夏休みの終わり
「ひろちゃーん!こっちこっち!」
元気な雪音は車から降りて早々、海の方へと駆けだしていった。
初めて見る砂浜と、自然の波を見ておぉーと感嘆の声を上げている。
「父さん、雪って泳げるのかな?」
「さあ……確か保育園ではプールに入ってたけど、泳ぐ程の広さはないだろうからなあ……」
俺達が少し目を離すと、この無邪気なお姫様は一人で海に近づいていく。
無邪気すぎて嫌な予感しかない。
とりあえず非常事態を想定して、雪音のお腹周りに浮輪を強制的につけた。
初めてつけられたその輪っかに雪音は小首を傾げている。
「ひろちゃん、これなあに?」
「浮輪って言ってな、それがついてると波が来ても雪音がさらわれることはないから」
「ふぅーん?じゃあユキいっきまーす!!」
浮輪を両手で掴みながら、砂浜を裸足で走り出す彼女を追いかけるのは至難の業だ。
たった3歳しか違わないのに、どうして足の裏を痛いと思わないのだろう。
灼熱の砂浜と、所々に落ちているガラスの破片のようなものや、貝殻の欠片はある意味凶器だ。
「おーい雪音、ちょっと待って……」
「楽しい!ざぱーん!ざぱーん!」
よろよろと雪音を追いかけても全く間に合わず、彼女は準備運動も無しで、海の中に入っていた。
時々大波に呑まれても浮輪があるお陰で沈むこともなく、その波を全身で浴びて喜んでいる。
他の家族連れも近くに居るため、はしゃぐ雪音は自然と注目を浴びる。
本人が楽しいなら、それでいいか?
「全く……これで夏休みの絵日記くらいかけるかな?」
自由研究が終わらないと泣きついてきた雪音の宿題は、一般の提出物は終わっている。
後は”思い出に残る絵日記”だけが宿題だ。
俺もまだ思い出日記が終わっていなかったけど、今日のこれを書いたら十分だ。
「あまり遠くに行くなよ?」
「はーい」
父さんは仕事後だったので本当は休ませたかったけど、海まで連れてきてくれるドライバーは家にいない。
一睡もしていないのに、快く子供達を海まで連れてきてくれた父には頭が上がらない。
一通り波を堪能した雪音は再び俺の方にぽてぽてと近づいてきた。
そして何かを探しているようで視線をきょろきょろ動かしている。
「ひろちゃん、ぷかぷかいないかな?」
「クラゲか?刺されたらかゆいから居ない方がいいんじゃないか?」
再び海の方に走っていった雪音を追いかけた俺もざぶざぶと海に入る。
「きゃははっ。楽しい~。ひろちゃんこっち!」
雪音は浮輪のお陰で、何度波に呑まれても身体が沈まないので喜んでる。
心底楽しんでいる雪音の隣に俺は数分かけて漸くたどり着く。
――クラゲのことは時期的にも心配だったが、雪音と自分の身長程度の浅い場所であれば居ないだろう。
そう――高を括っていたのだが。
「いってええ!!」
以前、雪音が風呂に入れたザリガニと同じくらいの激痛が足に走る。
しかし、足を何かに挟まれたと思ってもその姿は確認することが出来ない。
まさにそれが怪奇現象かと思うとぞっとする。
その後も雪音と砂浜近くで泳いでいたが、結局足を挟んだ原因を見つけることはできなかった。
傷もないし、まぁいいやと気にすることなく車に戻り、父に聞くと綺麗な砂浜にはスナガニという生物が存在していると言う。
昼間は警戒心が強くて人前に出ることがないため、目撃するとしたら夜になるとか。
「ひろちゃんが、カニに食われたっていい話が書けそうだね?」
「……これで絵日記が書けそうだよ」
夏休みの最後の1ページは、弘樹がカニに足を挟まれたイラストで締めくくられた。
2016.9.01 蒼龍 葵(11.27)