木工房つむぎ
その店は、駅前商店街の、駅から出て右手3軒目に、ちんまりと存在している。
『木工房つむぎ』と手作りの看板を入口のドアの上に掲げ、ショーケースには子供のオモチャから木製食器、小さな家具に至るまで、全て木で作られた商品が並べられている。
元は『八代家具店』という手作り家具の店だったが、ツムギの祖父が、自分で八代続いて、名前に偽りもないところまで来たから店じまいする、というのを、今の形の店にして引き継いだのだ。
ショーケースの中、一番入り口に近い場所には木のボードが出ていて、その時ごとに
「奥の作業場にいます」とか「お買い物に行って来ます」とか、「美味しい紅茶、いただきました。ご馳走します」とか「コーヒー豆、入荷しました。挽いて下さる方、お願いします」といったメッセージが書き込まれている。
その日、買い物から帰ってきたツムギが「買い物中です。15時には戻ります」と書いた看板を下げ、「営業中。おいしいリンゴ、買って来ました。お味見どうぞ」と新しく書き換えてショーケースに入れる。と、それを待っていた客が、寄りかかっていた外壁からゆらりと体を起こして、お店のドアを叩いた。
コンコン、と木の音が響いて、ツムギが振り返る。
「あれ、りっちゃんだ。おかえりー」
制服姿の女子高生を、ツムギは笑顔で出迎えた。
「ツムギさん。あれ、やめた方が良くない?泥棒に、チャンスだよって教えてるようなもんじゃない」
書き換えられたばかりのボードを後ろ手に指差して、リツが言う。ツムギは笑った。
「言われた、それ。ショウ君にも。あ、ショウ君って近所の男の子なんだけど、幼稚園の帰りによくママと遊びに来てくれてね」
思い出し笑いをしながら、リツを手招きして店の外に連れ出す。そして指差したのは、ドアの一部。上の方に貼られた手書きの文字。
「セコ…マ?」
字を覚えたての小さな子供らしい、実に読みづらいカタカナを、リツは眉を寄せながら口に出して読む。
「警備会社の名前。ほら、よくお金持ちの家なんかについてるでしょ、ステッカー」
ダミーだけど、ちょっとは効果あるだろ、と、得意げに言う男の子の顔を思い出して、ツムギはまた微笑ましく笑った。
「マ、じゃなくてム、でしょ。間違えるにしても、全然違うじゃない」
リツは呆れたように言って、サッサと店の中に戻って行く。ツムギはもう一度、手書きの張り紙を見上げてから、リツに続いて店の中へと戻った。
朝晩は冷え込むようになった秋口でも、昼間の室内は日差しもたっぷり届いて暖かい。柔らかい木の香りが、余計に暖かな感じを与えてくれる。
「あ、八百屋さんでリンゴ、サービスしてもらって来たんだ。りっちゃん、食べる?」
店は、入り口こそ狭いが奥に長細く、ガラス張りのショーケースを含めて商品の展示スペースがあり、その一角には座って休める椅子とテーブルがある。その向こうに簡単な対面キッチンがあって、さらに奥が作業場になっていた。
祖父の代にはこの5倍ほどの広さがあったが、店をリニューアルする時に、残りのスペースは切り売りしてしまったのだ。ツムギが扱う商品は、家具というより雑貨小物の方が多いので、今のスペースがあれば十分だ。商品の数自体、ツムギが個人的に仕入れるものと、自分の手作りのものだけなのでそう多くはなかった。
「甘いなら食べる」
店内を見て回りながら、奥のツムギに答える。ふと、その目が店の片隅、目立たないところにそっと置かれた1つの椅子に止まった。真新しい木の香りを発する他の商品と違って、その椅子は古く、ボロボロで、言葉を選ばずに言えば、実にみすぼらしかった。
「ツムギさん、この椅子…」
言いかけた言葉が、指先に走った痛みで止まる。何気なく近づいて触った椅子、その表面を軽く撫でたつもりが、ピリッとした痛みが走って、驚いて手を引っ込める
「あ、それ。ささくれが刺さるから、触らない方が…いいよ、って言おうと思ったんだけど」
キッチンから顔だけ覗かせたツムギが、指先を反対の手で握りしめるリツの動作に気づいて、遅かったね、と、ごめんごめん、と続ける。
キッチンの引き出しから裁縫セットを取り出しながら、店内にある休憩用の椅子に座るよう、リツを促す。自分も向かい側に座り、痛みが走ったリツの手を取り、じっとその指先を見つめた。
「…あ、やっぱりトゲ。奥まで刺さってないから、簡単に取れるかな」
じっとしててね、と言って、とげ抜きでリツに指に刺さった小さなトゲを抜きにかかる。
ツムギの手の温もりが、リツには少しくすぐったくて、座りが悪かった。その居心地の悪さをごまかすように、リツはさっき触れた古い椅子を振り返る。
椅子と言っても、小さな子供が座れるぐらいのサイズで、他の、素朴だが木の素材を生かした商品とは違い、不器用な中学生が学校の授業で作ったようなぎこちなさが全面に出ている。暖かな商品の中で、それは酷く浮いていた。
「…私みたい」
ふと口から漏れた言葉に、発したリツ本人が驚いたようにツムギを見る。ツムギは気にした様子もなく、リツの指先に視線を固定したまま「そう?」とだけ、軽い口調で言った。真剣に受け取られたら、きっとその場をごまかしただろうが、軽く流されたから、言い訳のような続きの言葉がするすると出てきた。
「…味気もなくて、柔らかくもなくて。ギスギスしてて、周りから浮いてるところ。今日だって、教室にいるのがしんどくて、最後の授業、出ないで帰って来ちゃったし」
愛想がなくて、人になじめなくて。たまに口をついて出る言葉のきつさで、思いがけず相手を傷つけてしまうことも多い。リツの指先に刺さった、ささくれのトゲのように。
「そっか。それでいつもより、早い時間なんだ。…あ、取れた」
トゲが抜けるのに、痛みはなかった。一応、消毒しておこうかな、と言いながら、ツムギは裁縫道具を片付けて、今度は救急箱を取り出しにかかる。出してきた消毒液で、リツの指先を簡単に消毒すると、ツムギはリツに笑いかけた。
「りっちゃん、作業場見てく?」
作業場はキッチンの向こう側、ガラス戸で仕切られた先にある。
リツは、ツムギが木材相手に作業するのを見ているのが好きだった。
温かみのあるツムギの手が、優しく木に触れて、その形を変えていく。
作業台から少し離れたところに丸椅子を置いて、邪魔をしないようにじっとしているが、ツムギはリツの存在をあまり気にせずに、いつもと変わらない調子で作業を進めていく。
今、ツムギの前には、先ほどの古ぼけた椅子が置かれていた。
手に、表面がザラザラした手袋をはめて、椅子の表面を丁寧に撫でる。
元は白く塗られていたらしい塗料が、ポロポロと剥がれて下に敷いた新聞紙の上に落ちて行く。
全体の塗料を落とすと、ツムギは手袋を外して道具を木工ヤスリに変えた。
ギザギザとささくれ立った部分を、丁寧に削って表面を丸めて行く。
椅子をひっくり返したり斜めにしたり。
全体が整うと、布でキレイに拭き取って。
そこまでの作業が済んで初めて、ツムギがリツを振り返った。
「ペンキ、何色にする?」
急に話しかけられて、リツは驚いて体を起こした。知らずのうちに前のめりになって、ツムギの作業に見入っていたようだった。
「え…と、じゃあ……水色」
なんとか答えた声も、どこか緊張したように喉にからんだ。ツムギはそんなリツを気にする様子もなく、満足そうに笑って頷く。
「私も。水色がいいな」
トレーに青色のペンキを流し込む。続けて白のペンキも入れて、ハケで軽く混ぜていく。色が完全に混じらない、マーブルのところで止めると、ハケにペンキをたっぷり含め、トレーの縁で余分なペンキを落としてから、椅子の表面を塗り始める。
生木の色に近かった椅子が、ハケが通り過ぎるごとに綺麗な水色に変わっていく。
木がペンキを吸い込み、表面からスーッと水分が消えて色だけ残っていく。ところどころ、薄い白が混じる水色は、まるで薄い雲が広がる青空のようだった。
作業が全部終わるまで、どれぐらいかかったのだろう。気づけば店の外は、薄い夕闇に包まれていた。
「すっかり遅くなっちゃったね。…はい、リンゴ」
店内の休憩スペースに戻ったリツの前に、リンゴが乗ったお皿が置かれる。
「少し、落ち着いた?」
向かい側の椅子を引いて座り、ツムギがリツにそっと声をかける。
古くくすんだ椅子の、ささくれ立った表面が柔らかな木の触感を取り戻したところまででも、胸が詰まっていっぱいだったのに。
澄んだ色をしたペンキが吸い込まれるように塗られていくと、リツの中からは何かが溢れ出て止まらなくなった。涙が出て、止まらなかった。
「あの椅子ね」
返事のないリツを気に留めず、ツムギが話し始める。
「私の父が作ってくれた椅子なの。まだ小さな子供だった私のために」
リツが思わず顔を上げると、その真っ赤な目を正面から受け止めてツムギが微笑む。
「このお店、元は祖父の代まで家具屋さんだったのね。手作り家具の店。でも、時代が変わって、家具も大きなお店で買うのが主流になって。そこにきて、私の父、天才的に手が不器用でね」
作業場の作業台の上。ペンキが乾くのじっと待ってる椅子を、2人で一緒に振り返った。表面は綺麗になった椅子でも、その不恰好さに変わりはない。
「祖父も父もお店のことは諦めて、父は普通のサラリーマンになったんだ。この前、定年退職して、時間を持て余して家の物置を片付けてたら、ひょっこり出て来たんだって。一応、私にくれたものだから、勝手に捨てるのも気が引けるって連絡くれてね。今日の午前中、引き取ってきたの」
ツムギはテーブルの上のリンゴを、1つ指でつまんで口に入れる。リツにも勧めるように皿をリツの方へと押し、それに応えてリツも無言でリンゴを1つ、口に入れた。甘さと酸味が、同時に口の中に広がる。
「小さい頃、私が父にせがんだらしいのよ。おじいちゃんのじゃなくて、お父さんの手作りが欲しいって。でも父も、作品を祖父に見られるのは嫌だったみたいで、作るだけ作ってみせて、あとは物置に隠しちゃったんだって。私、座ってみた記憶もないのよ。…でも、不思議と覚えてるの。椅子を作る父の姿」
遠い、遠い記憶で、夢のように定かではなかったが。それでもその記憶は、確かにツムギの奥深くに沈んでいて、消えることはなかった。
「商品にもならない、不恰好な椅子だけど、私にとっては宝物なんだ。…だから」
ツムギは一度、言葉を止めてリツの視線が自分に戻るのを待つ。
「りっちゃんも、誰かの大事な宝物だよ。くすんで見えても、トゲトゲしてても、大事な大事な宝物。ご両親が産んで、一生懸命育ててくれたから、今、存在してられるんだよ」
リツの手に、ツムギの手が重なった。
「今は物置の奥で息苦しくしててもね。あの椅子みたいに誰かが見つけて、必要としてくれる日がくるよ。それまではさ、だましだましでも、ウチとか別な場所で息継ぎして休憩しながら、いろんなこと、続けてみない?」
「…ツムギさん」
時々、学校でも家の中でも、喉が詰まったように息ができなくなる時がある。酸素のない水槽に閉じ込められたような閉塞感で、その場にいられなくなる。学校を黙って早退してくるのも、今日が初めてではなかった。親に見つからないように、夜中に家を出て、あてもなく歩いて詰まった息を整えることもあった。
「あの椅子ね。お店の入口に置いて、鉢植え置きにしようと思うの。りっちゃんが空色を選んでくれたから、雨の日でも青空の中にいられるね」
ツムギの声は、いつでも晴れた日のようにからりと温かい。
「どんなお花がいいか、今度りっちゃん、一緒にお花屋さんに行ってくれる?」
優しい誘いの言葉に、リツは俯いたまま、でも深く、頷きを返した。
空色の、少し形の悪い椅子に、どんな色の花を飾ったらお店の空気に馴染むだろうと、楽しい予定に思いを馳せながら。