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 初めて人前でタバコを吸ったときは爽快だった。


 あの日、子供に関心を持っているフリに徹していたママが、本当にわたしに関心を持ったのだ。それはわたしの人生で一番と言えるほどの大事件だった。

 ママはわたしのことを心底心配しているように見える素振りによって、娘の行いを強制しようと試みた。おまけに「私があなたに何をしたっていうのよ」と嘆いて見せて、罪悪感をくすぐろうとしてきた。


 ああ、ママ。あなたは何かをしたんじゃない。何もしなかったのよ。


 パパはというと、見ていないフリに今まで以上に磨きをかけていた。内心は、穏やかでなかったと思うけど。多分、わたしの行いをとがめた先に待つ、問題を抱えた娘と向き合うというその展開を想像して、げんなりしたんだと思う。


 あの日以来、わたしはタバコをお守り代わりに持ち歩くようにしている。若い娘を怒鳴り付けることを生き甲斐にしているような年配の人も、他人を笑いものにすることで強くなったような気になっている閉鎖的な若い子たちも、タバコに火をつけて見せるだけで口を閉じる。


 本当に世の中って、簡単だ。小さな棒切れによって、わたしという人間に対する評価があっさり変わってしまう。何を言われても何も言い返せない臆病な小娘から、関わると面倒くさいことになる反抗期の小娘に大変身。


 こんな風にタバコを万能の武器のように思っていたわたしは、わざわざ自分から声をかけてきた男の子のことが信じられなかった。


「それ、やめてくんねぇかな」


 いかにも普段からタバコをくわえてそうな風貌の男の子が、顔を歪めてわたしの手元を睨み付けている。

 タバコの煙なんて、今どきどこにだって溢れている。どこの店に入ったって誰かがタバコを吸っているものだし、道を歩けば必ず白い煙とすれ違う。


 そんなご時世に、男の子は嫌そうな顔でタバコを吸うなと言うのだ。ひょっとして、禁煙中なのだろうか。何にしても、わたしは男の子の怒りを買ってまでタバコを吸いたいとは思っていない。だから火をつけたばかりのそれを素直に灰皿に押し付けた。


「ご、ごめんなさい」


 とんでもない失態を演じてしまったような気がして顔がどんどん熱くなる。うつむいて縮こまっていると、パン、と乾いた音が聞こえてきた。


 顔を上げると、男の子が頭を押さえて呻いている姿があった。男の子の背後に、銀色のトレイを持った店員が立っている。糊で固めたみたいな無愛想な顔の店員は、笑えばきっと花が咲いたように美しいのだろう。羨ましいくらいに綺麗な顔形をした、女の人だった。


「客に難癖つけるの、やめてくれる? こっちは生活がかかってんだよ」


 威勢のいい声に、思わず肩が跳ねた。男の子は怒鳴り付けられることに慣れているのか、のらりくらりとした動きで上体を反らして店員に視線をやっている。


「禁煙にしろよこの店。刑務所思い出して、気分悪くなるんだよ」

「常連のほとんどがタバコを吸うのよ。あんたこの店潰したいの?」

「とんでもない。この店は数少ない俺の(いこ)いの場なんだから、もっと俺にとって居心地のいい空間にしてくれないと困るって話だよ」


 タバコを灰皿に押し付けたまま、わたしは不信感がこみ上げるのを感じていた。刑務所? いま、刑務所って言った?


 男の子と店員は、わたしの動揺など気にとめることなく口論を続けている。


「こんなところで迷惑振り撒いてないで、仕事しな。また刑務所にぶちこまれるよ」

「仕事はしてるよ。昨日その子を助けてやったんだ。なぁ?」


 男の子が同意を求めてきた。わたしはまだ動揺の最中だったから、タバコを灰皿に押し付けたままピクリとも動かなかった。


――淑女たるもの、いつ何時もうろたえてはなりません。

――俗世の方々には、弱味を見せてはなりません。

――わが校の生徒は、いついかなるときも完璧な受け答えが出来なくてはなりません。


 頭の中で、寄宿学校の校長先生の言葉がぐるぐると回る。


 一秒、二秒、三秒と居心地の悪い沈黙を置き去りに時計の針が進む。わたしはかさぶたを思いきり引き剥がすみたいな気持ちで、勢いよく立ち上がった。


「あ、あの、これ、返します。残ったお金の、全部です」


 ポケットの中から銀貨と銅貨を取り出して、男の子の胸に無理やり押し付けた。


 男の子は勢いに押されたのか、目を見開きながらお金を受け取った。


 自分の手元を見て、それが昨日、自分が手離した金貨の成れの果てだと気づいたらしい男の子は、再びわたしの方に視線を向けてきた。


 何か声をかけられる前に、口を挟む余地がなくなるように、まくしたてる。


「さ、財布を盗まれたから、コーヒー代を払えません。すみません。ごめんなさい」


 すみません、ごめんなさい、と何度も謝りながら、わたしは店を飛び出した。






 たくさんの人とぶつかりながら、必死に足を前に進める。


 何から逃げているのかよく分からなかった。


 わたしは自分が、社会の中で、立派に振る舞える人間であるとばかり思っていた。未成年である自分よりも、大人の方が未熟だと思うことさえあった。寄宿学校の中の方が安心できるなんて、そんな風に思うことなんかあり得ないと思っていたのに。


 知らない土地で、知らない人と話をすることがこんなに難しかったなんて。


 どうやら人生というものは、寄宿学校の中の秩序だけを守っていればなんとかなるものではないらしい。そのことに気づいたとき、わたしは落とし穴につき落とされたような気分になった。


 誰か一人だけでも。


 一人だけでも隣に居てくれたらいいのに。


 パパでも、ママでも、妹でも。


 大好きな、おじいちゃんでも。


 そうすればどれだけ勇気が出るか。あの男の子と面と向かって会話することも、自分の状況を分かりやすく説明することも、出来たはず。冷静になれたはず。頭が真っ白になったりは、しなかったはず。


 でもそれは無理なのだ。わたしは一人で立ち向かうしかないのだ。自分一人で、立派にならなければいけない。


 わたしは何もかも失ってしまった未亡人のように、絶望した。


 一人旅も満足に出来ない自分がこの先の人生、何を成し遂げられるというのだろう。

 小さな反抗をするつもりが、たった二日で無一文になってしまうなんて。


 ママがきぃきぃ怒鳴る声が、聞こえてくるよう。


――ナタリア! まぁ、情けないこと! だから言ったでしょう! ママの言う通りにしなさいって、言ったでしょう!


 拭っても拭っても、涙が溢れてくる。まるで小さな箱の中にぎゅうぎゅうに押し込まれている気分。


 路銀が無い。どうやって寄宿舎に帰ろう。どうしよう。


 立派な服を着た大人たちが、奇怪なものでも見るような顔を向けてくる。変な奴だと思われていることは分かるけど、それでも涙は止まらない。


 必死になって涙を拭っていると突然、肩をぐいと掴まれた。


「おい」


 食堂にいた男の子が、そこにいた。わたしの肩を掴んだまま、目を丸くして驚いている。


「うわ。泣いてんの?」


 うへぇ、と嫌そうな顔を向けられる。走って追いかけて来たのだろうか。ちょっと息を切らしている。


 男の子はわたしが返したお金をまた、わたしに差し出してきた。


「これ、返されても困るから」

「でも……」


 ボロボロ涙を流しながらお金を受けとるのをためらっていると、男の子はため息をついてハンカチを差し出してきた。


「ほら、これ使えよ」

「……ありがとう」


 柄の悪い見かけによらず、彼は紳士のようだ。わたしはハンカチを受け取って、それからハンカチに施してある刺繍を二度見した。


 男の子が差し出してきたハンカチは、わたしのハンカチだった。


 この下手くそな刺繍は見間違えようがない。


「これ、わたしの……」


 思わず呟くと、男の子は鼻で笑った。


「俺がハンカチなんか持ち歩くわけないだろう」


 ハンカチを持ち歩かない主義なのは一向に構わないけど、だからといってどうして、わたしのハンカチを持ち歩いているのか。


 しきりに頭を捻るわたしの目の前に、彼は今度はブレスレットをぶら下げてきた。


「それ、わたしのブレスレット……」

「これは?」

「わたしのペン……」

「じゃあこれは?」

「わたしの……わたしの鍵!」


 宿の鍵が目の前にぶら下がったとき、ようやく我に返った。慌てて鍵を取り返す。


「なぁ、ひとつ教えといてやるよ。すれ違いざまに肩をぶつけてくるやつは身のこなしが下手なんじゃなくて、あんたのポケットの中身とか身に付けてる物とかを狙ってるんだ。もっと警戒した方がいいと思うよ」


 何を言われているのか分からずただただ困惑していると、男の子はさらにこう続けた。


「感謝しろよ。全部俺が()り返してやったんだから。店から飛び出してちょっと歩いただけで、それだけ掏られる奴は今まで見たことがない。そんな金にもならないもんばっか盗られるなんて、あんた才能あるよ」


 涙はすっかり、引っ込んでいた。

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