4「仕事」
電話を切ってからしばらくは、もの悲しい気分が続く。
私はデスクの上にスマートフォンを放り出した。そのまま上を見上げ、蛍光灯の光が目に入る。まぶしい。
今いるオフィスを見回してみれば、せかせかと働く人々ばかりである。
私と同じように書類を整理する事務の女性もいれば、どこかに電話をする弁護士の男性、受付付近で肩ひじをつき、空を見上げる受付嬢もいる。
孤独だなぁ。と、感想を漏らすくらいには、私の周りに人は集まらない。
私はあらゆる場所に潜入し、情報を集める。一つの場所での仕事が終われば、また別の場所に移動する。だから、必然的に交友関係は少なかった。
いつでも体のどこかに、孤独が引っ掛かっていて。それが、快い流れをいつでも塞き止める。
オフィスの席に座ったまま待つ。すると、エレベーターが階に到着する、ちん、という音がした。ターゲットの登場だ。
受付の向こうの自動ドアが開き、小太りの男性がオフィスに入ってくる。彼がオフィスに入ると同時、数人が彼に向けて挨拶をしたりしている。
横山堅持である。私は席に座りなおすと、彼の事を注意深く眺めた。運動不足なのか知らないが、腹が出ている。背広の調達には苦労したでしょうね。
彼を殺すための下準備が、私の仕事だった。
雑談をしている小太りのことをぼんやりと覗きながら、どうやって彼から情報を盗むかと言うことを考える。
基礎的なことは調べた。交友関係や、行動パターンは頭に入っている。残るは、家の捜索だ。
彼が留守の間に家の中を捜索するしかない。
小太りが私の後ろを通り過ぎて行ったので、私はゆっくりと席を立った。小太りの後ろを歩き、彼の背中に、どんとぶつかっていく。
いかにも突然の出来事だったという程で、私は床に倒れこんだ。小太りがこちらを振り返ると同時、スタッフの何人かがケラケラ笑った。
いい滑り出しである。
「いたたた……、すいません」
「びっくりした、えっと、大丈夫?」
横山はこちらに、手を差し出した。私はそれを握って立ち上がると、礼を言った。
「ありますがとうございます、先生」
その時、小太りの手をしっかりと握ってやる。
今でこそ紳士ぶっているが、二週間のリサーチで、彼が援助交際の常習犯であることは知っている。分かりやすいアプローチが有効だ。
「な、何か用があったのかな」
「はい、実は先生に渡したいものがありまして」
私はスーツのジャケットのポケットから、小ぶりの封筒を取り出し、彼に手渡す。
「これは」
「なんだと、思いますか」
そう言いながら、私は手を組み、下腹のあたりでその手を動かしてみる。
小太りの体温が上がっていくのが手に取るように分かった。なんとチョロいんだ。手綱は結構、簡単に付けられる。
私は目線を上げて、まっすぐに横山を見つめてみる。
そして、人差し指を自分の唇に当てた。
「後で読んで下さい」
秘密ですよ、と私が囁くと同時、小太りが分かりやすく何度も頷いた。
楽勝か。
私は小さく鼻で笑った。
彼が去った後、私は手の中で、金属片をクルクルと回し、踊らせてみた。
すった、鍵である。どこにしまうかも調べてあったし、極めて簡単に奪うことが出来た。
とにかくこれで、横山の家に侵入して、情報は手に入れることができる。
まぁ、自分から仲良くなれる相手が、これから死ぬ人間ってのは救われないけれど。
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自分の意識も覚醒していたので、壁掛け時計を見てみる。時刻は夜の七時を回ったあたりだ。夜である。カーテンからも、街灯の明かりが少し、差し込んでいる程である。
思っていたよりも時間がたった。二時間三時間のつもりがさらに多く、睡眠に費やしたようだ。
窓から差し込む街灯の光を避けるように、ベッドから立ち上がる。ガラス製ちゃぶ台の上の携帯を無視して、そのまま軽く背を伸ばした。
そろそろ、約束の時間だ。
ベッドの下から、大きな布袋を取り出す。
開けて、中身を見ていった。拳銃に、サブマシンガン、といった武器がごったに入れてある。
俺は拳銃をベルトにさして、予備のマガジン数個、ポケットに入れる。そのまま、アパートを出た。
俺は街の中を歩く。。ふと、周囲を見回してみる。多くの人々は会社から家に帰る時間帯だろうか。
先程よりも、空の黒さは純度を増していた。丁度、暗殺に適した時間が訪れる。
「ここか……」
夜の中に、一つのビルが浮かび上がった。肱川が言っていた、弁護士事務所のあるビルである。すでに、すべての電気が消えていた。勤務時間はもう終了したのだろう。
指定された暗殺の時間まで、かなり時間がある。対象は中にいない可能性が高い。肱川のメールによれば、彼女がここに、 横山という男をおびき出す手はずらしい。
時を見計らって、暗殺対象がビルの中に入っていった瞬間、拳銃を持って突入する計画だ。
俺は踵を返すと、ビルの前から離れていって、横断歩道を渡る。しばらく歩いて、喫茶店に入った。時間潰しである。
弁護士事務所から、五百メートルは離れている。誰かに感づかれる可能性はない。
俺は窓際の席に座ると、歩いてきた店員に適当に注文をしてから、やることもないので、ただひたすらに雑踏を眺める。
そうしているうちに、今日経験したことの疲れがどっと押し寄せてくる。
人と喋りすぎた、今日は。
一人で全てをやると心に決め、そうやって生きてきた。別にそれは他人の力を借りないと言うわけではないけど。ただ、他人との間に関係性が生まれてしまうことに、俺は疲れるんだ。
肱川はちょくちょく電話をかけてくるのだが、大して気にすることはなかった。他人と話す機会がその電話だけであったし、しょうもない事を早く終わらせるためと考えれば、我慢ができた。
第一、あんな謎だらけの女と喋ってて、何が楽しい。
簡単に戸籍をごまかし、あらゆる所に潜入する。個人の出来る限界を超えた働きを常に見せる。おまけに、俺に対して給料も出している。何者なんだろうか。
依頼は受けるが、あまり深入りしたくはない人物だ。実際、あまり深入りはしてこなかった。
その証拠に俺は、彼女が仕事をする理由さえ知らない。
不思議に思うかな。雇い主が、経営の目的を明かさない職場なんて。
でも、俺はそれが心地よかった。だって、ただ自分の仕事だけやれば良いんだ。他人の想いとかを面倒臭がる俺には、最適の職だったわけ。
これだけ深入りしない関係なんだ。今日の長電話は異常だったね。
さらに今日は、この性格を作り上げる原因となった、元上司との邂逅があった。人生史上、最大級の汚点だ。厄日である。
「疲れた……」
それに反抗する、部下の女とも話した。もうあのニヒリストの名前も忘れそうだが、無駄な時間であっただろうことは確かだ。
店員がやってきて、俺に冷たいコーヒーを渡した。俺は何も言わずに、それを受け取る。それを飲み干すと、少し力が湧いてくるような気がするものである。
あまりにも疲れていたのか、俺は三時間もその場で座ったままでいた。そろそろ閉店ですよ、と定員に呼ばれて、ようやくそれに気づく。
腕時計を見てみれば、まだ十時三十分である。暗殺の時間まであとわずかに時間がある。
普段だったら、こんな危険極まりないことはしない。時間の直前にさっと出て行って、通りすがるように殺し、去る。その場にとどまり、時間を待つなんて事はしない。今日は色々狂わされた。
俺は席を立った。そのまま、出口を出て、雑踏に紛れ込む。人ごみの中で、自分だけが異質な空気を醸し出さないように、同化に専念する。
弁護士事務所の前を三回ほど巡回した時に、ちょうどその男が現れた。小太りな図体に、変な薄笑いが見て取れた。女でも待たせているのだろうか。
もしそうだとしたら、『殺す環境をセットアップする』という仕事を完遂していないことになるぞ、肱川は。俺は、そこにいる人間は全員殺す。例え関係ない人間であっても。
男性が事務所の中に入るのを見て、俺も、雑踏をゆっくりと外れる。
周囲に、最も気を払う。歩道に隣接する店、人ごみの中、多く並び立つビルの窓。自分を監視する人間の目がないか、即座に判断する。
ゆっくりと弁護士事務所の中に入ると、小さいエレベーターホールがあった。階を示す光は、三階で止まる。
それをしばらく眺め、ブラフでないことを確認する。それから、エレベーターホールの横に隣接している、真っ暗な階段を登っていく。細い階段であった。人が二人、並んで歩けるかどうかという細さだ。
最高に気分が高揚する瞬間である。自分だけで物事に決着をつける。全ての段取りが整い、それをやる前の、たまらない興奮だ。
俺は、腰に差してあったオートマチックの拳銃を抜いた。音を立てぬよう、静かにコッキング。サイレンサーを、くるくると回し、拳銃に取り付けた。
細い階段を登るたび、背後から差し込む街灯の光が、遠退いていく。階段の先が、どんどん暗くなっていく。