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「わたし、優しい男の人が好き」
気持ちのいい昼下がりのこと。いつもの食堂でそう呟いたわたしを、パブロは無視した。わたしはパブロの腕を引っ張って、もう一度、さっきより大きな声で言った。
「ねぇ、わたし、優しくて親切な男の人が好き」
「あっそ」
相変わらず机の上に両足を乗せているパブロは、手元の本から顔を上げずに素っ気なく相づちを打った。
優しい男の人が好きっていうのはつまり、財布を掏られて困っていたところを助けてくれたパブロのことが好きっていう意味だったのに、全然伝わらなかったようだ。
もはやプエンテ夫妻にはわたしの気持ちはすっかりバレているだろう。
でも肝心のパブロはちっともわたしのことを意識してくれない。
ちなみにこの頃にはもう、わたしは寄宿学校を抜け出す大ベテランになっていた。多くて週に一回。少なくても三週間に一回のペースでパブロに会いに来ている。でも彼は嬉しそうにしないし、かといって邪険にもしない。わたしが勝手に会いに来ているわけだけど、なんだかいいように弄ばれている気分。
「ねぇ、キスってどんな感じ?」
男の人を振り向かせるには、わたしが女であることを意識させることが大事だって、寄宿舎で相部屋のマルセラが言っていた。男は単純だから、女の色気をちらつかせれば即効で落ちるって、ファッション雑誌に書いてあったらしい。
でもパブロはわたしの渾身のお色気作戦に、ものすごーく面倒くさそうな表情を返してきた。
「…………はぁ?」
「わたし、キスしたことないの」
「まじで? とっととそこらへんの野良猫にでも捧げてこいよ」
「はぐらかさないで。ねぇ、キスってどんな感じなの?」
前のめりになって尋ねると、パブロはますます面倒くさそうな顔をした。
「どんな感じかなんて、考えたことないし」
「じゃあどうして人はキスをするの?」
「知らねーよ。学校の先生に教えてもらえ」
「先生たちは神様と結婚してるもの。人間の男とは付き合ったことないんですって」
「じゃあ知らない方がいいんじゃないの」
「わたしはキスなんかで堕落したりしないもの。だから教えて。どんな感じなの?」
パブロは大きなため息をついて、気だるげに机から足を下ろした。それから腰を上げて立ち上がったので、てっきりそのまま逃げてしまうのかと思った。
でもパブロは立ち去ることをせず、机に肘をついて身を屈めて、わたしの唇に口づけてきた。
「こんな感じ」
触れるだけのキスは何の感慨も呼び起こさなかったけど、わたしは目の前で風船が破裂したかのように、心底驚いて固まってしまった。
「おーい」
目の前でパブロの手がひらひらしている。わたしは瞬きすらせず、その様子を凝視する。
「え、ちょっと……。そんなに驚いた? 勘弁してくれよ。お前がしつこく聞いてくるのが悪いんだろ」
「…………結婚しなきゃ」
「は? 何?」
「キスしちゃった。結婚しなきゃ」
ゆっくり目線を移動させて、パブロの顔を見つめる。パブロは心なしか、顔色が悪い。
「結婚? 冗談だろ?」
「本気よ。キスしちゃった。子供ができちゃう。だから、結婚しなきゃ」
「はぁ!? お前、まじか。学校行ってない俺ですら知ってんだぞ」
「パブロ。覚悟を決めてちょうだい」
「わ、悪かったって! そんなつもりじゃなかったんだ! 一旦落ち着け、な?」
わたしよりも慌てふためいているパブロは、素晴らしい身のこなしで食堂を飛び出していってしまった。
ふん。
敬虔ジョークを知らないなんて、遅れてるやつ。
わたしはやれやれと頬づえをついて、パブロが飲みかけていたコーヒーに口をつけた。
それにしても男は結婚をちらつかせるとびびって逃げてしまうというマルセラの話は本当だったらしい。ちょっと不安の残る展開ではあるが、それでも女の色気作戦はある意味成功したと言えるんじゃないだろうか。
一仕事終えた職人のような気分でコーヒーをすすっていると、扉のベルが鳴って、お客さんが入ってきた。
わたしはその人物を見て、今度こそ本気で心の底から固まった。
長身の男は、思わずうっとりしてしまうほどの美貌の持ち主で、その姿を見れば誰もが、神様は不公平だと考えずにはいられないだろう。
古びた食堂に不釣り合いな美貌の紳士は、わたしがこの食堂を初めて訪れた日に、入り口ですれ違った男だった。
美しい瞳が、ポカンと口を開けている間抜けな小娘の姿をとらえたのが分かった。彼は人好きのする笑みを浮かべて、ゆっくりと近付いてきた。
「ご一緒してもよろしいですか?」
優雅に体を折って、胸に手を当てて、尋ねてくる。その姿はまるで、舞踏会でダンスを誘われているのではないかと、そんな錯覚を起こさせるほどに気品が漂っている。わたしは何故か、名前も素性も知らない先日のナンパ男に対して、憐憫の情をもよおした。
「パブロのことをご存じですか?」
いつの間にかわたしの正面に座っていた男は、綺麗な顔をぐっと近づけてきた。それは、自分が美しいと分かっているからこそ出来る行動だろう。
「は、はい。知っています」
「風の噂で聞いたのですが、私があなたの財布を掏ったと、パブロが言い触らしているとか」
言い触らしているかどうかは知らないけど、確かにパブロは、わたしにそういう風に説明してくれた。
「パブロが、あなたは同じ顔役の下についてた顔なじみだって……」
「確かに、私も一時は悪さをしていましたが」
恥じらいながら笑う彼は、本当に、天使のように美しい。
「今は完全に足を洗っています。でも、それが出来ない人間も、中にはいるもので」
申し訳なさそうに、心苦しそうに、美貌がかすかに歪んだ。
「あの、わたしに何の用ですか?」
「あなたにひとつ、忠告をしておかなければなりません。パブロは私にとって、血を分けた弟のようなものだ。だからあいつを、このまま見捨てることは出来ない」
うす桃色の恋に、真っ黒いインクのシミがひとつ、広がる予感がした。