15
寄宿舎を抜け出し、食堂へと向かう道中。ふわふわと雪が舞い始めた。
道行く人々は皆、白い息を吐いている。わたしは鞄を体の前でしっかり抱えて、先を急いだ。食堂に着く少し前、財布を鞄から取り出して、コートの右ポケットに入れた。
いつものように扉を開けると、パブロはいつもと様子が違って、机の上に足を乗せていなかった。
ノートを広げて何かを真剣な顔で書いている。近づいて覗き込もうとすると、ノートに影が出来てパブロが顔を上げた。
「うわ! 見るなよ!」
パブロはノートに覆い被さって、先程まで真剣に書いていた何かを隠してしまった。
秘密の日記でも書いていたのだろうか。こんな人目のある場所で。
「何書いてるの?」
パブロの左隣に座りながら尋ねる。パブロは無言でわたしを睨み付けてきた。
「こいつ最近、勉強してるの」
アニタさんが注文を取るついでに、パブロが秘密にしようとしていたらしきことをあっさりとバラしてしまった。
パブロは思いきりアニタさんを睨み付けているけど、彼女は相変わらず表情をぴくりとも動かさない。
「勉強? 何の勉強?」
「観光の仕事に応募したいんですって。面接の日に試験があるから、勉強してるの」
「おい」
パブロに牽制されて仕方なく、アニタさんはさっさと注文を取って店の奥に引っ込んだ。
「いいことじゃない。何で隠すの?」
もう隠しても意味が無いのに、パブロはまだノートの上から退かない。
「落ちたら格好悪いし……」
男のプライドというやつか。ここでそんなこと無いとか励ましたりすると、余計にプライドを傷つけることになるというやつか。
「受かるといいね」
それだけ言って、話を終わらせた。パブロはまだ不満げな顔で、落ち着かない様子だ。
「…………あのさぁ」
たっぷりの沈黙のあと、パブロは意を決した風に声を上げた。呼びかけられて視線を向けると、拗ねたような顔をしたパブロと目が合った。
「俺がもっと、一人前になったら、そしたらさ……」
期待しているときには欲しいものは降ってこないけれど、思いがけないタイミングで幸運が舞い込んで来るときがある。今がパブロにとってどういうタイミングだったのかは分からない。でも今、この瞬間に何か、勇気を奮い起こしたくなる何かが、彼の心の中で起こったのだ。
俺の彼女になってよ、とパブロが呟いたとき、わたしは最初、聞き間違いだと思ってあまり驚かなかった。
でもパブロが不安げな顔でわたしのことを見つめているのを見て、なんてこと、と心の中で呟いた。
「今すぐなっちゃダメなの?」
「今は一人前じゃないし」
「何? そのこだわり」
「真剣なんだよ。悪いか」
この時点でもう、わたしの中では二人は付き合っていることになってしまった。だって恋人を予約するなんて、馬鹿げてる。でもパブロの変なこだわりもひっくるめて、わたしは彼のことを愛している。
「デートは? 最初のデートはどこにいく?」
「もうこれがデートみたいなもんじゃん」
「パブロの家に行きたい」
「……お前本当は俺のこと仲のいい友だちくらいにしか思ってないだろ」
どうかわたしのことを愚かな娘だと思わないで欲しい。
女の子は皆、若い頃は悪い男に惹かれるものだとか。
そんな恋は長続きしないだとか。
いつか痛い目を見るだとか。
もし、万が一それが真実であっても、そんな忠告は何の役にも立たない。だってそうでしょ。人は空気を吸わなきゃ生きられないと言い当てたところで、空気なしに生きていけるようにはならないんだから。
深読みは、して欲しくない。これはとっても単純な恋だから。身を守るのも結構だけど、信じなきゃ始まらないこともある。
きっと、良いことと悪いことは同じ大きさでやってくるもの。
悲しいことがなければ嬉しいこともないし、大声で泣けば大声で笑える。見ないフリをすればチャンスだって見逃す。恥をかけば、栄光も掴める。
こんな気持ちを大人になる過程で失ってしまうというのなら、わたしは今、この幼稚な無鉄砲さによって、思う存分打ちのめされてみたいと思う。
希望を捨ててしまっても仕方がなかったというくらいに。
あるいは、自分を信じてよかったと思えるくらいに。
もしパブロと共に人生を歩んでいく途中で、迷ってしまったとしても大丈夫。
そのときはきっとまた、財布に恋をゆだねましょう。