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 パブロという男は、物心ついたときにはもう、道行く人々の財布を狙っていた。彼のスリとしての腕は一級品。でも十七歳のころにヘマをして、刑務所に入れられてしまった。


 この町の丘の上に居を構えている侯爵家の、侯爵夫人は、慈善活動に熱心な人だ。慰問のため定期的に刑務所に足を運んでいる彼女は、気まぐれに囚人を解放したりして自分の心の美しさを再確認するという作業にはまっていた。


 パブロが夫人の目に留まったのは、多分彼がまだ未成年だったから。


 夫人はパブロを解放するだけでなく、仕事を与えた。スリの被害が絶えないこの町で、被害に遭った観光客を救うという仕事。


 スリの被害を未然に防ぐことが理想的だけど、防げなかったとしても、被害に遭った観光客に金貨を与えて、この町に対する悪印象を拭い去ることができれば上出来。長年財布を()ってきたパブロだからこそ出来ることだと、夫人はそう言った。


 パブロは仕事の報酬として、小遣い程度のお金を毎月夫人から受け取っている。一応パブロは犯罪者だから、何にお金を使って、いくら貯金しているか、一月毎に警察に報告する義務がある。仕事の経費として渡されている金貨を使い込んでいないことも証明しなければいけない。


 夫人が用意してくれているパブロの部屋は、毎月すみからすみまで警察に調べられる。

 使ったお金と、残ったお金が合わないと、経費として渡されている金貨を使い込んでいることになってしまい、刑務所に逆戻りである。


 パブロは侯爵夫人が世間知らずであることと、国家権力が理不尽であることをよく知っていた。


 夫人は気軽にパブロに金貨を与える。それが自分の心の広さを証明するための手段であるから。

 しかしたとえそれをパブロが本当に人助けのために使っても、警察は難癖をつけるだろう。金貨が一枚減っているだけで、経費を使い込んでいると決めつけるに決まっている。


 だからパブロは、人助けのために使うようにと言われて渡された三枚の金貨を、刑務所を出てから一年間、誰にも渡さなかった。肌身離さず持ち歩いて、毎月、三枚の金貨を堂々と警察の目の前に差し出して見せた。警察はパブロを再び刑務所に閉じ込める口実を見つけられずに、毎月毎月、悔しがっているという。




「じゃあ、どうしてわたしに金貨をくれたの?」


 食堂に舞い戻り、わたしはパブロの仕事について教えてもらった。パブロは見かけによらず意外に気さくで、とても話しやすい人だった。おまけにわたしが機知に富んだ高度な相づちを打たなくても、寄宿学校の先生たちがするみたいな、失望したような顔をしたりしない。寄宿舎を抜け出してからずっと緊張していたわたしの気持ちは、彼のおかげでちょっと緩んでいた。


 パブロは相変わらず机の上に両足を乗せて、行儀の悪い格好で座っている。


「だってさ、なんか、尋常じゃなく震えてたから。ちょっと可哀想になって」

「それだけ?」


 財布を掏られて困っている人なんて、たくさん見てきただろうに。一年間も守り抜いた金貨をあっさり手離した理由が、可哀想だったからでは納得できない。


 調子に乗って問い詰めてみたら、パブロはさっきよりも少しだけ丁寧に、金貨をくれた理由を話してくれた。


「あんたさ、昨日、この食堂の入り口で男とすれ違ったろ」


 わたしの記憶力は人並みだ。だから、すれ違っただけの見ず知らずの人間を、一人一人こと細かく覚えるなんてことは出来ない。でもわたしはパブロの言う男の顔を、すぐに頭に思い浮かべることが出来た。


『失礼。お嬢さん、お怪我はありませんか』


 すれ違いざまに肩がぶつかったとき、大袈裟なくらい丁寧に謝ってきた男。

 わたしはその人に、数秒間見とれていた。だってすごく格好良い人だったから。気品があって、物腰が柔らかくて、紳士的。一瞬で心を奪われてしまった。


「あいつ、俺の顔なじみなんだ」

「あの人もスリなの?」

「そう。同じ顔役の下についてた」

「スリの世界にも顔役なんてものがあるの?」

「当然。犯罪で稼ぐのにも、その道の営業許可が必要なのさ」


 わたしは深い感銘の渦に飲み込まれた。本を読んだだけで知ったような気になっていた世の中の闇は、本当に、ごく身近に存在しているのだ。その事実が実に新鮮だった。


 だから彼の話の本当に重要な部分に気づくのが、数秒遅れてしまった。


「もしかして、わたしがあの男の人に財布を掏られたって知ってたの?」


 同じ顔役の下で悪事を働いていた仲だ。あの日、あの男はこの店で、パブロと世間話などしていたんじゃないだろうか。楽しく歓談したあと、男は店を出るついでにわたしの財布に手を伸ばした。その様子を、パブロは見ていた。


 自他共に認めるひねくれ者のわたしは、その真の力を遺憾(いかん)なく発揮した。


 パブロは別に、善意でわたしを助けてくれたわけではないのではないかという疑いが頭の中を埋め尽くしたのだ。


 友人の尻拭いをするためか、あるいは財布を掏られていることをわたしにすぐに伝えなかったことへの、罪悪感。それがあの金貨という形で現れたのだろうか。


「すぐに、すぐに教えてくれたら、財布を取り返せたかもしれないのに」


 パブロが財布を掏る場面を見ていたかどうかまだ答えを聞いていないのに、わたしは既に怒りに震えていた。


 でも答えを待つ必要なんて、なかったようだ。


 パブロは悪気のない顔で笑っていたのだから。


「どうせ安もんの財布だろ。いいじゃん、別に取り返さなくても。侯爵夫人の金でもっといい財布を買えば」

「でも、大事なものだったのに」

「大袈裟な。亡くなった婆さんの形見だとか、別にそういうわけでもないんだろう」

「おばあちゃんの形見ですって? そんなわけないでしょう。あれはおじいちゃんの形見なのよ!」


 パブロはずるっと、体勢を崩した。


「冗談だろ?」

「自慢じゃないけど、私、冗談を言うのはあまり上手じゃないの」




 大好きなおじいちゃん。


 パパやママや、おばあちゃんや親戚、誰もが皆、体の弱い妹を可愛がる。


 そんな状況でもわたしが妹を愛し続けていられるのは、おじいちゃんのおかげ。


 確かにわたしは人並みという言葉がぴったりな人間で、抱えている悩みも、描く夢も、人並み。だから大人たちが特別な方に群がって、自分たちも特別になったような気分になろうとしていることを、責めたりはしない。だってわたしは彼らに"特別"や"社会的な同情"を与えてあげられないから。


 何も与えられないわたしを、それでもおじいちゃんは愛してくれた。口先だけじゃなくて、本当に愛してくれたのだ。孫を可愛がる優しい祖父を演じるためじゃなくて、本当に。


 おじいちゃんはよく、妹ではなく、わたしだけにヘンテコなガラクタをくれた。壊れた時計。釣り針。柄が引っこ抜けた金づち。


――皆には内緒だよ。


 そう言って、頭を撫でてくれた。


 おじいちゃんがベッドから起き上がることが出来なくなったとき、わたしは出来る限り側に張り付いていた。


 おじいちゃんはわたしを一生懸命追い払おうとしていた。一人でトイレにも行けなくなったことを恥じていたからだと思う。老いぼれが伝染するぞ、と言って笑いながら、わたしを遠ざけようとした。


 それでも側を離れなかったわたしに対して、おじいちゃんは最後のカードをきった。


 古びた皮の、財布をくれたのだ。


 その財布はおじいちゃん自慢の一品で、おじいちゃんがまだ若かった頃、す潜りで生計を立てていたときに見つけた、真珠が一粒縫い付けてある。おじいちゃんいわく、それは"幸運の真珠"。


 その財布を貰ったとき、ああ、おじいちゃんはもう死んでしまうんだと理解して、わたしは大声を上げて泣いてしまった。


 おじいちゃんは困った顔をして、ずっとわたしの頭を撫でてくれた。

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