ツーペアの成立
左手首に巻いたカシオのデジタル時計は十二時十五分を示していた。十一時半過ぎに乗ったはずだから三十分以上閉じ込められているのか。笹塚はそう思いながら外出用の薄手のトレンチコートを脱ぎ腕にかけ、そして深いため息をついた。
「はあ。今日のお昼は抜きかな」
笹塚は奥の壁によりかかりながらそのため息に言葉をのせた。
「私も昼ご飯抜きかなー。でも、ダイエットにもなるしたまにはいいかな!」
ゆかりが口を開くたびにこの場の空気が浄化されてゆく。
「あーあ、電話も使えなし、知らねー! もういいわっ!」
矢口はぶっきらぼうに言い放ったが納品に間に合わない現実を受け入れ、どこか諦めた様子で爽やかにさえ聞こえた。
そんな中、宮本が申しわけなさそうな素振りで言った。
「あのー、すいません、タバコ吸ってもいいですか、上に向けて吸いますので」
"ブツ"を咥えながら話す姿勢から見える偽りの謙遜さと、端正な顔つきから映る男の若さゆえの自信は、他の三人からいいえの答えを奪うものだった。
いつ開くかも分からない鉄の扉を前に、またいつ起きるかも分からない小さなもめ事の火種になる可能性なども考えると、積極的に拒絶の意思表示を出せる者は三人の中にはいなかったのだ。
それぞれの中途半端な態度と無言の答え、いぶかしげな表情は宮本の再考を期待したが、彼らの消極的な回答を自分本位に解釈した宮本に軍配は上がった。
「ふーっ」
わざとらしく上向く下唇は偽りの謙遜さと融合し、宮本に対して小さな不信感を生みだした。淀んでいた空気に追い打ちをかけるかのように、タールという刺客が他の三人の鼻につく。自分の行為によって周りがどのように思うのかなど、三十一歳の宮本が察知するにはいくらか若すぎた。宮本は勝ち誇ったかのようにあくまでも上に向けて煙を吐き続けた。空調がタバコの煙を吸い込むと海の潮目のような境を描きそして消えてなくなった。
笹塚も宮本の勢いにあやかろうと思ったのかメンソールのタバコを取り出し、宮本のように周りに断るでもなく同じように吸い始めた。たしなみを共有したことで、二人に当たり前な会話が生まれた。
「こうゆう時のタバコってうまくないですか? 不謹慎かもしれないけど」
宮本は笹塚に言った。
「はは、そうですね。いつもよりグッと入ってくる気がします。ははは。でもタバコは辞めようかと思っているんですが、なかなかどうして」
笹塚がちょっと困った顔を見せたその時だった。
「ガチャンッ」
宮本の足元から鉄製の何かがずれたような音がした。その音は決して大きいものではなく、このエレベーターがどうにかなってしまうようなものではなかったことを宮本は確信していた。周りはこの音に気付いたのだろうか。
「え? なんですかね今の音は。聞こえました? あ、それにしても参っちゃいましたね。たまたまこのあたりを通ったから、挨拶に顔だけでも出してみようと思っていたらこれですよ」
宮本は音のことは深く語らず、余裕のある表情で笑みを浮かべながら笹塚に語りかけた。今風に言えば上から目線であることは、その表情、口調からも笹塚だけでなく他の二人にも伝わった。正確にはエレベーターに乗り込んだその時から皆に伝わっていたのかもしれない。腕を組んで足を絡ませ立つ宮本の姿は、モデルの撮影と言われても遜色ないほど雰囲気がある男なのだ。その時すでに男性として笹塚と宮本の勝負はついていた。無理もない、女性を惹きつける魅力をいくつも兼ね備えたロールプレイングゲームの主人公が目の前にいるのだ。ちょっと粗野っぽいけどそれも人間味があっていい。いいではないか少しくらい偉そうになっても。笹塚はそのように宮本を分析し譲歩し自分の弱さをごまかした。
「ついてないですね。自分は昼ご飯が食べられなさそうなだけですから。仕事が早めに落ち着いたので出てきたら、同じようにこれですよ」
下から目線で笹塚は宮本のぼやきも共有した。
矢口は怪訝な顔つきで二人の会話を聞いていた。そして、こんな場所でタバコを吸い始めた二人に対して敵意に近い感情を抱いた。特に笹塚に対しては、年下の男に媚びているような姿が同性として情けなく思えた。
タバコを吸い始めるきっかけをくれた宮本の先導行為に感謝を感じながらも、どこか惨めさに小さくなっていく笹本は、口をすぼみながらメンソールを深めに吸い込んだ。
女性の多くは健康志向もありタバコを敬遠しがちだが、ゆかりもそのひとりだった。いつも持ち歩いている化粧ポーチからガムを取り出し口に入れた。
「ガム食べますかー?」
ゆかりもタバコの煙を吸わされることに抵抗があったが、そんなことは顔にもださず隣で眉間にシワを寄せる矢口に向けて笑顔で問いかけた。
「え? あ、ありがとう」
板状のガムが架け橋になり二人は繋がった。矢口は不器用な手つきでそのガムをゆかりの指から離した。ガムの洋服を脱がしていくと清潔そうなミントの香りが矢口の鼻をくすぐった。
宮本と笹塚の距離が縮まるように、ゆかりと矢口の距離も縮まってゆく。
「何階で降りるつもりだったの?」
「11階です」
「ん、もしかして大日生命の人?」
「あっ、そうです。もしかしてうちの荷物ですか?」
「そうだよ、ちょうどよかった。判子いいですか?」
当たり前なやり取りが当たり前でないこの空間でされることが微妙な笑いを誘い、二人はお互い頬を緩ませあった。
「あははは、ここでやるっていう。でも判子は持ってないなー、サインでもいいですか?」
「そうだよね、さすがに判子は持ってないか、はは。分かりました。サインで構わないのでこちらに」
ゆかりはふわっと髪をかきあげ、胸元のボールペンを取り出し矢口が指し示す伝票の箇所にサインをした。矢口は国際便の荷物をゆかりの台車のスペースに置き、配達完了をバーコードで打ち終えた。
宮本と笹塚、ゆかりと矢口、なんとなくできたペアはそれぞれ取り止めもない話をしていたが、その中でも宮本だけは周りと違う感情を抱いていた。宮本の視線はゆかりがサインをするペン先をジッと見つめていた。
(山下……)