれないと川口は最初思ったようだったが、
尼子の顔は波ひとつない凪いだ湖面のように深くおだやかだったので、
その視線は次第に猪口先生に向けられた。
説明を求める疑問の目だ。
その猪口先生だが、先生は教師というよりもお姉さんといった方が雰囲気が説明しやすい。
それもそのはずで三月に大学を卒業したばかりの新人女性教師なのである。
そして今年の四月に初めての担任を受け持って、
悪ガキども相手の毎日にやっと一息がつけるようになった矢先、
これまた初めての転校生がこの尼子だったのは気の毒としか言いようがない。
先生はそれでも健気に尼子に話しかけていたと言う。
「どうしたの? 気分でも悪いの?」
と、まるで小さな子供をあやすかのように尼子の顔をのぞき込んでいたが、
それでも尼子は口を開かない。
尼子の視線は教室の天井を突き抜けて、
そのずっとずっと先にあるはずの雲か太陽かを眺めている感じだったらしい。
教室にはざわめきが波紋のように広がり、
最初の誰かが席を立ち教壇に向かったら、それを合図にクラス中が教卓を取り囲む状態になっていた。
押すな押すなの大混乱である。
おそらく多分、だったら無言の尼子に直接話しかけようとでもしたのだろう。
猪口先生がそれがきっかけでパニックになったのか、涙をはらはら流し始めていた。
こんな事態になって尼子もようやくなにかのアクションをしなければと思ったのか、
突然くるりと背を向けて黒板に手を伸ばしたのである。
そして突如広まった静寂のでヤツはこう記したらしいのだ。
――尼子冴絵は自ら律した戒律のため沈黙を続けています――
カッカッカッ、と一気に書き上げた。
疑問や戸惑いなどが混じったなんとも形容しようがない複雑な声が一斉にわき上がる。
だがその騒ぎの中心である尼子はどこ吹く風で、
自分に用意された席につかつかと向かい、
さっさと腰かけて教科書を広げてしまったのであるとのことだ。
そして始まった国語、続いて数学、英語、世界史の授業でも尼子の沈黙は断行されていた。
事情をまだ知らぬそれぞれの教科の教師たちが、
ふいに尼子に質問しても尼子は決して口を開かない。
だがそれは決して答えがわからない訳ではなく、
その証拠に黒板につかつかと向かいどんな難題もあっさりと回答してしまったのである。
どうやら尼子は相当の進学校から転校してきたらしいと二年二組一同は判断したようだ。
果敢だったのはなにも教師たちだけではない。
尼子に関心を持った男子の何人かは休み時間になると、
すぐさま尼子を囲んで話しかけたがあえなく玉砕。
そしてお節介の女子たちもいらぬお世話でお友達勧誘に出向いたが最後には、
「あんた頭おかしいんじゃないっ?!」
の、捨て台詞を残して鼻息も荒く立ち去ったとのことだ。
はっきり言って最悪の第一印象を尼子はクラス全員に植え付けた。
だが誰もが尼子の沈黙を続ける《自ら律した戒律》とやらに興味津々なのは間違いなく、
遠巻きにしながら様々な憶測が飛び交っていたらしい。
以上はその場に居合わせた川口から聞かされた話である。
川口は話を誇張する癖があるのでそのすべてが真実とは断言できないが、
おおむね間違っていないと俺は思っている。
その騒動の日、実は俺はそれらを一切見ていない。
それは残念ながら、その前日の日曜の夜から季節外れの風邪を引いてしまい三日間欠席していたのである。
だがその間に俺はまったくクラスの出来事を知らなかった訳ではなく、
もったいぶり屋で意味不明で解読不可能な、
《沈黙のシスター登場、詳細は自分の目で確かめるがよろし》
と、の川口のメッセージをスマホで受け取っていたので、
転校してきたのが相当の変わり者だということだけはわかっていた。
ちなみに《沈黙のシスター》というあだ名は川口が発案したようで、
《沈黙》は尼子自身の黒板に書いた発言から引用し、
シスターと言うのは尼子の《尼》の字からの連想で決めたと言っている。
最初は受け入れてもらえなかったようだが、
川口の強引な布教活動でその日のうちにクラス全員が公認したようである。
まあ、考えてみれば尼子の自ら律した謎の戒律で沈黙を続けていることと、
心ここにあらずとしたどこまでも見えない遠くをじっと見つめているような、
普段の尼子の様子からは、常に祈念しているような印象を受けなくもないので、
あながち間違ったネーミングではないと思う。
以来、クラスの関心事は誰が最初に尼子の《自ら律した戒律》の謎を突き止めるのかとのことと、
尼子の《声》を誰が最初に聞くのかで極秘裏に一口百円で賭が水面下で行われている。
胴元はもちろん川口なのだが……、
実はその賭のひとつの《声》に関してはひとりの人物がすでに達成してしまっている。
その人物とは俺のことである。
尼子が転校するその前日、実は俺は尼子と出会っていたのだ。だがこのことは俺を秘密にしていた。
それはたぶん、……尼子の声をひとり占めしたいからかもしれない。
□
尼子冴絵と初めて出会った日、その日は日曜日だった。
つまり尼子が転校初日となる月曜日の前日になる。
俺はなくなりかけた食材の買い物をしようとして、
自室からアパートの共用の廊下に出たのだが、そのとき異様なものを見た。
アパートの階段の下からテレビの液晶画面が徐々にせり上がって来たのだ。
だがそのテレビには足が生えていて、すでに階段の最上段を踏み越えていたのだが、
それに気がつかないようでしきりに宙にあるはずのない次の階段をつま先で探していた。
俺はそれを真正面からただ呆然と見ていた。
そして、さてどうしたものかと思っていたら、
テレビはバランスを崩して画面を天井へと徐々に向け始めたのである。
俺はとっさにテレビを掴んだ。
そうしたらテレビにはおまけの部分がついていたようで、
「……あ、ありがと」
と、おまけの部分が女の子の声で言葉を発したのだ。
そのときだった。俺は頭をガツンと殴られたような衝撃を覚えた。
「……っ!!」
……これって……声……なのか……?
その声は透き通っていた。
語尾がほんのかすかに糸を引く心地よい余韻。
ビブラートとはちょっと違う。まるで楽器の音色のようなのだ。
ただ耳にしただけでこんなに聞き惚れてしまう声は今まで聞いたことがなかった。
一目惚れと言う言葉があるが、それはあくまで容姿に限られるはずだ。だから俺は……。
――一耳惚れをしてしまったのだ。
俺はまだ相手の顔さえ見ていないのに胸がときめいてしまった。
こんなことは人生で初めてだった。
そしてだ。
続いてぴょこんとテレビの脇から飛び出したのは子猫のような小さな造りの顔で、
この声の持ち主として決して恥じない容姿で、
薄ピンク色フレームのメガネの奥にクリクリっとした大きな目を持っている少女だった。
「引っ越し?」
するとなぜか少女は一瞬固まったようになった。
「……う、うん、そう」
「えっと、手伝おうか?」
「ありがと。でももう大丈夫。ほとんど終わったから」
会話をしながらも俺はやはり声に聞き惚れてしまっていた。
そんな俺の真横をテレビを抱えた小柄な身体が通り過ぎた。
上目遣いでなにか考え事をしているように見える。
そして歩みを止めたその場所は俺の部屋から三つ向こうのドアだった。
そして俺を見る。
「……ねえ、もしかするとあなたも高校生?」
「ああ。南江戸高校の二年二組だけど」
実際にこの場所から見下ろせる坂の下の学校を指さして俺はそう返事した。
「…………………………」
すると少女の顔に変化が現れた。
赤みがさしていた頬がにわかに青ざめてしまい、
次には両肩を落とし深いため息を吐いていたのである。
なにか愕然としてしまったように見えるのだ。
そして目は大きく見開いていたままなのだが、まるで魂が抜け落ちたように立ちつくしていた。
例えるならば、なにか耐えられないほど大きな悲しみが突然襲ってきたかのような感じだ。
そして、気がつくと涙が両の頬から粒になって流れ落ちていた。
「……?!」
女の子を泣かせてしまった……?!
それは俺に取ってかなりキツい衝撃で、いてもたってもいられなくなる。
なにか気に障ることでもしたんだろうか、
と、それほど長くない会話を思い返してみるが見当が付かない。
そして俺が二、三歩前に足を進めると、
少女は唇を結びはっきりと拒絶の顔になって自室のドアを開けて姿を消してしまった。
絶望の表情をその顔に貼り付けたままだった。
その日の夜に俺は熱を出した。
布団の中、ぼんやりとした頭の中できっとこれは少女を泣かした天罰かもしれないなと思っていた。
これが尼子冴絵が奏でる楽器の音色のような声を聞いた初めての場面だった。
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