12
パブロはひと足先に食堂に戻っていた。何事もなかったかのようにいつものポーズで本を読んでいるパブロに、わたしはゆっくり近づいた。
「わたしもう、帰らなきゃ」
独り言とも、話しかけているともとれるトーンでそう口にした。パブロは手元の本から顔を上げずに、ボソッと声を出した。
「また来るの?」
「うん、また来週来るつもり……」
「ふぅん」
素っ気ない相づちが、気まずい沈黙を連れてきた。わたしはプエンテ夫妻に預けていた荷物を受け取ってから、パブロにかける言葉を探して、結局見つけられずに、店を出ようとした。
「財布、取り返してやろうか?」
ドアノブに手をかけたときに背後から飛んできた声は、はっきりと聞き取りやすいものだった。だけどわたしはまるでそうすることが礼儀だとでも思っているみたいに、振り返って、パブロの言葉を聞き返した。
「え?」
「お前の、爺さんの財布。取り返してやろうか?」
相変わらずパブロはわたしと目を合わせようとしない。でも彼の口調はやけに堂々としていた。
「あれから三ヶ月以上たってるでしょ? もうロベルトは財布を売っちゃったんじゃあ……」
「いや、あいつまだ、お前の財布持ってるよ」
心なしか不機嫌そうに、パブロは言った。
「どうしてそんなこと知ってるの?」
「そんなことどうでもいいだろ。取り返して欲しいの? 欲しくないの?」
パブロはようやく顔を上げて、苛立ったような視線をよこしてきた。わたしは釈然としない気持ちを無理やりどこかに放り投げて、首を縦に振った。
「もちろん、取り返して欲しい」
「じゃあお前も手伝え。どうすればいいか来週、ここで教えてやるから」
わかったと頷いて、店を出る。
店の前を行き交ううっとうしいほどの人込みを心地よく感じたのは、きっと、パブロと初めて約束を交わしたせい。
正直、おじいちゃんの財布を本当に取り返すことが出来るかどうかなんて、もうどうでもよかった。神様どうか、パブロが心から喜べるような、そんな結末をわたしたちに与えてください。ううん、神様じゃなくて、わたしがそうなるようにする。きっと財布を取り返して、パブロが自信を取り戻せるように。
「ロベルトは毎週決まった日に、顔役に挨拶してから、その足で賭博場に行くんだ」
わたしとパブロは道端の植木の影に隠れながら、人込みを観察していた。今日は祝日ということもあって、観光客が多い。一段とスリが活発になりそうな、そんな日だった。
「賭博場に行こうとしてるところを狙うの?」
「そう。お前はロベルトを見つけたらバレないように真後ろに張り付け。俺は正面からロベルトとすれ違って、財布を掏る。それからすぐにお前に財布を渡すから、受け取ったらロベルトに感づかれる前に全速力で逃げろ」
「パブロはどうするの?」
「多分、財布を掏ったことはすぐにバレる。でもまぁ、何とかロベルトの勘違いだってことにするさ。あいつが気づいたときにはもう俺の手の中に財布は無いんだし」
本当に上手くいくのだろうか。はっきり言って不安しかないが、でもやるしかない。
パブロが言った通りの時間に、ロベルトが現れた。パブロに言われた通りに、わたしはロベルトの後ろにぴったり張り付いて歩いた。
気づかれてしまうのでは、という不安はすぐに消えた。なにせ人が多すぎて、わたし個人の存在感など無いに等しかったからだ。おまけにロベルトは向かいから歩いてくる人々からわたしを守る防波堤のような役割を果たしてくれていた。もちろん彼にはそんな役割を担っている意識など無いだろうが、とにかくわたしは彼のおかげで、尾行に苦労するということは無かった。
どん、と人と人がぶつかる音がした。
同時にロベルトが立ち止まる。帽子を目深にかぶったパブロが、ロベルトの向こうから現れた。わたしはパブロの手から財布を受け取って、言われた通りにロベルトを追い越して人込みに紛れようとした。
手元を見て、思わず足を止めてしまった。
違う。これはおじいちゃんの財布じゃない。
パブロが掏り間違えたのだろうか。わたしは焦ってきびすを返した。パブロとロベルトが人込みに紛れてしまったら、再び見つけることに苦労するに違いない。
でも、そんな心配は必要なかった。
観光客や家族連れは、パブロとロベルトを避けて歩いていた。なぜならロベルトがパブロの胸ぐらを掴んでいて、今にも殴りあいが始まりそうな雰囲気だったから。だから二人の周囲には不自然な空間が出来ていたのだ。
「やりやがったな、クソガキめ」
優美な容姿からはとても想像できない表情で、ロベルトはパブロをなじった。
わたしはロベルトの豹変ぶりにかなり驚いて呆気にとられたけど、パブロは顔色ひとつ変えていない。
「離せよ。てめぇの勘違いだ。何も盗ってねぇから」
「しらばっくれようったって、そうはいかないぜ。お友だちの財布を取り返しに来たんだろ。残念だったな、お前がさっき掏ったのは俺の財布なんだよ」
わたしは自分の手にある財布を見た。いかにも安っぽい財布は、新品同様だ。そういえばパブロが言っていたっけ。財布は人間が身に付けるものの中で最も不要で邪魔な代物だって。
パブロは胸ぐらを掴まれたまま困惑の表情を浮かべていた。
「……ナタリアの財布は? この前話したときはベストの内ポケットに入れてただろ」
「お前は本当にかわいいやつだな、パブロ。お前が欲しがってるって分かってるもんを、わざわざ掏られやすいように持ち歩いてやるわけねぇだろうがよ」
パブロは表情を歪めて、胸ぐらを掴んでいるロベルトの手を振り払った。
「騙したな!」
「目障りなんだよ、わざとらしくいい子ぶりやがって。また刑務所に戻してやるからもう二度と出てくんな!」
地面に縫い付けられているみたいに動かなかった足が、ようやく動いた。わたしはロベルトの側に駆け寄って、財布を差し出した。
「これ、落としましたよ!」
「……あ?」
ロベルトに睨み付けられて、恐怖で喉の奥が小さくすぼまった。それでも何とか声を絞り出す。
「だから、落ちてたのよ! これ、あんたの財布でしょう。ほら、返してあげるわよ!」
新品の財布をロベルトに叩きつける。ロベルトは地面に落ちた財布には目もくれずに、わたしのことを頭の先から爪の先まで嘗めるように観察したあと、口の端を片方だけ器用に上げて鼻で笑った。
「こいつを新しい相棒にしたのか? パブロ、お前本当に友だちいないんだな」
「お前のせいだろ、しらじらしい」
パブロの表情は強ばっている。わたしはその顔を見て、どうやらおじいちゃんの財布を取り返すための作戦は失敗したようだということをようやく理解した。