Girl's Side 1 ~自己紹介~
皆誰しも人間ならコンプレックスはあると思うけれど、ボクの場合はまず若干読み辛いこの苗字がコンプレックスだ。その字面から小学生の頃は散々からかわれたものだった。年齢が上がるにつれてそういった冷やかしは徐々になりを潜めていったけれど、潜めていっただけで無くなったわけではないと思う。そういった被害妄想じみた思い込みこそをコンプレックスと呼ぶのだろうと知っているつもりだけれど、それでもそれを払拭するのはボクにとっては簡単なことではない。そこまで複雑な話でもないだろうに。
壇上では松島さんの自己紹介が済み、これでこのクラスの9割方の生徒が自己紹介を終えたことになる。次は、ボクの番だ。まばらな拍手に包まれて松島さんが席に戻ると、担任の先生は手元の名簿に目を落とした。
「次は----」
「あ、はい」
間延びした担任の声に、これはダメだと一瞬で見切りをつけて席を立つ。
実際のところ、どうなのだろう?さっき自分では“若干”読み辛いと言ったけど、これまでにこの苗字をちゃんと読めた人は片手で数えられるだけしかいない。いくら県内きっての進学校といえど、この教室にいる自分を含めて40人の生徒はつい数日前まで中学生だったのだ。ただでさえまだまだ少ない人生経験の、その1割から2割を受験勉強に費やしてきた生徒が大半と思われるこのクラスの中には、そんな難読人名に通じる人などいないのではないだろうか?
教卓に向かう道すがら、ボクは心を決める。
向き合おう。そして、決別しよう。このコンプレックスと。
教壇に上がるとクラスメイトの方には目もくれず、チョークを手に取った。躊躇いを振り切るように黒板にチョークを走らせる。少し不恰好な漢字が3つ並ぶ。書き殴った漢字は、
男 女 川
の3つ。多少字体のバランスが悪くてもどれも小学1年生が習うレベルの漢字だ。これを読めないような人はこの教室内にいるはずがない。
「男と女とを合わせれば“皆”で“みなのがわ”です。よろしくお願いします」
深々と下げた頭に、興味なさげな、乾いた拍手が降り注ぐ。
こうして。取敢えずは、“男女”等と野次られることもなく、ボクの高校生活は静かに幕を開けた。
どこにでも特記すべき人物というものはいるもので、ボクらのクラスで言えばそれはまず間違いなく八十島さんに当たる。
出席番号37番。入学式で新入生代表として挨拶をそつなくこなしてみせた彼女は、端的に言って美人だった。単に可愛いだとか、キレイだとかの形容詞の一語で済まされるような代物ではなかった。かと言って、才色兼備だとか、容姿端麗だとかいった四字熟語を持ち出してきたところで、それでも到底足りる気がしない。まずその身に纏った空気からして、ボクら一般人とは一線を画している。畏れ多くて、近寄りがたい。でも、目を引かれ、心を惹かれてしまう。
ボクと入れ違いで教壇へと向かう彼女を、ヒソヒソ声が包んだ。
彼女にまつわる話はボクも既に幾つか小耳に挟んでいる。スポーツも万能だとか、実家が結構な資産家だとか、面倒見がいいとか。聞けば聞くほど、隙がない。陰で完璧超人と囁かれるのにも納得だ。
壇上で回れ右をした八十島さんの黒い長髪がふわりと舞う。みんな、思わず息を呑んでしまったのだろう。ヒソヒソ話がぱったりと止む。
「八十島です。よろしくお願いします」
よく通る、凛と張った声で手短に述べ、軽く頭を下げると八十島さんはそのまま席に戻ってしまった。あまりの隙の無さに皆拍手を送ることもできない。先生だって八十島さんが着席した後もしばらくは呆然としていた。結局教室中を包んだ沈黙は、由良さんが引いた椅子の音で破られるまで続いた。
八十島さんの自己紹介で全部洗い流されてしまった感が否めない。ボクの一大決心を乗せた自己紹介も、もう既に39人のクラスメイトの心の中には残っていないだろう。あれが成功だったのかどうなのか、判断が着かないあたり、僕の心には少なからずしこりが残っている。野次られなかったということは当初の目的を幾らか達せられているとも言えるかもしれない。でも、やっぱり何だか失敗だった気がしてならない。思い返せば返すほど、勇み足と言うか、出しゃばりだった気がする。もっと何かこう、冷静にやれたんじゃないのか?皆の反応がないのは呆れ果てているんじゃないか?そんな考えばかりが頭の中をぐるぐると巡り巡って、恥ずかしさで頬が熱くなる。クラスの皆の中で、なかったことになっているならそれでいいのだけれど。
ただ、一つだけ確実に失敗だったことがある。黒板は消しておくべきだった。