- Prologue - 『落日の陽光』中編
――ガルナ渓谷
数刻前までウォールウィンド軍とラクティス軍の激しい戦闘が繰り広げられていた場所。
今はその戦いの爪跡だけが、双方の兵士達の死骸という形で残されている。
平時にはその壮大な景観に旅人も観光に多く訪れる名所として名を馳せているが、今はそれとは不釣り合いな血なまぐさい光景がナルビスの眼前には広がっていた。
「これはひどい」
ナルビスはあたりを見回しそう呟き、口許を手で覆う。彼の進む道には王国軍の甲冑を着た躯が折り重なるように倒れている。その中には見知った将軍格の士官の得物を持った首のない躯もあった。
ガルナ渓谷での戦闘は奇襲に近いものだったのだろう。平時は1000程の兵力しか滞在していない。ラーマ城塞の凶報から敵を迎え撃とうとしたウォールウィンド軍はガルナ渓谷駐屯軍は全滅。
ガルナ平原で敵を迎え討とうとした王宮騎士団はベルファーシュ共和国との国境線を超えてきたラクティス軍に奇襲を受け、大将軍であったカシムを一瞬で失い、もう一人の将校であるクリストロフもこのガルナ渓谷へと押し込められた。そこに南部から攻め上がってきた手勢に挟撃され、このガルナ渓谷で奮戦している。
そしてその全てはラクティス軍による陽動であり、本隊はベルファーシュ共和国との国境から侵入し、悠々と王都リアガルまで迫っている。
ナルビスはそう王都出立前に聞かされた。そしてこの状況が国家存亡の危機以外何物でもない事は彼にもよく分かっていた。
「しかし、酷いな」
リオンが苦虫を噛み潰したような表情をナルビスに向ける。彼らの眼下に広がる光景は実際の戦場がその戦いが予想以上に激しかったことを物語っていた。
これは交戦ではない。
我々が一方的にやられた事がよく分かる光景。
そんな仲間の甲冑を身につけた躯の山をかいくぐるように進むこの一団には、ナルビスに続いてナルビスの部下が20名、リオンとその部下が20名と続く。
ユングラシ王妃と幼き皇太子達はナルビスの部下に抱えられるようにしてそれぞれに馬に乗せられている。ナルビスはその様子を目を細めて見た。
『王妃と未成人の幼き皇太子、皇女を王都から連れ出し、所定の場所に連れて行く事』
これが国王ダリー=ヘインズ=テラーから課せられた最後の勅命である。
その中には一昨日に生まれたばかりの名もなき赤子も含まれている。名もなき赤子はリオンの部下である神官騎士キャシーが抱き抱え、馬を走らせていた。
その中でユングラシ王妃の顔色がよくない事にナルビスは気が付き、馬を寄せた。
「王妃大丈夫ですか?」
馬を寄せたナルビスは王妃の顔を見た。ユングラシは首を縦に振るが、か細い声すら出せない状態のように見受けられる。
彼女は現在45歳、一昨日に普通ならば死んでもおかしくない程の高齢出産を経験している。
さらにその傷と体力が回復しないまま、王都炎上という状況に見舞われ、夫をはじめとした数人の家族は王都に残したまま王都を脱出、不慣れな戦場の緊張感に常にさらされきた。
このガルナ渓谷にで目にした味方兵士の遺体を嫌と言うほど見た事も相まって、彼女の心に大きな衝撃と心労を与えている事は火を見るより明らかである。
「この人は強い」
だがそれでも凛とした表情を崩さない彼女の気品にナルビスは心の中で素直に王妃の精神力の強さを賞賛した。
「王妃、これをお飲みください。行軍はもう少しかかります故」
だが、確実にその体から覇気が失われつつある事は明らかである。ナルビスは宮廷から持ち出した水と精神安定の薬を彼女に渡し、必死に励ましの言葉を探す。
「ありがとう、ナルビス。ですが私は大丈夫です。それより子ども達を頼みます」
ユングラシ王妃は蒼白に染まっている顔にぎこちない笑みを作り、一口だけ飲んだ水筒をナルビスに返した。そして自らの後方を振り返る。そこにはナルビスも半分だけではあるが血を分けた兄弟の姿が目に映る。
「母上も大事なお体です。ご無理なさらぬよう。何かあれば我々に言ってください」
ナルビスは義母の強き心を尊重した。
その言葉にユングラシはコクリと頷くと「今は無理をしなけばならない時ですから」とナルビスに告げた。
ナルビスは正直この義母である王妃には感謝していた。妾の子である自分を幼い頃から宮廷で他の皇太子を違わぬ愛情を注いでくれた。その事を感謝しない時はない。血はつながっていないがそれ以上の母子の絆は紡いできている自信はある。
「もう少し行けば陛下の盟友が待っておられます。それまでの辛抱です」
ナルビスはそう精一杯励ますととユングラシ王妃の元を離れ、馬をさらに後方を向ける。
「お前達は大丈夫か?」
王族の幼き少年少女は王妃よりは幾分かましだが、かなり憔悴しきった顔をナルビスに向け頷く。
彼らを支えているのは王家の誇りか、それとも母親の存在か、ラクティスに対する憎しみか、いずれにせよ、それらが今の彼らの気持ちを支えている事は感謝した。
どんな形でもいい。
生きてさえ居ればそれでいい。
「国境まで行けば、陛下の血を分けた友がおられるとの話だ。一気に抜けようと思う。いましばらくの辛抱だ」
ナルビスは彼らを少しでも励まそうと、はやる気持ちを声に込める。少年達の顔に少しだけ光が宿った事を確認すると馬を隊の先頭へと向ける。
しかし一方でナルビスはこの任務を完遂した後の事を考えていた。ナルビスにとって、この任務を早々に完遂させることは何も幼き皇太子達の安全確保だけが目的ではない。
彼にはもう1つ別の目的がある。
それは彼は早々に任務を完遂させて王都へ戻る事。やはり自分は国に、父親であるダリー=ヘインズ=テラーに殉じるべきであるとの想いが消えないでいた。
「何か良からぬことを考えているか?」
そんな想いに駆られていたナルビスはリオンからの横槍に今、本当の事なんていえるはずないとその返答を思案する。
「ナルビス卿!リオン様!」
するとその彼の思考を遮るように隊の後方が騒がしくなった。叫び声をあげながら、真紅の騎士達が騒がしく隊列に戻ってきている。
それはリオン達とは逆に後方の哨戒に向かっていたリオンの部下であった。
「どうした?」
リオンが問う。血相を変えたその様子からただ事ではない事が伺える。ナルビスとリオンはある程度予想していた事実について覚悟を決め、その表情を引き締めた。
「申し上げます。後方より敵の追撃部隊あり。その数およそ500。騎馬と歩兵の混成部隊です」
その声にナルビスとリオンはその顔を見合わせた。お互いのその顔は絶望のそれに見せられていたに違いない。
王都を襲撃していた部隊が自分達に対する追っ手を出したという事は王宮にまで戦いが及んだことを指し示している。
国王や成人した皇太子達、近衛騎士団の仲間、王都に残った者達の顔が次々に浮かんでは消える。
「私が行こう」
ナルビスはその声に一瞬遅れた。余計なことを考えた分、現実を見つめていたリオンの方が決断が早かった。
「いや、俺が行く」
ナルビスは一歩遅れてリオンに詰め寄る。だがもちろん彼女は聞く耳を持たない。
「私が部下を率いて囮になる。ナルビスは彼らを早く安全なところに」
リオンはそういうと彼女の直下の部下20名を集めた。すべて女性で固めた部隊である。リオンと同じく、彼女達も真紅の武具を身に着けている。
「なぜお前がいかないといけない。ここは妾の・・・」
妾の子である自分がといいかけたナルビスはそこで言葉を止めた。と同時に、首元に冷たい鉄の感触を感じる。気がつくとリオンに背後を取られ、彼女のその手には握られた彼女の得物である漆黒の大鎌がその刃先が彼の喉元に向けている。
彼女の所業に気がつかないほどの狼狽を見せていた自分をナルビスは恥じた。
「私が決めたんだ」
リオンの声とともに鎌の刃先に殺気が籠る。ナルビスは一瞬だが戦慄を覚えた。真紅の魔女と呼ばれるその剣気に冷や汗が背中に滴る。
「私は一度決めたら誰にも指図はされないことは分かっているよな?ここは私と部下で対処する。サー・ナルビスは陛下からの勅命通り、彼らを安全な場所に送り届けてくれ。ここにキャシーを残していく」
その言葉にまだその顔にそばかすを残したキャシーが顔を上げた。もちろん上官の決定に異を唱えようとしたのだ。当然自分もリオン達に殉じると思っていたのである。
しかし、リオンの声が抗議の声をあげようとした彼女よりも早かった。
「キャシー、貴公はその新しい生命を護る使命がある。だから今このときを持って近衛騎士の任を解く。これからは王妃の従者となり、王妃と皇太子、皇女達の無事を見届ける事を命じる。これは上官命令だ」
改めて変わりようのない意思を告げる上官にキャシーは言い返す言葉も見つけられなかった。小さく「わかりました」と呟くと再び顔を下げ、その後はずっと俯いたままである。
その様子にナルビスは小さくため息を吐く。これ以上、彼女と議論するだけ無駄だと感じた。
「あぁ、分かった。分かったよ。ただ・・・」
ナルビスにとって不本意な結論だっただろう。彼はリオンへの同意をまだ煮え切らない言葉の中で示す。
「簡単に死ぬなよ!必ず追いついてこい」
ナルビスの思いもよらぬ励ましにリオンは一瞬面食らうも冷やかすような笑みを浮かべる。
「誰に向かっていっているんだ?私は“真紅の死神”リオン=ヘルダークだよ?私は死なないさ。必ず生きる。忌々しきラクティス共和国の首を取るまではね。それに昔から死神は死なないもんさ」
リオンはその真紅の鎧と漆黒の大鎌から『真紅の死神』と呼ばれている。
リオンは騎馬を返し、ナルビスに背を向ける。そして何かを思い出したかのように真紅の鎧から覗く首から上だけで振り返る。
「そうだ、ナルビス」
この時、ナルビスはやっと顔を上げ、リオンの顔を直視した。リオンの瞳はまるで菩薩のように朗らかで、慈愛に満ちている。ナルビスは胸が締め付けれる気分に襲われた。
「間違っても王都に戻ろうなんて考えるな。父上や兄上の気持ちを無駄にするな。私達の人生はこの王妃や幼き王子達に捧げるためにある」
そこでリオンは少しだけ間を取った。それは彼女がこの別れを惜しんでいるようにナルビスには感じられた。
「それにお前が生きててくれないと私が困る。私達が皆に追いついた時に嫌味の1つでもいえる家族がいないと私は生きていけないからな」
ナルビスは脳天を霹靂に打ちつけられたような衝撃を感じていた。思わずリオンを静止しようと声を搾り出が適当な言葉が見つからない。
リオンが馬腹を蹴る。
彼女の愛馬が一気に駆けだす。
19騎の真紅の騎士団が続く。
次第に小さくなっていくその後姿が見えなくなるまでナルビスは遠く視線を向けていた。
「くそ!」
リオンは自分の考えていることはお見通しだった。そして同時に彼女は死ぬことを考えていない。その先を見据えている。
父親である国王の為に、もし国が滅びるなら殉じてもいいと思っていた自分の心をナルビスは恥じ、そしてリオンではなく、自分が足止めに行くべきだったと彼は心の底から後悔した。
そして彼もまたその心に思いを宿す。
自分も父やリオンがその行動で示した悪あがきに賭けてみようと。
今、この目の前にある自分達の進むべき未来。そして、そんな自分自身に可能性があるなら。
「よし、我々も先を急ぐぞ」
思いを新たにナルビスは行軍を再開する。その先頭を行く彼の顔には先ほどまでの迷いはなく、前を見る力強さが再び宿っていた。
- Prologue - 『落日の陽光』中編 完