vtuber、あんま好きくないので考えてみた。
Vtuberあんま好きくないので考えてみました。
私見なので、みんなで色々考えてもっともっと素晴らしいものになるといいですね。
なんか思ったことあったらぜひコメント欄で意見交換しましょう。
最近、詩と批評の書である「ユリイカ」でⅤtuber特集が組まれていた。その中の記事で美術批評家の黒瀬陽平氏が、初音ミクは政治哲学を持ちうるかというところまで議論が及んだ。…………Ⅴtuberもそこまでいけるかどうかが試金石だ、という旨のことを言っていた。私はそれは難しいと考えている。なぜなら、Ⅴtuberの存在が初音ミクの、目に見えない、非人・幽霊的なる想像力に対する著しい劣化によって成り立っているからだ。
まず、初音ミクの目に見えない、非人・幽霊的な想像力について述べる。周知のことと思うが、初音ミクはⅤОCALОIDというパソコンの打ち込みによって、少女の声で打ち込んだ曲を歌ってくれるという音楽制作ソフトである。そこには可愛らしい容姿の少女のキャラクターの図像が付随している。ここで私が述べる目に見えない、非人・幽霊的な想像力がどこで働いているかといわれれば「音楽制作ソフトという人非ざるものが、歌うというもっとも人間らしいこと、この非人と人間らしさの両極を軽々と、シームレスに飛び交いながら破綻せず存在している点」である。音楽制作ソフト、少女のキャラクターの図像を現実に存在する人間そのものであると認知する者はまずいないだろう。少女のキャラクターの図像に関していえば人間として認知する領域もあるやもしれぬが、これから後述するがやはり目に見えない、非人・幽霊的な想像力が働いている。哲学者の東浩紀氏は「動物化するポストモダン」の中でゼロ年代の少女のキャラクターとは、複数のテンプレート(ex 「新世紀エヴァンゲリオン」の綾波レイなら。クール、ミステリアス、文化系、ダウナー、メガネ、etc……)と組み合わせて成り立っており、その背後にはテンプレートを集積しているデータベースが大きな意味を持っている、と述べている。このデータベースこそが、少女のキャラクターの図像を人間らしいもの捉えるならば、まさに非人・幽霊的であるといえる。その両極を持ち存在している少女のキャラクターの図像も目に見えない非人・幽霊的な想像力であると考える。
ここで私が幽霊という言葉を使ったのは、音楽制作ソフトと歌う、非人と人間らしさ、データベースと少女のキャラクターの図像、ただこの両者を連関させるだけの線ではなく、アメーバ状に両極へと飛び交い広がる気体のようなイメージを伝えたいために使った。私はそれに一種の抽象性、哲学性、政治性を見る。20c初頭の哲学者、オルテガ・イ・ガセットは人間を貴族と大衆に分けた。貴族とは、常に学びを怠らず、新陳代謝し成長する、私利私欲以上のものを志向する政治観として必要不可欠な高貴な生といった。一方大衆は、学ばず、成長せず、私利私欲で動く政治とは相容れない生だと。そして、目に見えない、非人・幽霊的な想像力がおおまかどちらに近しいかと考えると、おそらく貴族の方であろう。それは大衆=私的な認知領域の外側に存在する私=個と対立する公=全だからである。私の持つアメーバ状に広がる気体のようなイメージとは、目に見えない、非人・幽霊的な想像力の持つ公的であり全であるという特徴を捉えんとしたからである。
では最後に、なぜⅤtuberが政治哲学を持てないかということである。それは、目に見える、人間らしい、生者的な想像力、具象性、反哲学性、反政治性、大衆な、私=個の領域のものだからである。これを著しい劣化と捉えるのは異議が起こるかもしれないが、初音ミクが示した可能性から退行したという点から、私は劣化と考えている。以上が私の意見である。
参考書
「ユリイカ 8月号 Ⅴtuber特集」青土社
「動物化するポストモダン」東浩紀著 講談社現代新書
「大衆の反逆」オルテガ・イ・ガセット著 ちくま学芸文庫