アズターナ
人化したドラゴンはグッタリしている赤子を覗き込んで頭を抱えた。
「死んでも構わぬが、流石に今は嫌じゃのぉ」
どうやら熱があるようで体が少し熱っぽい。
託されたがすぐに死んでしまいました、では森の住民から冷たい目で見られる。
「そ、そうじゃ」
ドラゴンはとある事を思いだし、赤子を抱きながら慌てて走り出していた。
人化を解いて空を飛んだ方が早いのだが、そんな事は頭から抜け落ちている。
しかし、例え人化ままでもドラゴンの力が抑えられるという事はない。
広大な森の端から思いついた目的地までを、赤子を気遣いながらもの凄い速度で駆け抜けていく。
そしてたどり着いた木の下で手近な熟れたラシタルの実を一つもぎ取った。
「妾も良く気がついたの。ラシタルの実とは」
赤く熟れた実は甘く柔らかな果肉でここに住む者全てが好む果実だ。
もっともヒト種社会では毒の実として有名らしい。
というのも、ほとんどのヒト種は魔法を使えない。体が魔力を受け付けないからだ。
その為に食べればラシタルの果実に豊富に含まれる魔力によって中毒を引き起こし死を招く。毒と間違われても仕方のない事だった。
しかし、生まれたばかりならどんな種族の赤子でも魔力に不感性があるので問題ない。そしていったん体が魔力を受け入れられるようになると魔法が扱えるようになる。
魔法はこの森で暮らす必要不可欠な力でもあるのだから。
「ほれ、今食わしてやるからの」
器用に皮を剥くと果汁が滴り落ちる果肉をグッタリとする赤子の口に果肉を押し当てた。
柔らかく果汁が多いので赤子でも問題なく吸えるのだろうと考えたのだが、最初は無反応だった赤子も少しずつ、そしてしだいに貪るように果肉を吸い始めた。
ここの者が好むのは甘いからだけではない。魔力だけでなく薬効もあるからだ。
熱っぽかった赤子の頬から次第に熱が下がっていく。
よほど空腹だったのだろう。
熱が下がっても赤子は夢中でラシタルの実を吸い続けていた。
「ずいぶんと腹を空かしておったのじゃのぉ……」
今考えれば、なにもここへ来る必要はなかった。
ラシタルの木はいたるところに生えている。温暖な環境を好むので北の森や高地には生えないが。
「森の住民につっこまれると、またバカにされそうじゃ」
今いるのは森の住民の住む場所だ。たわわに実るラシタルの木があるので迷うことなくここへ来てしまったのだった。
ドラゴンの沽券など大して気にはしないが、それでもこの森の主なのだ。
ところが、そんなフラグにしっかり反応したかのようにドラゴンの背後に一人の少女が現れた。
「ダリュエンナ様。こんな所で何してる……の、おーっ!?」
「いや、これは……だな……。その、……なんだ……」
なんと言いくるめようかとしどろもどろになっていたドラゴンに声をかけてきたのはエルフ種森エルフのティーシアだった。
ドラゴンはマズイ娘に見つかってしまったと己の不運さを呪った。
優しい娘ではあるが、まだ少女なだけに赤子に対する興味は凄まじい物がある。
外見がまだ人間で言えば十代手前の少女でも、生を受けてから二十数年経っている。それでも長寿種でもある森エルフからすれば二十数歳という年齢はまだまだ子供として扱われるし、精神的にもまだまだ子供なのだ。
広大な森の中央近くにいるティーシアには森の外れで起こった事など知る由もなかった。
ダリュエンナの人化すら珍しいのに、小脇に何かを抱え何やらやっているのを不思議に思ったティーシアは、そう声をかけてダリュエンナが抱えていた物を覗き込み、息を呑んでいる。
「まさかのヒト種じゃないですか!? どーしたんです?」
「んー、託された」
「えーっ!? 誰に?」
「妾は知らんぞ」
「いやいや。ってゆーか、何食べさせてるのよぉ! ラシタルの実はヒト種にとって……あれ? 元気に吸い付いている……ね」
「妾のする事じゃ。間違えるはずもなかろう」
得意になって薄い胸を張るダリュエンナだが、子供のティーシアですらこのドラゴンはそそっかしいと知っている。
気性の激しかった先代とは違うと教えられているが、それでもこの森の主なのだ。
気さくで面倒見が良くても怒らせるととても怖い。
「ヒト種っていっても、赤ちゃんは可愛いね」
ティーシアは一心不乱にラシタルの実を吸っている赤ん坊を見て満面の笑みを浮かべる。
それでも、ヒト種に良い印象は持っていない。
この森にいるからヒト種は手を出してこないと知っているが、一歩出れば何をされるか分からないと教えられているからだ。
そんなヒト種であっても無垢な赤子であればそんな気持ちは吹き飛んでしまっていた。
「ねぇダリュエンナ様、あたしにも抱かせて?」
「う、うむ。……仕方がないのぉ。優しくな。……そう言えば名前を聞き忘れておったな。そもそも妾に子育てなどできるのであろうか?」
ティーシアに赤子を抱かせながら、ダリュエンナは何と名付けようかと悩み始めていた。
ヒト種の赤子どころか、自分の子さえ育てた経験がないのだから。
「えぇー!? ダリュエンナ様、この赤ちゃん育てるの?」
「うむ。妾もそろそろ番を捜さねばならぬからな。その前に子育ての練習をしてみるのも良い経験じゃろうて」
ヒト種は十五、六歳で成人すると聞いた事があった。
長寿のドラゴン種からすればほんのわずかの時間でしかない。番を捜すのはその後でも全く問題はなかった。
「そーぉれ、それ。どうして、泣き止まぬのじゃ?」
「それは、赤ちゃんだからです」
「それくらい分かっておるっ! ティーシアは黙っておれっ!」
ダリュエンナはラシタルの実を完食した赤子がふんぎゃーと大声を上げて泣きだしたので慌ててあやし始めた。
とは言え、どうして良いのか分からない。何度も赤子を高く持ち上げなんとか泣き止ませようと必死だった。
その泣き声を聞いて森の住民が集まってくる。
そして森の主であるダリュエンナがヒト種の赤子を育て始めると聞いて大騒ぎになっていた。
それでも反対する者などいないのがダリュエンナの人徳なのだろう。
「ダリュエンナ様、赤ん坊はこうやってあやすのですよ」
見かねた女ドワーフが赤子を抱き、「よしよし」と優しく背中をさする。
「おー、そう言えばバルエラは五人の子持ちであったな」
くぅぅと声を上げ泣きやむ赤子を見てダリュエンナは感心したように頷く。
「そうじゃ、名前を付けんとな。なにが良いかのぉ……」
しばらく考え込んでいたダリュエンナが、一つの名に思い当たった。
「アズターナというのはどうじゃろ?」
「ダリュエンナ様、この子、女の子なのですか?」
ティーシアが「古ドラゴン語で“深紅の乙女”かぁ。女の子なら高貴さと可愛さがあるけど、男の子なら泣きたくなるよね」と呟くと周りもうんうんと頷いている。
「…………。これだけ可愛いのじゃ、女の子に決まっておろう」
「まったく。ちょっと貸して下さい」
ティーシアはバルエラに抱かれて静かになった赤子のくるまれている布をほどきだした。
「恥じゅかしかったでちゅねぇー」
そして、もう一度布にくるみダリュエンナに渡し、ニッコリと微笑んだ。
「アズターナちゃんで、決まりです!」
「「「おーっ!」」」
心配そうに見ていたダリュエンナがホッと胸をなで下ろし、「ほれ見ろ。妾の見立てに間違いがある訳なかろう」とブツブツと呟ならがアズターナを抱きしめていた。
「それはそうと、ヒト種の赤子を育てるとなると今までの住処では都合が悪の。皆と相談して小さい家を用意せねばならぬな」
「おーよしよし」
必死に優しくあやすダリュエンナの意に反してアズターナが泣き叫んでいた。
バルエラ、話が違うではないかぁ、と泣きたい気分だった。
「ダリュエンナ様、おむつじゃないですか?」
ダリュエンナの周りを飛び回る小妖精種が心配そうに呟く。
「おー、忘れておった。フォルテナ、済まぬな」
子供を産んだ事も育てた事もないのにいきなり赤子を育て始めたのだ。経験不足は仕方がない。要は二度と繰り返さなければ良いだけなのだ、とダリュエンナは子育てを手を抜かずに頑張っていた。
それでもグッタリするアズターナにラシタルの実を思いついたのだけでも上出来だ。
今でもラシタルの実を見ればご機嫌な顔で吸い付いてくる。思わず心配になるくらい一日で十数個も食べてしまうのだ。
お陰で、あれからは熱を出す事もなくすくすくと育っている。
「むー、おかしいのぉ。ヒト種というのはこうも成長が遅いものなのか?」
あれから一年が過ぎたが、アズターナは大して成長したようには見えなかった。一回りほど大きくなっただけだ。
それでも言葉は少しずつ話すようになってきたし、ダリュエンナと他の者とをしっかり見分けている。
いろいろな者に相談してみてもヒト種の成長具合を知らないのだから見当すらつかない。
「し、しまった。ラシタルの実は拙かったかのぉ」
熱を出したグッタリした赤子にラシタルの実は最善ではあったが、ヒト種にとっては毒となる事もある実なのだ。なにか変な効果があったのかも知れない、とちょっと心配になった。
ところが、アズターナにとってラシタルの実は機嫌の悪さを吹き飛ばすくらいのお気に入りとなっている。さらにこのお陰でかなりの魔力の器を備えだしている。
「元気に育っておるのじゃ。まあ、そのうち大きくなるだろう」
そして、すっかりダリュエンナを母親だと思っているのか、顔を近づけるだけで嬉しそうに「アルエンニャ」と呼ばれメロメロだった。
ちなみに、ダリュエンナ達の喋る言葉は人のそれではなくドラゴン種の物。あるいは妖精族共通語が基本となっている。それでもティーシアは森エルフ語、他の種族も様々な言葉をアズターナに投げかけたりもしている。
ヒト種には喋るのも聞くのも難しい発音があるが、ここで育ったアズターナの話す言葉はまだ幼さに溢れているが、反応を見る限り聞く方はどの言語も問題なく聞きわけているようだった。
「ティーシアお姉ちゃんでちゅよ~」
毎日のように顔を出すのは森エルフのティーシアだ。
長寿の森エルフという事もあって子を産む間隔が異様に長い。二十代の子供は数人いても十代はティーシア以外はやんちゃな男の子ばかり。赤子に興味を示すのはティーシアしかいなかった。
それがあるからかティーシアは妹のようにアズターナを可愛がっている。
もちろん他の種族の少女達もティーシア同様にちょくちょく顔を出してはアズターナの様子を見に来ている。
アズターナが嬉しそうに「テシア、テシア」と喋るだけでティーシアは幸せ気持ちに包まれる。時には泣き出したり愚図ったりされて途方に暮れる事もあるが、それでもやっぱりアズターナの顔を見たくなってしまうのだ。
「やったぁ! アズターナがついにハイハイしだした!」
「なにぃ。それを初めて見るのは妾の役目ぞ」
ゆっくりではあっても確実に成長はしている。しばらく前には寝返りを打ち始めていた。
アズターナは両手を広げて自分を呼ぶダリュエンナとティーシアの方へと両手両足をグイグイと動かし前進し始めた。
さらに十年の月日が流れた。
少しずつ成長していくアズターナを見てダリュエンナは嬉しく思っていた。
それでも着実に成長しているし、元々ヒト種とは時間の流れが違う事もあって気にしなくなっていた。
体の成長具合と比べて頭の方はしっかりと成長している。
言語に関しては心配ない。
ドラゴン語だけでなくエルフ語、ドワーフ語等々。果てはダリュエンナでは発音の難しい獣人語までしっかりと使いこなして悔しい思いをする事もある。
ヒト種語はかなり面倒くさい。統一しようという考えがないのか地方地方で言葉が違う。それでも知っているヒト種語も教えている。
遊びから学ぶ事は多い。
今も一番仲の良いティーシアと一緒に近くの小川で水遊びをしている。
ゆくゆくは一人でも暮らしていけるようにと家事の手伝いもさせている。
そして遊びからではなく様々な事を本格的に教え始めていた。
様々な種族のところへ行かせて、個別に深く学ばせたりもしている。
全ての知識は繋がっているのだ。
例えドラゴン種にしか使えない力であっても、その意味を知る事は世界の真理に繋がっていく。
この森にヒト種はアズターナしかいない。
我が子同様に愛情を持って育ててきたのだ。ここで生涯を終えてくれると嬉しいと思いつつ、やがてはここを旅立つ時が来るだろう。
親バカかも知れないが、もしかしたらこの森の原始魔法を解くのはヒト種であるアズターナなのかも知れない、と感じている。
その時までに可能な限り多くの事を学ばせたいとダリュエンナは考えていた。
そしてさらに十年経った。
体を見る限りまだ子供だが、心はすっかり成長し安定し始めている。
ヒト種の成人は十五、六歳と聞いた事があったが、どうやら聞き間違えたようだとダリュエンナは考えていた。
ダリュエンナを始め、森の住民はヒト種の成長具合に詳しくないので、こんな物なのだろうと気にもしていなかった。
ダリュエンナは持っている知識と知恵を可能な限りアズターナに教えた。
家事も一人でできるようになった。
そして優しさと厳しさを兼ね備え、名前に負けない深紅の乙女に相応しい娘に育ってくれた。
「ねえ、ダリュエンナ様。私はどこへ行くんでしょうか?」
「そうじゃな。そろそろ気ままに旅をして見聞を広げてみても良いじゃろ」
「私がいなくなって寂しくない?」
「そもそも妾とアズターナでは生きる時間に違いがありすぎる。妾といるとおばあちゃんどころか死んでもおらねばならんぞ」
「不死の魔法も覚えたんだけど……」
「そこまでして生きて何の価値があるというのじゃ?」
「分かってる……。けど……」
ダリュエンナはすでに覚悟を決めいていた。
最近はこうした話題が度々出てくる。
二人とも別れの時は近いと感じているのだ。
「アズターナ。お前は妾の、ダリュエンナの娘として恥ずかしくない生き方をしなければならぬ」
「もちろんです」
「例えヒト種の中であっても、じゃ」
「!」
「ティーシアとも別れを済ますのじゃ。あれは森エルフ。エルフと違い森がなければ生きては行けぬ」
「でも……」
「ここで学んだ事。受けた恩。全てをアズターナの糧として、ヒト種の中で生きるのがお前の幸せに繋がるじゃろう」
アズターナはダリュエンナに抱きつき泣き出していた。
「お母さん……ありがとう……」
「あの小さかった赤子がここまで立派に成長してくれただけで妾は満足じゃ」