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one flesh  作者: 田森芝生
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2「過去」

 霞ヶ関あたりを歩いていてまず目を見張るのは、なんと言ってもあらゆる省庁が集中して存在していることだ。財務省にしろ、経済産業省にしろ、そして、忌むべき警視庁にしろ。

 何よりも不便なのは、警視庁のすぐ近くにさっきのカウンセリング医院があることだ。

 まぁ、元警官向けのカウンセリングなんだから、警視庁の近くにあることは不思議じゃないけど。しかし、俺のようにこの建物の中で泥を舐めた人間としては、この立地はたまらなく不愉快だった。来るたびにこの建物を見るとなれば、俺もカウンセリングを反故にしがちになる。


 極めて不快な思いをしながら、曇天模様の桜田通り、その歩道を歩く。

 かなり広い道路の、歩道だ。十月とあって大きく立っている幾本かの街路樹も、その細く見える枝をさらしつつある。横に望む警視庁の建物が、また来たのかとでも言っているような気がして、背に鳥肌が立った。

 多くの制服警官がいるのは当然のこと、さらに多数の背広の人間が歩道を歩いている。このなかの、いったいどれくらいが警察官なのだろう。腕時計を確認してみれば、まだ一時を少し過ぎた時間帯だった。たいていの場合、昼飯をすまして今から戻ると言う連中だろう。

 さて、足早に通り過ぎようか。


 と。


 嫌な声が聞こえてきたのは、そんな時だった。



「あれ? 切谷どうしたの、寂しくなっちゃった?」



 いやな予感が走ると共に、喉が干上がった。この世で一番聞きたくない、金属をこするようないやな男の声が後ろから聞こえた。

 俺が振り返らなかったので、俺の肩に手がかかった。気持ちの悪い手つきで肩を撫でてくるから、俺はそれを手荒くはらってどける。

 俺がうつむいたままいると、どうやら声の主は俺の前まで回ってきたようである。



「やっぱり切谷じゃん、ハハハ。やっぱ俺にいじめられたいドMちゃんか、オマエ」



 山下櫛雄警部補である。俺が警視庁の刑事だった時は、上司だった人間である。そして、俺が警察官を辞めた、直接の原因だ。俺はこいつから、パワハラを受け続けたのだ。

 自分の拳が今にも目の前の男をぶん殴りそうだった。この言葉が相手を傷つけるようにと願い、言葉だけを返す。



「なんでいるんだクソ野郎」



 対して、山下櫛雄の反応は極めて侮辱的なものだった。彼は俺の言葉を聴いたとたん、手を叩いて笑い出した。しばらく笑いこけていたが、それがひとしきり収まると、唐突に声が低くなる。トレンチコートのすそをヒラヒラさせながら、彼はこちらに近づいてきた。



「テメェ警察辞めたとたんに随分偉くなったな、昔の上司をクソ野郎呼ばわりか」


「だれのせいで俺が警察辞めたと思ってんだ」


「おうおう、そんなこと言えるようになったのか。回復したなぁ。警察辞める直前なんて、今にも死にそうな顔してたのに。俺の顔見た瞬間に、ごめんなさいなんて謝ってたもんな」



 我慢の限界だった。たとえ刑務所に入れられても、この場でこの男を殴り殺しておかなくては、気が収まらない。

 俺はすばやく上半身をひねった。そのまま拳を握り、山下櫛雄を鼻面めがけて打撃を叩き込む。

 対して山下櫛雄がとった行動は、いたってシンプルであった。予備動作無く、左手を前に掲げる。それだけで、俺の拳はそこにすいこまれ、勢いを失ってしまう。しかし、そこまでは想定済みだった。問題はここからである。

 左手で、そのまま打撃を顔に打ち込む。そうすれば、この憎たらしい恨みを晴らすことが出来る。

 そう思って、もう手が出始め、足を踏み込んだ瞬間。

 山下櫛雄の肩越しに、彼の部下たち、すなわち俺の元同僚たちが、こちらを不思議そうに見ているのに気づいた。

 

 男女合わせて計四人と、ニヒルな表情をした、二十代の女性の、計五人。彼女はおそらく新入りだろう、俺が警察を辞めた時にはいなかった顔だ。

 山下櫛雄が昔、言った台詞が、頭の中を木霊していた。『切谷が反抗すれば、お前の同僚をお前のように痛めつける』と彼は言ったのだ。狂気の沙汰である。俺の同僚と言うのはつまり、山下櫛雄にとって見れば部下に当たるのだ。それを、彼は痛めつけると言っている。


 そのころの俺は今とは幾分違って、仲間と言う存在に少しの幻想を抱いていた。それは多分、温かくて、優しくて、時には自分の傷に気づいて、優しい言葉をかけてくれる。そういう存在だと思っていたのだ。だから、俺はそれを誰にも公言しなかった。

 だが、同僚四人は、俺を見捨てた。俺は、裏切られた。

 つまり、そういうことである。たとえ、昔の同僚が傷ついても、俺には関係が無い。ここで俺が暴れれば、後で奴は、俺の元同僚たちに暴力を振るい始めるかもしれない。それでも、俺は気にしない。


 そう、決めているはずなのに。


 なぜか、俺の拳からは力が抜けていった。ほとんど、無抵抗になる。

 瞬間、山下櫛雄の手が薙がれた。俺の腹部を、強烈な鈍痛が襲う。たまらず俺は、腹を抱えて、ひざを折る。おそらく、ここの歩道を歩く皆、山下櫛雄が俺の腹を殴ったとは思わないだろう。それ程、極めてコンパクトな一撃であった。

 俺が地面に膝をつくと同時、彼は、笑いながらその場を後にした。

 奴が去っていく気配を感じながら、俺は地面を憎々しげに見つめた。



「ちくしょう……」



 冷たい地面に手をついて立ち上がると、俺は体を引きずりながら、歩道の端へ移動した。車道に近い方の端であったが、別に車にひかれて死にたいわけではない。できる限り、奴から距離を取りたかっただけである。何しろ警視庁の目と鼻の先であるから、地面にずっと突っ伏していれば、いかに異色といっても警官が声をかけに来るだろう。元警官が警官に気を使われたらかなわないだろ。


 顔を上げると、元同僚たちが山下櫛雄を追っていくのがわかった。知ってはいたが、これがまた精神に悪い意味で効いた。誰のためにこんな役を買って出たかを考えれば、もう、泣きたいくらいだ



「同情するよ、あんた。元警官かい?」



 ついに、声をかけられちまったか。さっさと退散しよう。

 と、顔を上げれば、さっきのニヒルな感じの女性警官じゃないか。

 やけに親近感を覚える雰囲気をたたえながら、彼女は腕を組んだ。この時期にもかかわらず、女性用のスーツしか着ていない。



「寒くないのか」


「あんた、質問に質問で返す癖でもあるのか。嫌われるよ」



 俺が少しばかりふてくされて黙ると、彼女は気だるげな目を細めて、手を自分の首の後ろに当てた。眺めの栗色の髪がふさっと揺れる。



「人とうまくやってくのが、苦手なんだよ俺は」


「なるほどね、警部補があんたを嫌うわけだ」


「わかるのか」


「当然。山下櫛雄は基本的に全体主義者だからさ。自分のグループのためにならない奴は、早めに処分したいって性格してる」


「正しいな」


「あんたどうせ、山下のカンに触ったんだろ? あの警部補さんは輪を、というか、自分の班の一体感みたいな物を邪魔されるのが嫌なんだ。見たところ、あんたは山下の格好の獲物ってわけだな」


 聞きたくもねぇ話。

 彼女はおもむろにタバコのケースを出すと、右手だけで一本器用に引き抜き、口にくわえた。



「吸うかい」


「貰う。しばらく吸ってなかったんだ」



 差し出されたタバコのケースから一本抜き取ると、彼女はいいタイミングでライターをかざしてくれる。その後、彼女は自分のタバコにも火をつけ、吸う。同時に吐き出された煙が、上とも下ともつかない所から噴き出した風によって、波のように揺れては消える。



「昔、つっても二年前位だが、酒とセットでタバコまみれの生活だったんだ。ストレスでな。久々に吸ったよ」



 彼女は気だるげな視線をこちらによこした。通りを歩く人も、少なくなっている。



「辞めてたのかい、タバコ」


「カウンセラーの爺さんにしつこく言われて」


「へぇ、そう言われると、そうとう酷かったように聞こえるが」


「まぁ、そうだな。笑ってくれ。退職の理由が人間関係のトラブルじゃ自慢もできない」


「いや、全く分かんないってわけじゃないよ。あんたの気持ち」


「どうだか」



 俺は何の気なしに腕時計を見た。警官の皆さんは、そろそろ午後の勤務を始める時間帯だろう。



「いいのか、時間みたいだぞ」



 気だるげな表情の女刑事は、タバコを吸い終わるとそれを地面に投げ捨てた。警官がタバコのポイ捨てとは、大したものである。

 彼女はそのままスーツのポケットに両手を突っ込むと、靴でもってタバコを踏み消し、その火を消した。



「別にちょっと遅れるくらい、いいじゃないか」



 彼女は目を細めると、大きなため息をついた。言葉の意味を図りかねて、俺は恐る恐る口にする。



「だって、お前、山下の班のメンバーなんだろ」


「そうだけど」


「だったらなんで。あいつは、班の規律を守らない奴にはどんなことをするかわからないって、知ってるだろ」


「だから言ったろ、あたしはあんたの気持ちが、全く分かんないわけじゃない」



 歩道を歩く人の数も減って、二人だけが道の端に取り残されていた。俺は警視庁の建物を見上げ、そのまま空を見上げた。

 十月の弱い太陽の光は、曇天の空模様に邪魔されて、射さない。



「上司から暴力を受けたい趣味があるとか?」


「馬鹿言わないでよ」



 女性刑事は今日はじめての笑顔を見せた。シニカルな笑いだが、こうやって見てみるとかなり綺麗な顔をしている。



「そんなわけあるか。あたしは型にはまりたくないだけ」



 彼女はポケットから両手を出すと、ゆっくりと腕を組んだ。タバコをもう一本吸うか悩んでいるのか、あごを動かして噛むまねをしている。



「だから、無理やりのルールを押し付けてくる山下が大嫌いだ。だからこうやって、抵抗してる」



 時計は既に、定刻を大きく過ぎている。あの共同体主義者のことを考えると、目の前の女性刑事のことが心配になってくる。



「山下に、何か悪いことをされたことは?」



 女性刑事はまた、皮肉っぽい笑顔を見せた。



「殴られたことはあるよ」



 俺は顔が引きつる思いだった。同時に、この女性刑事がなぜ、虐げられる環境に甘んじているのかに興味を惹かれた。



「怖くないのか」



 この辺りの話をし始めたあたりで、彼女はもう一本タバコを吸うことに決めたようだった。

 彼女は歯の間にタバコを挟みすこしくぐもった声でこう言った。



「あたしはね、少なくとも怖くはないよ。いざとなったら、殺してやるくらいの気概でやってる」


「なんで気丈でいられる」



 彼女はまたライターをとりだして、タバコの先に火をつける。通る通行人が、迷惑そうにその煙を払って、俺達の目の前を歩く。



「あたしは気丈じゃないよ。窮屈さを、色々なことで紛らわそうとしているだけ。それがあんたの目には、気丈に写っているだけだろ。窮屈だよ」


 

 なるほど。さっき感じた親近感の正体は、これか。俺と同じで、人間関係の苦痛を味わってる。気持ちは、痛いほど分かる。



「あんたは、警官辞めても幸なさそうな顔してるな。何かしら克服できたって顔じゃないね」


 

 さっきも言われたことだった。なんなんだ、一体。皆して、俺の何が分かるっていうんだ。

 こちらの怒気を感じて、女性刑事の顔が引きつった。



「悪いね、気に触ったか」


「付き合いの長いクソジジイにも同じこと言われた」


「へぇ。その爺さんとやら、正しいかもよ」



 お互いが、しばらく黙った。俺たちは、お互いの存在に、興味を引く何かを見出せなくなってきているようである。



「そういえば、自己紹介してなかったな。切谷樹だ」


「あたしは、秋倉波香。用があるときは、来な」


 

 タイミングを合わせる事もなく、二人が同時に、別の方向に歩き出す。俺は帰路へ、彼女は職場へ。ここからまた、別々の人生が始まる。

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