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二週間後、わたしは再びあの食堂を訪れていた。プエンテ夫妻に挨拶してからパブロの姿を探したけど、見当たらない。
アニタさんが苦笑いしている。彼女は表情に乏しい人だが、わたしは最近、彼女の乏しい表情をなんとなく読み取れるようになっていた。
「多分、そこらへんをブラブラしてるわよ」
アニタさんは、誰が、とは言わなかった。でもわたしにはパブロのことだとすぐに分かった。
適当な理由をつくって、店の外に出る。
濁流のような人込みに圧倒されるけど、わたしはもう一月前のような都会初心者とは違う。訪れるのが二度目ともなれば人波にまぎれることもお手のもの。
……とはいかなかった。
「どこ見て歩いてんのよ!」
人を殺せるのではというほどの鋭さのハイヒールをはいた女性に、思いきり突き飛ばされた。
ちゃんと前を見ていなかったわたしが悪いとは思うけど、じゃあ都会で人を探すときはどうすればいいのよ。
地面に倒れたか弱い乙女を颯爽と助けに来てくれる人はいないか少しだけ期待して待ってみたけど、最終的には自力で立ち上がった。
自分に言い聞かせずにはいられない。これが現実なのよナタリア。あなたは物語の主人公じゃなくて、有象無象の一部に過ぎないのよって。
ほら、ナタリア。例えば、パパのことを考えてみて。
わたしのパパは、いいパパでしょう? そう。いいパパになるのがとっても得意な人。
お前は世界一かわいいと、人目のあるところでよくわたしを褒めてくれるし、近所の人が集まるバーベキューでは、積極的に家族皆のお肉を焼いてくれる。
多分、子供を殴るのがいい父親の証しだと言われる国に移り住んだとしたら、パパはわたしを人目があるときだけ、積極的に殴った思う。子供に暴力を振るってはいけないという価値観の国に生まれたことに、わたしは心底感謝しているくらい。それくらいパパは、いいパパになることに熱心な人。
ママだってそうよ。ママはわたしを気のおけない友だちとして扱うことが、理想的な母親像だって、そう信じてる。
わたしはこう思う。例えパパが超極悪人で手のつけられない犯罪者だったとしても、ママの口からパパの悪口なんかは絶対に聞きたくないって。だってわたしには浄化作用なんて、備わっていないんだもの。でもそんなこと、ママには関係ないみたい。
わたしはママの人生を構成する歯車であって、独立した個体ではないんだから。
ほらね。だれもが主役になりたがっているこんな世の中で、どうしてわたしが頭ひとつ抜けられるっていうのよ。
つらつらと人生についての考察を深めながら歩いていたら、突然声をかけられた。
「ねぇ、元気?」
肩を叩かれて親しげに話しかけられたから、わたしはてっきり、そこにいるのはパブロなんだと思い込んでしまった。
「ええ、元気よ。あなたは?」
笑顔で振り向いて、固まった。そこに立っていたのは、知り合いでも何でもない男の人だった。
「何してるの?」
人懐っこい笑顔で尋ねてくる男の人に、なぜそんなことを聞くの? とは返せなかった。なぜならわたしはすごく驚いていて、即座に彼と距離を取ろうとしていたから。
距離を開けた分だけ、男の人は距離を詰めてきた。
「近所に住んでるの?」
無言で首を横に振ったわたしの挙動不審具合に、男の人はちょっと笑った。
「あのさ、正直に言うけど、ナンパしてるんだ。いま暇? 一緒に遊ばない?」
ナンパ? ナンパって何だっけ。どういうものだっけ。
もちろんどんなものかはちゃんと知っているけど、人は驚きすぎたとき、当たり前のことが分からなくなったりすることがある。
わたしはこのとき何故か、ナンパは非常に危険なものであるという考えが世界共通の事項であると思い込んだ。
別に腕を掴まれているわけでもないのに、逃げなければ、と本気で考える。
「い、今、忙しいので。無理です」
「あ、そう。じゃあ、またいつかね」
イラついたり怒ったりすることなく、男の人はあっさりどこかへ行ってしまった。
案外簡単に解放されたことに、呆然となる。それでもどうしてか、逃げなければという考えがまだ頭から離れない。
きびすを返し、食堂へと向かう。食堂なら安全だ。食堂にいればなんとかなる。
早足で歩いていたら、再び誰かに声をかけられた。
「よぉ、久しぶり。元気だった?」
またナンパだ!
知らなかった、自分がこんなに男の人を引き寄せてしまう女だったなんて!
罪な女というやつだ。わたしは罪な女なんだ。
参ったな全く、とまんざらでもない気分で振り返ると、そこにはパブロが立っていた。
わたしの心の大部分は安心感に包まれて、残りの小さなすき間には、残念な気分が居座った。
「……何、その顔は。どういう感情?」
「さっき、ナンパされたの」
「あっそ」
人生初のナンパにどぎまぎしているわたしの肩をポンポンと叩いて、パブロはとっとと歩き出してしまう。
わたしは急いでパブロの後を追う。
「あんまり上手く対応できなかったの」
「そんなこといちいち気にすんなよ」
呆れた顔で、鼻で笑われた。パブロの言葉を聞いて、わたしはようやく平静を取り戻した。
「外で何してたの?」
「お前は何してんの?」
「プエンテさんたちに挨拶するついでに、あんたの顔も見とこうと思って」
「そりゃどうも」
素っ気なく言葉を返したパブロは、いつの間にかわたしのハンカチを広げて眺めていた。
「ナンパを上手くあしらえなかったことより、刺繍がド下手くそなことを気にした方がいいんじゃないの?」
「うるさいなぁ」
怒ったフリをしてハンカチを取り返すけど、本当はまたこうやって遊んでほしくて、わざと下手な刺繍のハンカチをポケットの中に入れておいたのだ。
二週間の間顔を会わせていなくても、パブロとの親しさがあんまり変わっていないことが嬉しい。
しばらく上機嫌でパブロと並んで歩いていたら、彼の手に握られているものがふと目に入った。
肌着だ。
女性用の。
そんなまさか。
それはいくらなんでも無理だろう。
そうは思ったけど一応、自分の服の襟元を引っ張って確認する。
「何やってんの?」
パブロが顔をしかめてわたしの行動を不審がっている。
「……わたしのじゃない」
「は?」
「それ、わたしのじゃない」
パブロの手元を指差して言うと、パブロは思いきり口元をひん曲げた。
「当たり前じゃん。馬鹿じゃねぇの」
そりゃそうか、と納得して、それからすうっと心の中が冷えていった気がした。
結局パブロは、外で何をしていたのか教えてくれなかった。それでもしつこく尋ねると、「大人の事情」という彼の言葉で会話は締めくくられた。
あーあ。
大人なんて、大嫌いよ。