旅のはじまり
アズターナは全ての森の住民に丁寧に挨拶をして旅立った。
森の誰もがアズターナとの別れを惜しんでくれた。
姉のように慕っているティーシアは、わんわんと泣きながら見えなくなるまで見送ってくれた。というのも森の縁までの同行を願い出たが森エルフの長老からは許しが出なかったのだ。
「さようなら、私の故郷。必ず帰ってくるね」
そう呟きながら、その望みは叶わないと理解している。
ここは本来ヒト種を拒む森なのだ。
自分一人であれば帰ってくる事は可能だろう。初代から続くドラゴンの原始魔法によって守られたこの森にダリュエンナの娘として認められたのだから。
しかしながら、ヒト種に限らずどの種族も子孫を残す為に生きている。
自分もいつかは番――ヒト種的に言うなら伴侶と暮らす事になる。その存在をまだ想像すら出来ないけれど、それでも二人で入る事はできない。奥深くまで入る前に旦那様は森に拒まれる。
「よし。まずは森を出ないとね」
森の生活はそれぞれが得意な分野を担い、互いに助け合って生きている。食べ物にしろ、生活道具にしろ物々交換が基本だ。物がなければ手伝えば貰えるのだから。それに一年中森の恵みにも与れる。
ヒト種の事を学んだとはいえ、他の種族の内容と比べるも圧倒的に少ない。
唯一知っているのがダリュエンナだ。かなり昔にヒト種を知るために街で一ヶ月ほど暮らした事があるからだ。
だからヒト種社会はお金という物で成り立っているくらいは知っていた。
ダリュエンナはあんな面倒くさい物はないぞと呆れていた。そして、珍しい物には目がないぞ、と。おそらくヒト種社会ではお金が必要で、それを持っていなかったダリュエンナは、ヒト種の前で人化を解くこともできずに苦労して珍しい物をかき集めたのだろう。
そのダリュエンナがちょっぴり涙を浮かべて自らの鱗を一枚引き抜いてくれたのだ。
ダリュエンナ自慢の、そしてアズターナの由来となった深紅の光を放つ十五センチくらいの水滴型をした鱗だ。
なにしろ最上級ドラゴンの鱗はアダマンタイト級の硬度を持ちながら、持ち主の意に添って柳の枝のしなやかさにもなる。そして、よほど強力な魔法でもない限り跳ね返す。
これに穴を開けられる物となるとドラゴンの爪や牙くらいしか知らない。
ダリュエンナはこれを売れば少しばかりのお金にはなるだろうと踏んだのだ。
アズターナにはその気持ちが痛いほど伝わった。だからこそ全く売る気にはなれなかった。
お母さんのお守りとして肌身離さず一生持っていようと考えたのだ。
持ち運びやすいようにとダリュエンナに穴を一つ開けて貰い、そこに紐を通して首から提げている。
少しばかり大きいがとても軽いのでペンダントにしても気にならない。それ以上にいつもダリュエンナと一緒にいるような気持ちになれるのだ。
その代わり、なにかお金を得る方法を考えないとならない。
甘いだろうが、なにか手伝えば少しは稼げると考えていた。
森を歩く事二ヶ月。
手ぶらでも森の恵みがあるから食べ物には困らない。
水は魔法で出すより湧いている泉の水の方がよっぽど美味しい。体だって洗える。
寒ければ魔法を使って火を熾す事だって出来る。
小雨であれば大きな葉っぱを傘代わりにして、大雨だったら大木の下や岩棚の下でやり過ごす。わざわざ魔法を使うまでの事ではない。それが森での暮らしだったのだから。
今まで様々な事を教わったからこそ森の住民へ感謝の念を忘れない。
そろそろだろうか。
この辺からは運が良ければヒト種が入り込める地帯となる。出る事はできないけれど。
しばらく歩くと地面にポッカリと開いた穴からマダラ大蜘蛛が飛び出してきた。
群れで移動する獣であれば、その足音に驚きジッとしているけれど、単体なら一瞬で足に噛みつき食料としてしまう。
ところが、足に噛みつこうとしたマダラ大蜘蛛はアズターナの「きゃっ」という驚きの声と同時に弾けるように空中に跳ね飛ばされ、慌てて巣穴へと逃げ帰っていった。
「よかった。死んじゃ可哀想だものね」
森の中心部で暮らしていたアズターナには滅多に危ない目に遭わなかった。久しぶりの森の加護の効果に驚きつつも、やっぱり自分もこの森の住民なんだとアズターナは嬉しく思っていた。
他にも危険な生き物は数多くいるけれど、アズターナの森の加護のお陰で時には驚き、時には気づかないまま歩き続ける。
そしてようやく森が切れた。
今までの木々に囲まれた場所と違い、地平線の彼方まで一気に視界が開けた。
「うわーっ!」
思わず感嘆の声が出ていた。
そこには、そよそよと風の流れる一面の草原が広がっていたからだ。
こんな広大な光景を見たのは初めてだった。今まで見た中でこれくらい感動したのは森の中に静かにたたずむ小さな湖くらいだ。
アズターナはすっかり興奮してしばらく口をポカンと開けたまま見つめていたくらいだった。
「で、でも。美しさでは森の湖も負けてない、よね」
水浴びもできるし魚釣りもできる。なにより神秘的な美しさを持った森の湖は見る者を圧倒する。アズターナの一番のお気に入りの場所だ。
「そ、そうだった。えっとぉ……」
ヒト種も移動するなら道を通るはずだ。
アズターナは、キョロキョロと辺りを見渡しながら草原の中を掻き分けていく。
「あっと、いけない。森の加護はもう効かないんだった」
立ち止まって、ゆっくり深呼吸をすると一瞬で護身魔法を唱える。
それでさっきまでの興奮した気持ちが落ち着いたのか、慌てて振り返って森を感慨深げに見つめるとゆっくりと頭を下げた。
「今までありがとうございました」
ポツリ、またポツリと涙がこぼれ落ちていく。
短い言葉ではあるが、そこにはアズターナの全ての想いが込められていた。
「へへっ……。な、泣いちゃ(ぐすっ)……泣いちゃダメだよね……」
誰に見られている訳ではないが、アズターナはしばらく頭を下げたまま動けなかった。
そして、ようやく涙が止まると顔を上げて改めて森を見る。
「うん……うん……。私、頑張るから……」
まるで頑張れと、そして元気で生きろと言わんばかりに森の木々がゆっくりと揺れていた。
見渡す限りの草原で辺りにヒト種の姿はなかったけれど、しばらく草原を掻き分けて進むと一筋の地面が現れた。
一律に幅が二メートルほどあるから獣道ではないだろう。中央部付近に草が生えていたりもするが、どこまでもどこまで真っ直ぐに草原の向こうまで延びている。
「これ、かな?」
もうしっかり独り言を口にする癖がついていた。
胸元で踊るダリュエンナの鱗に支えられながらも生まれて初めて二ヶ月もの間一人でいたのだから仕方がない。
「どっちかな?」
アズターナはちょっと考えたけれど、考えるだけ無駄と気づいた。
大雑把ではあるが世界の地理は知っている。そして、この辺りがスーリラ国というのも知っている。しかし、この国に点在する町や村の全てを把握している訳ではない。
どちらを見ても森に沿うように果てしなく道らしき地面の帯が延びているだけだ。
「こっちでいいや」
そう呟いて、アズターナは歩き出した。
自分以外のヒト種とはどんな者たちなのだろうと期待に胸を膨らませながら。
「喉乾いた……」
森の中とは違う景色に胸を躍らせながらアズターナは歩き続ける。
しかし、恵みに溢れる森と違い、行けども行けどもそよそよと風が吹き渡る草原だけが広がっている。
泉どころか小川すら流れていない。
もしかしたら草原のどこかを流れているかも知れないが、一面草に覆われてそれらしき物は見えなかった。
仕方なく魔法で水を出して喉を潤しながら考え込んだ。
「つまり、食べ物も、って事よね。甘かったぁー」
体力は大人と同じくらいある。だから何とでもなるだろうと軽く考えていた。
まるっきりの手ぶら。残っているのはポケットに入っている干したラシタルの実だけだ。
ヒト種は毒があるからと食べないらしいから持っている可能性は限りなく低い。
残った干したラシタルの実は超の付く貴重品となってしまった。
「今、食べる訳にはいかなよねぇ……。でもさぁ。もしこれが道で、ヒト種が行き来しているなら、水は魔法で何とかなるにしても食べ物はどうしているんだろう?」
左右の草原からは時々アズターナの気配を感じて鳥が飛び立ったり、小さな獣が走り去っている。
それを狩って食料にしたとしても焚き火の跡が全くないのは妙だ。
ヒト種は生のまま食べるのだろうか? それとも火魔法で焼いているのだろうか?
もしかして根本的に間違っていて、道だと勘違いして変な場所を歩いているのだろうか?
今まで暮らしてきた森は広大だ。どんなに道とおぼしきところを歩いてもまだ草原の向こうにチラホラと見えている。
戻って森の恵みを頂ければ食いつなぐ事は可能だ。
問題は、意を決して森を出たというのに尻尾を巻いて逃げ帰るという事は、ダリュエンナの娘として恥ずかしい行いとなってしまう事だった。
「やっぱり最後の手段よね……」
真っ直ぐに伸びる道らしき地面はどう考えても不自然なのだ。
それに中央部に生えていく草もよく見るとなにかが踏みつけたように折れている。
こうなったら意地でも進もうと歩き出した。
「そう言えば獣人族のお話を教わった時に……」
獣人族は足が速い者が多い。
ところが、瞬間移動に見える大地蜘蛛の移動と同等の速さを持った獣人がいたと言うのだ。ダリュエンナに教わった神速のカリガンテの事だ。
ダリュエンナが直接会った訳ではなく、先代と仲が良かったらしい。
「でも、あの時もいろいろ試してみたんだけどな……」
ティーシアと二人で思いつく事を試してみたけれど、二人とも、どうなのかなぁ、千歩走って一歩分くらい早くなったかも、くらいしか速くならなかった。
アズターナやティーシアの走る速度ではほとんど効果が出ない事くらいダリュエンナには分かっていたけれど、それを考えるのも大事な勉強と答えを教えてくれなかった。
「むー。まだまだ、だったんだなぁー……」
そう言えば、あの後ティーシアは弓の腕が上がったって喜んでいた。大人の森エルフにも褒められたって。おそらく速さの謎を解くために風魔法を自在に操れるようになってきたからだろう。
風魔法だとほんの少しだけ速度が上がったような感じだった。
あの時はまだ幼かったから思いつくままに風魔法を弄っていたけれど、風魔法だけでなく多方面から考えてみよう。
難しい顔をしてアズターナは足を止めて考え込んでしまった。
「いけない。歩みは止めちゃダメよね」
そして時々立ち止まって考え込んでは慌てて歩き出していた。
どのくらい歩いただろう。
道に小さな橋が架かっていた。
チョロチョロと流れる澄み切った小川。
そして顔を上げると草原の先に小さな建物があるのに気がついた。
おそらくヒト種が住む家に違いないと、アズターナは思わず駆けだしていた。
万が一危険があるとしても護身の魔法を掛けてある。
点だった物が走るほどに少しずつ形を成してくる。
どうやら小さな村のようだ。二十数軒の家が身を寄せ合うように建っている。
「いた! ヒト種だ」
生まれて初めて見る自分以外のヒト種。
思わずガッツポーズが出ていた。
「おおーい!」
そしてアズターナは何度も大声を上げ手を振って駆けだした。