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おじいちゃんの財布奪還作戦が失敗してから、二週間が過ぎた。いつものように寄宿舎を抜け出して食堂を訪れると、いつものようにパブロが待っていた。
いつの間にか季節は秋になって、コートを着ているお客さんが増えている。上着を着るとポケットが増えるから、スリにとっては稼ぎ時かもしれない。
パブロの左隣に座ってホットチョコレートを注文する。どうして向かい側じゃなくて左隣に座るのかというと、わたしのコートの右ポケットに財布とハンカチが入っているから。
本を読んでいるフリをしているパブロが、今日はどうやってわたしの注意を引いて、財布とハンカチを掏るのだろうとわくわくしながら待っていると、パブロはわたしのではなくて、自分のポケットを探り始めた。そして古びた茶色の皮の財布を取り出して、わたしに差し出してきた。
驚いたことに、それはロベルトが持っているはずの、わたしのおじいちゃんの財布だった。
「パブロが取り返してくれたの?」
「いや、ロベルトが自分で返しに来た」
どういう心境の変化だろう。
首を捻るわたしに、パブロはロベルトからの伝言を告げた。
わたしがロベルトの前で渾身の悪魔祓いの舞を披露してからというもの、ロベルトは度々、わたしが髪を振り乱して祈りを捧げる夢を見るようになったのだという。悪夢にうなされて真夜中に目を覚ますと、引き出しの中からしわがれた老人の声がする。うー、うー、と獣のような声を出す引き出しには、わたしの財布がしまってある。
「財布を返すから、もう俺のことを呪うのはやめろ、だってさ」
興味なさげにそういって、パブロはコーヒーをすすっている。
なんと。おじいちゃんは天国に行ってもなお、わたしのことをこの財布を通じてアシストしてくれるつもりらしい。
ありがとうおじいちゃん。わたしはおじいちゃんが誇れるような、素晴らしい孫になるからね。
それにしても、と呟いて、パブロはパタンと本を閉じた。
「本っ当に下手くそだな。刺繍」
いつの間にか机の上にわたしのハンカチが広がっていた。秋の新作である。ナタリア史上最低の出来だったから、これはなんとしてもパブロに見せなければと思っていた。
「何ニヤニヤしてんだよ」
「別に」
おじいちゃんの財布が手の中にあって、隣にはパブロがいて、目の前には甘い香りのホットチョコレート。
必要なものは全てここにある。わたしは今、完全に満たされていた。
……いえ、完全に、というのは間違い。
だってパブロはまだ、わたしのことをどう思っているか口にしてくれていないんだから。
わたしから歩み寄るべき? でも想いを言葉にした瞬間に、この心地いい空間が泡みたいに冷たい水の中に消えていってしまったらどうしよう。
幸運の真珠を眺めて、わたしは悩みに悩んだ。
それなら。
わたしもパブロも、あと一歩の距離が怖くて踏み出せないのなら。
このおじいちゃんの財布に、二人の恋の行方をゆだねてみようか。
そんな決心してパブロの方を見ると、パブロは頬づえをついてわたしのことを見つめていた。思いがけず目が合ったので、二人でパチパチと瞬きする。
「ねぇ、パブロ」
「何?」
「わたし、これからもパブロに会いに来ていいの?」
パブロは面倒くさそうに眉をひそめた。この顔は照れている証拠。最近そう、気づいてしまった。
「……好きにすれば」
「わかった。そうする」
にやけた顔を隠すために、マグカップに口をつける。人類が生み出したもののなかでもっとも尊い飲み物が、口の中に流れ込んでくる。とろけるような甘さを口の中で堪能しながら、こっそりとパブロの様子を窺った。心なしか、笑っているように見えた。
ある日のこと。いつものようにわたしは財布とハンカチを右ポケットに入れて、パブロの左隣に座っていた。しばらくとりとめのない話をしていたら、いつの間にかパブロがすっかり黙り込んでしまった。
彼が無口になった理由に心当たりがあったわたしは、からかうようにパブロに声をかけた。
「気に入った?」
パブロはいつの間にか、わたしのハンカチをポケットから抜き取って、机の上に広げていた。正確に言えば、わたしがパブロにプレゼントするつもりのハンカチを。
パブロの名前を刺繍したハンカチは、お世辞にも綺麗とは言えない出来だ。下手くそとからかわれるならそれはそれで、楽しいから、別にかまわなかった。
でもパブロはハンカチをじっと見つめたまま動かない。
しばらくして、彼はようやく口を動かした。
「ありがとう……」
不機嫌そうに、呟いた。
嬉しいのか不満なのかもっと分かりやすく表現して欲しいものだが、でも丁寧にたたみなおしている様子からみて多分喜んでくれていると思う。多分。
それからまた何週間か過ぎて、いつものように食堂を訪れてパブロととりとめのない話をした、帰り道。
そういえば今日はパブロに財布を掏られなかったな、と思い、何気なく財布を手に取った。パブロは財布を不要なものと考えているみたいだけど、わたしはやっぱり財布にお金を入れて持ち歩くことにしていた。特に意味もなく財布の中身を見てみると、見覚えのないものが目に入った。
手に取ってみると、それはシンプルな造りのネックレスだった。観光客向けに、道端で名前を彫ってくれるような。
プレートに、ナタリアと彫ってある。
おじいちゃん。あなたの財布はわたしにとって、まさに幸運の財布だわ。