お昼前の出来事
「シューゥィウーーゥンンゥィンン……ゥンン……」
丸の内トラストタワーのエレベーター(貨物用2号機)が、乗客それぞれの事情を抱え目的階へエスコートしている途中だった。昼食時になると、この貨物用エレベーターは待ちの列ができるほどの人気アトラクションだ。原則として使用は貨物用のみとなってはいるものの、昼前の混み合う時間帯は暗黙の了解で一般人も利用している。
お昼前ということもあってそのあたりの事情通なお客は八人しかおらず、定員二十四名、積載量千六百キロのエレベーターは不満そうに動き出していた。
無機質な鉄の塊はいつものようにお客を降ろしていく。四階で一人、七階で一人、八階で二人、今日も変わらず絶好調だ。体を震わせながら鉄の塊は日常の職務を遂行していた。各階では新しいお客を迎えることなく軽快に動いていたのだが、不愉快なことでもあったのだろうか、次の目的地の十階へ到着するまさにその時、何かを諦めたかのように鉄の塊は動きを止めた。
(ん?)
違和感を感じる四人の乗客達の内訳はこうだ。階数の表示板を見上げる者、スマートフォンをいじり続ける者、目のやり場が見つかっていない者、納品用のバーコードを操作する者。
その彼らが事情を飲み込むのに時間はかからなかった。
「故障ですかね?」
誰に投げられた言葉かは分からないが、最初に口を開いたのはビル十階にある本社の営業部長に挨拶のため訪れていた、大手通信機器メーカーに勤める宮本和人だった。三十一歳の若さで営業主任である宮本は、不揃いな顎髭をたくわえ短髪で背が高く引き締まった身体をしている。白い歯と浅黒く日焼けをした顔つきからは、数年間ではあるが社会人としての経験に裏打ちされた自信というものが伺える。
グラウンドに散らばる高校野球の球児のように、他の三人が会話のポジションにつき始める。
「そうかもしれませんねぇ、えぇ、ありえない……」
宮本の言葉を受け止めたのは十四階にある生命保険会社の総務部に勤める二十二歳の山下ゆかりだった。スマートフォンの画面を滑らしていた細い指を落ち着かせ片手に持ち、手元の小さい台車を引き寄せながらそう答えた。台車の上にはコピー用紙のようなものが入っているダンボール箱がひとつ乗っているだけだ。
薄茶色がかったセミロングの髪、華奢な体つき、トレゾアの甘い香り、少し演技じみたテノールの声質からは、この空間にいる男性全ての視覚、聴覚、嗅覚を刺激する魅力が伝わってくる。
そんなゆかりの魅力に吸い込まれるであろう男性のひとりが笹塚啓だ。五十歳を目の前にした笹塚は十七階にある総合商社で経理部で働いている。年間売上高が三兆円を超える世間でも名の知れた商社ではあったが、偏差値競争を勝ち抜いた笹塚はその時代にうまくはまり入社することができた。
若さ溢れる宮本とは対照的に、笹塚の肌は白く髪の毛の量も同年代と比べ少なめだ。誰もこの男が有名な大手商社の社員であるとは分からないだろう。気弱そうで小太りの容姿からも休日はいかにもモニターに脂の乗った顔を近づけ、ネットゲームに興じている姿が想像される。まさに経理向けといった外装を備えている。
「管理会社の連絡先か何かってありますか?」
頼りなさそうであるが落ち着いた様子で、笹塚は言葉を発した宮本とゆかりに向けて言った。
「それと……」
そして何かを言いかけ笹塚は鞄からひとつ前の型のアイフォンを取り出し、何かを調べ始めた。
順番で言えば次は別の人間が口を開くことが妥当かもしれない。しかし次に言葉を発したのは、この状況を楽しんでいるとさえ感じられる宮本だった。
「あっ、これじゃないですか?」
宮本はプッシュボタンの下に管理会社の連絡先シールが貼られていることに気付いた。左隅は軽くめくれてはいたが番号は全桁読み取れる。宮本はニ歩ほど歩きそのシールを確かめ記載されている電話番号を笹塚に伝えようとした。しかしその時、それを遮るように別の男性が、無言で操作盤の上にある外部ブザーを強く押した。その動作に宮本は瞬間的に嫌悪のようなものを感じた。その男は二度三度力強く押してみるが、やはりなにも反応はない。
「なんだよ! まったくよ!」
荒々しく不機嫌を撒き散らしたこの男は矢口哲夫だった。矢口は手に持ったバーコードを腰の脇の巾着に入れるとそれでも尚、緊急ブザーを押し続けたが反応はない。何度も押し続ける指先はあかぎれており、着古された制服は一目で運送屋のそれと分かる。作業帽から作業靴まで決して綺麗とは言えない身なりの彼が、鳴らないブザーを押すたびに場の空気は重くなっていく。
「間に合わねえよ、くそ。次もあるのによ」
ボリュームは抑えているようだが皆にはしっかりと聞こえている。この狭い空間に矢口の不満が遠慮なく吐き出される。
淀みはじめた空気の中、宮本は見つけた緊急連絡先にある電話番号を笹塚に教えることを諦めた。会話を禁止させるような閉鎖的な空気がそうさせたのかもしれない。宮本は自らのスマートフォンでその電話番号を押し始めたが繋がらなかった。何度か試してみるがやはり繋がらない。宮本は携帯電話をポケットにしまい、両手で扉をこじ開けようとした。するとゆかりも横から艶のある白い手で援護した。
「あっ、すみません」
「いえいえ」
使い慣れた営業的なスマイルではあったが、笑みを浮かべるゆかりの表情と鼻をかすめる甘い香りに、宮本は安堵感以上のものを覚えた。
「なんのための緊急連絡先だろうね、こりゃ」
宮本は困り果てたように言う。
「ほんとですよねー、今まさに緊急なんですけどー」
宮本とゆかりの掛け合いが重苦しい空気を少し軽くした。
「すいませーん、誰かいますかー」
ゆかりは続けて外に向け言葉を放った。それに引き寄せられたように、他の男たちも各々声をあげる。
「すいませーん! おーい!」
「エレベーターが故障したようです。誰かいますか?」
「聞こえますか? 誰かいませんか!」
言葉は堤防に積み重なる土嚢のように重ねられていく。換気口から聞こえる乾いた空調の音だけがそれに答え続ける。一定の空気音はまるで生命維持装置のピーっというフラット音のごとく、不気味さと諦めを四人に与えるかのように空間に広がっていた。
いつの間にか四人全員は同じ鉄の扉に手を添えていた。無理なことは百も承知だがそれぞれの身体が自然に動いていた。現実的な‘もしかしたら’を感じた四人の動きは一致していた。できそうな可能性を感じたのだろう。人はまず考える、そしてそれを口にする、そして動き出す。思考から行動という一定の法則はここでも成り立った。一センチほどあろうか隙間に指をねじこませる者、それに合わせる者、手のひらをヒンヤリとした鉄に密着させる者、足を踏ん張り声を出す者、そんな四人のアナログな試行がしばらく続いた。
しかし鉄の固い扉は開くはずもない。目に見えない電波でさえ遮ってやろうという鉄の塊の意志に、この空間にいる者全ては従うほかなかった。
時計を見ると十一時五十五分を過ぎていた。矢口は鉄の扉に身体をあずけながら携帯電話で電話をかけ始めようとした。携帯電話はキャリアによって電波の感度は変わってくる。そんな差を知っていた矢口だが発信すらできない。
「くそっ! どうするんだよ!」
絞り気味だった声のトーンは歪みを増し、やわらかくなりかけていたその場の空気を再び元に戻そうとする。
もっとも矢口を含め他の三人は、この段階ではそこまで深刻に考えていなかった。海外のニュースで見たことがあるような気がするくらいで、実際にエレベーターというものが止まって開かないなんてことは、あり得るはずがない。それも自分たちの身にだ。
すぐに何かしらの助けが来る、またはエレベーター自体の不具合が収まる、そして間もなくここを出ることができるだろう。このように四人の常識は、それぞれの精神状態を現実的な身近に起こりうるトラブルという枠に収めてくれていた。
しかし、実際の現実は常識を軽く凌駕していた。すべてはある人間の計画通りに進んでおり、それはこの場のひとりを除いて誰も知るはずがなかった。