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one flesh  作者: 田森芝生
5/5

5「邂逅」

 うまく誘導して、無理やり体の関係まで持っていきたいものだ。

 エレベーターに入った瞬間、横山堅持はそんな事を考えた。

 あの若い事務員から送られた手紙には、『深夜に事務所で会いましょう』と書いてあった。ここの事務所を退社する前に、思わぬ幸運が舞い込んできたものだ。

 三階を押して、エレベーターのドアが閉まる。箱がゆっくりと浮上し、横山は汚らしい笑みを浮かべた。

 

 どこからともなく、ちん、と音がなると、エレベーターのドアが開いた。横山が箱から出てみると、事務所の中は真っ暗であった。

 踊り場のような場所から、受付の辺りを覗いてみる。本当に真っ暗で、誰もいないように見えた。

 少し薄気味悪い様な気分になって、キョロキョロと辺りを見回してみた。そこには、闇が広がるばかりである。


 そのまま、ゆっくりと受付の近くまで行ってみる。やはり、人の気配は無かった。

 ここまで来て、自分は騙されたのではないか、という感覚が横山の頭に浮かんでくる。あの女が、自分をただ馬鹿にするために、ここに呼んだ可能性である。あの時受け取った手紙には、この時間に事務所へ、と書いてあったのだ。


 若干の怒りを持って、受付を通り、オフィスに入る。当然、受付には誰もいない。



「こんなことがあっていいか」



 毒々しげにつぶやいてから、横山は思った。

 今まで色々女を騙したりしてきたが、騙されたことはない。これは挑戦か。

 横山が拳を握ろうとした瞬間。

 唐突に、女の声がした。



「こっちです、先生」



 脳が蒸発するようだった。なんと、妖艶な声なんだろうか。声のする方向を見れば、自分のほぼ左真横であった。

 例の事務員の女である。彼女はデスクの上に座っていた。この位置は、受付やエレベーターホールからは見えないのである。彼女がいないように見えた原因に、合点がいった。

 彼女はデスクの上から降りると、こちらに一歩近づいた。それだけで、その手はこちらに届くようになる。



「待ってたんですよ、先生」



 彼女の目は、それはそれは不気味なほど妖艶だった。吸い込まれそうな瞳を見つめるたび、徐々にこちらの思考が奪われるようだった。



「いらしてください」



 女はそう言うと、横山の腕の袖を掴み、少し引っ張った。

 

 と。

 

 エレベーターホールのほうから、カチン、という小さな金属音が聞こえてきたのは、その瞬間だった。

 直後、オフィスの奥の窓ガラスが砕け散った。それが起きたか、起きていないかも分からないような、瞬間の出来事だった。

 知っている者が見れば、それが銃撃だとすぐ分った。しかし、横山は事態を飲み込めない。

 

 すると、腕を引っ張られた。事務員の女だ。釣られて物陰に収まると、女の顔が見えた。


 あれ。


 この女は、こんな、冷ややかな表情を、浮かべていたっけ。


 瞬く間に、それは起きた。

 横山の左腕から鮮血が飛び出したのである。

 同時、言葉では形容できないようなおぞましい痛みが、左腕を襲う。

 横山の声帯が震え、声にならない音をたてた。空気の塊が、無理やり声帯を震わせるかのような、悲鳴である。

 息が切れると、今度は息吸うことが出来ない。喉の辺りで、空気が塞き止められて、呼吸が困難になる。たまらず、横山は体をよじって苦しみだす。

 同時、事務員が、横山の髪から手を離した。支えるものがなくなって、横山の体は重力に耐えられなくなる。体が地面にひきつけられる間、何とか体勢を整えようとして、オフィスのデスクの中のひとつに、背中からまともにぶつかる。

 背中に激痛が走り、肺にたまっていた空気が丸ごと吐き出される。荒く咳き込むと、その衝撃で、左腕がひどい痛みをあげた。

 

 唸り声を上げ、苦しみをあらわにしようとした時。

 

 横山は、それに気づいた。


 丁度、今まで自分がいた場所。受付の向こう側、小さなエレベーターホール付近である。


 何かが、こちらを見ていた。


 あまりにも暗くて、その存在を視認する事は出来なかった。それでも、何かがいることは理解できた。

 エレベーターホールの闇が牢獄であって、猛獣を閉じ込めているようだった。檻がギシギシと音を立て、中の猛獣が、ここを出せと嘶いているのだ。

 それはおそらく、こちらがもう死に体に近いと見て、ようやく気配を見せたのだろう

 闇の中で、何かが動く。暗闇が、その檻を開けたのだ。

 それは、ゆっくりと、こちらに向かって来る。




 オフィスの中に標的の男が入った瞬間、階段の陰から、俺は拳銃を構えた。

 男の後頭部を狙い、引き金に指をかける。

 しかし。

 引こうとした瞬間、男の重心が横にずれた。唐突なことである。まるで、闇の中に吸い込まれるようであった。

 それに気づいたが、しかし、狙いを定め直そうと考える神経より、引き金を引く指の方が先に動いた。

 サイレンサーで消音された小さな破裂音が銃から鳴る。当然、弾丸は当たらない。

 直後、オフィスの向こう側にある窓が四散した。

 一瞬、頭が真っ白になった。一般人の暗殺に、一発以上弾丸を使ったことが無かったからだ。

 改めて、銃を構えなおす。しかし、またもや、標的の男は奇妙な動きにでた。

 標的は、崩れるように物陰に突っ込んだのである。よく見えないが、引っ張られるような動きであった。



「隠れたつもりか」



 まるで丸出しの腕に目掛けて、俺は二発目を叩き込む。暗闇の中で、拳銃がガチンと音を立てた。

 今度は、的確に撃ち抜いたようだ。標的の男は、腕から真っ赤な血を噴き出しながら、まともに倒れる。そのまま机にドカンとぶつかると、咳き込んで苦しみだした。

 そんな光景を見るうち、俺は妙な違和感に苛まれていった。標的の男が苦しむ間、こちらからは見えない物陰をチラチラと見やるのである。


 よくよく考えれば、弾丸を二発も使って標的を殺せないのは、普段に比べ妙だ。何かが、標的を守っているのか。

 俺は、オフィス内に踏み込む事にした。銃を構えつつ、ゆっくりとオフィスに通じる、受付を目指す。誰がいたとしても、殺さなくてはならない。

 標的が、こちらを見て動きを止めた。それはそうだろう。こちらが、殺意を丸出しにしているのだから。

 標的の顔を睨みつけつつ、一歩ずつ歩いて行き、受付を抜け、オフィスに入る。


 瞬間であった。


 オフィスに入った途端、すぐ左横に、人の気配を感じたのである。極めて近い。

 倒れている男の事をほったらかして、俺は拳銃をその気配に向ける。同時に引き金を引こうとする。

 瞬間、人影はこんなことを口走った。



「やっと会えたわね」



 美しい女の声であった。その声が俺の耳を通り、頭の中で、今まで積み重ねられてきた記憶と重なる。

 声と記憶が融合した瞬間、その結果生まれたものが、俺が引き金を引こうとしている指を、がっちりと止めてしまった。引こうとしても、指が全く動かない。

 俺は、闇の中の人影をまじまじと見つめた。闇にも目が慣れてきて、その姿を鮮明とは言えなくても、見ることが出来た。


 女の子とでもいうのが正しいほど、可愛らしい女性だった。


 切りそろえた綺麗なショートの黒髪は、暗闇の中でも良く栄えた。大きな目をこちらに向けている。なんとなく、今までずっと聞いてきた声の持ち主として、適切な容姿に思えた。

 銃の引き金に指をかけたまま、俺はこう声を発した。自分でも、声に怒りと呆れの混ざった、変な感情が籠っているのが分かった。



「肱川。俺は会わないって言ったのに」


「あら、自己紹介無しで私が誰だか分かるのね」



 俺が引き金を引きしぼるような素振りを見せると、彼女は息を少し吐いて、こちらを茶化し返す様に笑って見せた。そのまま、こう続ける。



「あなたは私を撃てない」


「舐められたもんだな。試すか」


「やれるならどうぞ、止めないわ」



 平気な涼しい顔で、彼女はとんでもない事を口走る。

 俺は銃を少し出して、サイレンサーの先を、彼女の額に突きつける。それでも、彼女は動じない。澄んだ大きな瞳で、こちらを真っ直ぐに見つめてくる。

 やってやる。俺はそう、心の中で暗示をかけた。

 殺さなくてはいけないのだ。俺が愛した一人の世界を、この女は壊そうとしている。

 苦しみの上に建てられた安らぎの城。一人で全てを決められる、仲間などという綺麗事が存在しない、俺だけのユートピア。壊させてはならない。今すぐ、我が楽園の敵を殺すべきなのだ。


 そう、思ったのだが。


 意識と反対に、俺の腕はどんどん下へ下がっていった。引き金を、引けない。ついには、俺は拳銃を完全に下げてしまった。

 俺は目の前の美貌を睨みつけてから、毒々しげにこう続けた。



「殺されると、思わなかったのか」


「思わない。それが出来ないくらいには、たくさん話したんじゃない」


 

 そう言うと彼女は、右手の親指と小指だけを立てて、電話をかけるモノマネをした。その振る舞いを見て、俺は、さらに自分の顔が歪んでいくのを自分で理解した。



「時すでに遅しよ。樹クン。私の声、ずっと聞いてたでしょ」



 そう言うと彼女は、あーあーと発声練習の様に声を聞かせてくる。極めて、鬱陶しいものだ。



「鬱陶しい」


「……思考が漏れてるわ」



 彼女は目を細め、呆れた様子で俺を覗き込んだ。別に漫才をやっているわけではない。



「なんで接触してきたか、くらい教えろ」


「寂しくて来ちゃった……やめて撃たないでッ!!」



 ちょっと引き金を引く真似をしただけだ、悪気はない。

 俺は唇をヒクつかせる彼女に、本当の理由を言うように要求する。会わないという条件で契約したのだ。これは、契約違反にあたる。

 彼女はこちらを非難するような表情を見せて、おもむろにスーツのジャケットから、何枚かの折りたたまれた紙を取り出す。

 それを広げて重ねると、俺に手渡した。



「なんだこれ?」


「そこで転がってる男の家にあった、書類」


「はぁ」



 俺は興味なさそうに返事をすると、男のほうをチラリと見た。

 そういえば、俺は殺すべき標的がいるんだった。目の前に現れた女のせいで、見事に意識から消えていた。

 この男は、極めて不快だった。俺が少しでも動くたび、ビクビクと体を震わせて怖がるので、鳥肌が立つような生理的嫌悪に襲われた。

 無意識に、銃が男の方を向いた。躊躇わず引き金を引こうとした瞬間、予想外の反応を見せたのは、肱川であった。



「ちょ、何やってるの!」



 俺が引き金を引くコンマ一秒前、彼女の体当たりが俺の体制を崩す。指の動きが間に合って、なんとか発砲せずに食い止まる。

 俺は体勢を立て直してから、彼女の胸ぐらを引っ掴んだ。

 ここまでは、反射的な動作である。発砲を邪魔する存在と言うのはたいてい敵であり、それを無力化しなくてはならないからだ。俺は苛立ちを隠さず言った。



「人に干渉されるの好きじゃないんだよね」


「これを、読んでから言って」


 

 そうすると彼女は、さっきの紙の束をぴらぴらと動かして見せた。仕方なく、俺は奪うようにそれを取ると、目を通した。同時に彼女の胸ぐらから手を離す。

 どうやら、何かの取引の流れを書いた表らしい。



「なんだこの役に立たない書類は」


「よく読みなさいな、何枚か目に詳細が書いてあるでしょ?」



 紙をめくっていくと、金の流れに関する詳細が書かれていた。その先に、金の出処が書かれていて、目を細めた。



「これは」


「知ってる? これ、暴力団崩れの武装集団」



 書類には、極めて危険な組織の名前が記載されていた。暴力団の、銃器に卓越した人間ばかりを集めて結成された集団である。組織同士の暗殺や、国会議員から汚い仕事も請け負っていると聞く。



「どういうことだ。この横山って男が、武装集団に何か関係が」


「これからそれを尋問する。ほんとはあなたに尋問頼めれば良かったんだけど、あなた人と喋るの苦手でしょ」


「……それでお前、ここに」


 

 警官時代は人並み以上に尋問もできたが、人とのコミュニケーション方法が、今はよくわからなくなってしまっている。彼女にやらせた方が、ベターか。

 一理ある理論であったが、首を素直に縦に振ることは躊躇われた。今までの、積み上げてきた過去があったからである。他人の言うことで、自分のやる事を変更しても、良いものだろうか。

 それは、他人を信用して失敗した、過去の二の舞にならないだろうか。

 俺は、この弁護士を殺すためにここにいるのである。

 そんな俺を裏腹に、彼女はカツカツと歩いて行き、小太り弁護士の前にしゃがみこんだ。そのまま、首を可愛らしくかしげ、こう口にする。



「そういうわけで、武装集団と先生の関係、教えてくれる?」



 対して横山は、彼女は安全だと考えたのだろう。



「騙したなてめえ!」



 なんとも挑戦的に、彼女に食ってかかってる。おぉ、威勢がいいな。

 彼女は頬を膨らませて見せるが、こちらにしてみれば、全てに腹がたつものだ。状況が状況でなければ、さっさと帰る場面である。

 俺が銃のサイレンサー部分で、自分の足を軽く叩いて、一定のリズムを刻み始めると弁護士も萎縮した様である。

 小さな声で語り出した。



「俺はここを辞める。新しい弁護士事務所に、転勤することになったんだ。そこに勤めてる奴は、皆うまい儲け方を知ってる奴らだ」


 

 彼女はそれを聞いて、怪訝そうな表情を浮かべた。



「先生の新しい勤め先って、変な香りしかしないんだけど」


 

 弁護士は自嘲的に笑うと、少し体を震わせた。血液が少なくなって、寒気でもするのだろうか。警官時代はそういった講習は怠けて聞いていたので、実際にそんなことが起こりうるのかも分からないのだが。

 仕方がないので、俺は膝をついてハンカチを取り出し、それを、小太り弁護士の傷口に巻いてやる。話をしてる間に息を引き取られても問題だった。



「おお、悪いな」


「早く話さないと広げるぞ」


 

 弁護士の顔が引きつった。俺を苛立たせない配慮か、また話し出す。



「俺が転勤する、新しい弁護士事務所は、汚職で利益を上げるのがお家芸なんだ。俺は弁護士にしちゃあ結構犯罪やってるから、あそこの人に引き抜かれた」


「なんのための汚職?」


「警官に金を払って、犯罪の証拠を消してもらうんだ。それで弁護士たちは、裁判を有利に進める。犯罪の証拠のない裁判なんて、弁護士にとっちゃあ金のなる木みたいなもんだからな」



 俺たちは顔を見合わせた。予想以上に、小汚い方法を取っている奴らが相手のようである。



「何人くらいが汚職やってるの?」


「その事務所の全員」


「わぁお……。そんなうまくいくの?」


「へへへ、当然さ。証拠管理能力の不足を問われるから、警察は証拠が消えても表沙汰にできない」



 肱川は唇を歪めた。出てくる情報が、あまりにも薄汚いせいである。



「その警官ってのは?」


「新しい奴を雇うことにしたんだが、今回のは中々落ちてくれなくて困ってる」


 

 横山は広角を釣り上げ邪悪に笑った。



「結構、人間関係とかで悩んでる警官は多いからな。うまく誘惑すれば、簡単に協力者になってくれるんだが」


「人間のクズだな、お前ら」


 

 俺が鼻で笑うのと、尋問中の彼女と目が合うのは同時だった。



「さしずめ、汚職弁護士事務所とやらが、武装集団を用心棒として雇ってるってのが真相かしら」



 横山が頷く。同時に、肱川の表情が変わる。



「センセ、あなたの新しい弁護士事務所ってとこ、行ってみたいんだけど」


「……それを言ったら、俺の立場はおしまいだ」



 この期に及んで往生際が悪い。



「言わなきゃ立場どころか、ここで死ぬわよ」



 横山が渋面になりつつ、ゆっくり口を開いた。延命を望むのは正しい選択だ。

 彼女はメモを取り出し、その新しい弁護士事務所とやらの名前と住所を、横山に聞いた。サラサラとそれを書き写し、ポケットにしまう。横から覗き込んだ限りでは、赤熊弁護士事務所という名らしい。


 そこまで聞いてから、何となくの沈黙がオフィスを包み込んだ。お互い言いたいことを言って、はっきり言ってしまえば、俺たちはこの男に用がなくなったわけである。

 俺は少し首を傾けて、肩の疲れをほぐした。そのまま、拳銃を弁護士の額に押し付ける。

 小太りの弁護士は、何が起きているのか全くわからない、といった顔をした。その気持ちは理解できた。

 しかしながら、協力しただけで生きていられると思うならば、少しばかり虫が良すぎると言える。

 彼女も、俺を止めようとしなかった。そうされるべきと、知っているからである。


 余裕を持って引き金を引くと、弁護士は、とても、とても静かになった。





「なぁ」



 どうしても聞きたいことがあって、俺は肱川を覗き込んだ。



「お前、どこで技術を学んだんだ」


「技術?」


「だから、尋問とか、潜入捜査とか」


「あぁ、それね」



 肱川は転がっている横山の死体から離れて、オチがついたとでもいうように、肩をすくめて見せた。



「父親が警察官だったから」


「へぇ……。知らなかった。部署は?」


「公安」



 なるほど、手馴れているわけだな。

 俺は手で少し合図した。

 それだけで、彼女は全てを察する。そろそろ、ここを出なくては行けない。長居は禁物である。

 俺達二人は足早に受付を抜けて、エレベーターに乗り込む。一階のボタンを押してドアが閉まると、エレベーターの箱の中を沈黙が包んだ。

 破ったのは俺である。自分から話をふるのは珍しいと、自分でも思う。



「今までも、父親のノウハウで仕事をやっつけてきたのか」


「そうね。ゼロから戸籍を作ったりとかするの得意だし」


 

 すると何が嬉しいのか、肱川はニヤついて、



「結構自分から喋りかけてくれるんだね、樹クン。電話してる時の印象と違う」


 

 対して俺は、苦笑いをしたくて仕方がなかった。肱川の前では、いつも調子を崩される。



「暇つぶしだ、暇つぶし」



 エレベーターに乗る時間など長くもない。ちん、と音がして、エレベーターが止まる。ドアが開き、俺達は箱から降りる。



「これから、どうするんだ」


「武装組織を追う。あと、汚職警官が無害か有害か確かめる」



 やっぱり、そう来たか。この女、悪には鉄槌を下さずにいられないらしい。



「そう、か。汚職警官のほう、手がかりはあるのか」


「赤熊弁護士事務所ってとこ行ってみれば、分かるでしょ」


 

 二人でビルの出口を出ると、さっきまでのねっとりとした空気が嘘のように静かだった。

 向かいの店もこの深夜じゃ当然閉まっているし、その他の立ち並ぶオフィスビルにも、明かりの気配はない。

 空気は重いが、さっきの血まみれのオフィスに比べれば、外の空気はいかんせんマシと言えた。

 冷たい空気を吸ってから、俺はもう一度、月で薄く光る、肱川の横顔を眺めた。やはり言いようのない不安に襲われる。

 なぜ、彼女は仕事をするのだろう。こんなにも若く、まだ少女といえるような外見で。何を求めて、仕事をするのか。

 彼女は、俺への給料も出してくれる。公安警察官が父親だからといって、人を一人養えるだけの資金力が持てるわけでもないだろう。

 謎が多い、女性である。

 俺の顔は変に歪んでいただろうが、肱川は、何があったかなという涼しい顔。



「ねぇ、お願いがあるんだけど」


「なんだ」



 彼女はこちらを真っ直ぐに見つめると、



「私のボディーガードになって」


「……は?」



 この女はいきなり何を言っているんだ。

 肱川は腕時計を覗き込んだ。ちらりと見れば、すでに一時である。日をまたいでしまった。

 肱川はこちらに向き直った。



「今日の十二時、例の弁護士事務所に行ってみる。その時に、隣にいてほしい」



 俺は、息を吐いた。

 なんとなく、ここは超えてはいけない境界なのだと思った。

 今までも、俺は一人を選んできた。ここで主張を、変えてはならない。



「電話でも言っただろ。お互いがお互いの専門分野だけやってた方が、良い結果が出る。一緒にいない方がいい」



 俺が最後まで言い終わると同時に肱川は一歩こちらに近づいた。



「あの弁護士事務所、雇われた武装集団の連中がわんさかいると思う。あなたの力が必要よ」



 抵抗を続けたくて、俺はその要求に頑なに首を横に振ったが、肱川も、同じく頑なである。

 本来なら駄目だという場面だ。やっぱ、肱川といると調子を崩される。



「……気が、向けば。多分向かないけど」


 肱川は噛みしめるように小さく、「やった」と囁き、頬をすこし赤く染めた。待て、まだ行くとは言ってないぞ。気の早い奴だな。

俺は心の中で毒づかざるを得なかった。

 これは、他人との距離が縮まった証拠である。

 肱川に感謝はしている。しかし、その人格の裏は分からない。それに怯えながら行動しなくてはならない。楽なことではないだろう。

 お互い何も言わず、離れていった。肱川の後ろ姿は変に自信があって、まるで俺が待ち合わせ場所に行かないことなど、頭の中に無いようである。


俺も自らの帰路を急ぎ、闇に中に消える。この後に起こるだろう事を、しばらく忘れたかったからだ。


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