春
四話のほぼ短編になっています。
朧月がコンクリートをうっすらと照らす、午前2時。
僕のマンションと最寄りのコンビニまでの数分の道のり。
梅の花が、ぬるい風に揺られている小さな公園。
そこに白いワンピース姿の女の人は、ベンチに座ってじっと空を見ていた。
街灯に梅の花が透かされて、淡い桃色が公園を満たす。
そこに佇む彼女は、何だか幽霊のようにも見えた。
そんな光景にふと、彼女の背景を想像してしまう。
今は春だから、失恋だろうか? それとも、上京でもしてきて故郷が恋しいのだろうか。
いっそ何故そうしているのか聞いてしまおうか、でもナンパだと思われるのは少し嫌だな。
そんな下らないことを考えていた数瞬、ベンチから言葉が投げかけられる。
「ねぇ、嫌な夜だね。花見をしてても気分が晴れないんだ、風も何だかはっきりしなくてうざったいんだよねぇ」
「あ、えっ、そ、そうですね。か、川とかならまだ多少涼しいんじゃないですか?」
何を言っているんだ僕は。
いきなり喋りかけられたから、変な返しをしてしまった。
でも、咄嗟の返しにしては結構いいじゃないか? 川、うん、このぬるい夜には丁度いい。
「川、ね。いいじゃないか、行こうよ」
「行こう? 僕もですか?」
「うん。ほら、いいからいいから」
名前も知らぬ女の人に手を引かれ、公園から離れた川の方へと進んで行く。
本当はコンビニに行きたかった、そんな野暮なことは言えなかったし、こんな変な人滅多に会えるもんじゃない。
そんな気持ちで、彼女の手のひらの体温を感じていた夜の道だった。
その日は、一時間ほど一緒に河川敷を歩いてから帰った。
帰り際、またね、とそう言われたのをよく覚えている。
なんて自由な人なんだろう、とそう思った。
それが、僕とシキさんの初めての出会いだった。
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それから、夜が更けるといつもその公園に行った。
そうすると、必ずと言っていいほどシキさんに会えた。
シキさんは素性の知れない人だ。
深夜に一人で花見はするし、散歩の途中で「川に入ろうよ」とそう言うと、ワンピースの端を持って足で水をすくい始める。
職業も年齢も住所も電話番号も、何もかもが不明だ。
僕がシキさんについて知っているのは、『シキ』という名前と自由奔放な性格だけ。
でも、その僅かなつながりでもシキさんといるのは少し楽しかった。
たわいない話をして、少ししたら家に戻る。
そんな日々が続いていた。
ふと、10畳のやけに広い自宅で思う。
シキさんは一体何者なんだろうと。
ほぼ毎日、僕がバイトでいない時以外は、絶対にあの公園にいる。
普通に考えれば、僕と同じ大学生なのだろう。
深夜に外に出ても特に問題は無く、また日常生活を送る上でもそれが許される。
でも、シキさんが大学生をやっている姿が想像できない。
見た目は大学生でもおかしくはない若さだと思うけど、あのシキさんが真面目に講義を受けて、僕と何ら変わらず昼ご飯を食べて、バイトをしてから家に帰り、適当に買った酒をあおって寝る。
そんなこと、あり得るのだろうか。
うーん、と唸っている内に、頭の中がシキさんでいっぱいなことに気付く。
あの人は面白い。背景に無限の可能性がある。
大学生でも、アーティストでも、風俗嬢でも、フリーターでもありそうだ。
でも、シキさんのそれ以上は知りたくもない。
この想像が僕の幸せだ。
僕の癖は、道行く人の恰好を見て、その人の物語を考えること。
雨なのに傘を差していない人を見たら、何か悲劇的な物語を。
自転車に二人乗りする高校生を見たら、その人たちの知らない青春物語を。
真夏なのに厚着で汗一つかいていない人を見たら、死体のまま生きる男の怪談の物語を。
シキさんを見たら……
それを考えるのが、今は一番の幸せだ。
これを恋と人は言わないだろう。
だって、僕はシキさんそのものにはあまり興味は無い。
話してて楽しいと思うことはあるけど、シキさんについて考える方がもっと楽しい。
欲しいのは、シキさんについての断片的な情報だけ。
その為に、今日もシキさんと会う。
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ゆっくりと、春が消えていく。
桜はその花を散らせ、少しずつ雨の日が増えている気がする。
雨の日には、傘を持って公園に行った。
どうやらシキさんは、レインコート派らしい。
シキさんの口癖に「そろそろ夏かな」が増えた。
明日も雨が降るそうだ。
梅雨は、嫌だなぁ。