魔王 が 現れた! 004
(優しい人だったなぁ……)
自分にもし兄がいたらあんな感じの人がいいな、などと考えながら、レンの去った方に視線を向けていたユキの物思いはすぐに破られた。
「ユキ様、お手数ですがわたくしを抱き抱えてくださいませんか?」
その声に我に返ったユキがはっとして視線を下ろせば、アリスがこちらを見上げている。
「あ、はい。わかりました」
言われるがまま、しゃがみこんでアリスの腰あたりを両手で掴んで抱き上げる。
アリスの体は予想以上に軽かった。
サイズからして持ち上げられないほど重いとは思ってなかったものの、きちんと持ち上げられてユキは内心でほっとした。
「できれば、正面が見えるように抱えていただきたいですわ。それと、しもべである私に敬語は不要ですから普通に話してくださいな」
「し、しもべ……?」
自ら卑賤な立場を名乗り、目下の待遇を要求するアリスに、ユキは目を白黒させながらも言われたとおりアリスが前を向くような姿勢で懐に抱きかかえる。
「ありがとうございます。とりあえずこうしていればわたくしの防御結界の範囲にユキ様も含まれますから、突然攻撃を受けても大事には至りませんわ」
「そ、そうなんだ……。なんだか凄いんだね」
しもべ云々の発言はともかく、普通に話して欲しいという希望は受け入れることにしたユキは、アリスの言葉の意味を咀嚼しきれていないままとりあえず相槌を打った。
しかしもう少し突っ込んだ反応を期待していたアリスは肩透かしを食らったようで、やや不満げな表情を浮かべた。
とはいえ目くじらを立てるようなことでもないので、アリスは別の話題を振ることにした。
「ところでユキ様はどちらへ向かわれるおつもりですの?」
「あ、うん。ええと……」
実は行き先を決めてなかった。などとは正直に言えず、ユキは考え込んだ。
無論、当初の目的であった知人の高レベルプレイヤーに庇護を依頼する、という選択はある。
だが、レンたちと出会ってしまったことでその動機がぼやけてしまったのだった。
もとより迂闊に頼ったが最後、後で何を要求されるかわかったものではない知人に庇護を願い出るのは気が進まなかったのだ。
それでも命を失うよりはまし、背に腹は代えられない、という判断による苦汁の選択であったのだが……。
進路を今更悩ませているのは、両腕にかかる心地よい重みが原因だ。
(ひょっとして、いけすかないあの人より、アリスちゃんの方が頼りになるんじゃ……?)
いけすかないあの人、というのは、レンのことではなくて最前頼ろうと考えていた知人のことだ。
知人の為人を知るはずもないレンの手前、身を寄せるのは迷惑がかかるかもしれない、などと綺麗ごとめいた話をしたが、本音を明かせば単にその知人を忌諱する気持ちの裏返しである。
誰かに意思表明していたわけではないとはいえ、好都合に状況が変わったからと方針をあっさり覆すのは軽々しすぎるというか、現金なようで気が咎めたが、不幸中の幸いで巡りあえた縁に頼ることのどこが悪いのだろう、と思い切る。
「ね……アリスちゃん。こんなことを訊ねるのはもしかしたらマナー違反なのかもしれないけれど、もし良ければレベルがどれくらいなのか聞いてもいい?」
「80ですわ」
「はち、じゅう……!?」
知人を頼るべきかの判断において、指標になればと思い、気が引けたものの思い切って質問したユキ。
これからどうするのかという先ほどの問いかけを放置された形だが、特に機嫌を損ねたふうでもなく、アリスは何でもないことかのようにあっさりと答えた。
(ティアちゃんの非常識なレベルからしてアリスちゃんも相当強いのかな、とは思ってたけど……)
アリスの言に嘘がなければ、彼女の実力はまさかのトッププレイヤー並。
小柄な自分の懐にすっぽり納まるほど小さなアリスが、不意にとても心強い存在に思えてくる。
アカレコはレベルが高ければ高いほど、レベルアップによる基本ステータス上昇数値が割増になっていく成長システムだ。
従ってレベル60と80ではレベル差の印象以上に、能力に大きな差がついてしまう。
わかりやすく例えるならば、レベル60がレベル40より5倍強いのなら、レベル80はレベル60より10倍強いといった感じである。
レベルによる能力格差に関して言えば、プレイヤーだろうとモンスターだろうと程度はほとんど変わらない。
(これはもう、誰かに頼るよりアリスちゃんと二人でどこかに隠れていた方が安全かもしれない)
このユキの思いつきは、身の安全を図る上での最善手という意味でずばり的を射ていたと言える。
(でも、万が一のことがあるかもしれないし、何より二人だけなのはやっぱり怖いし……。冒険者ギルドに避難すれば安心できる、かな? ……うん、そうしよう)
今後の方針案に結論を出したユキは、「ほうっ」と少し重い息を吐いて、アリスを抱きかかえる腕にほんの僅か力を込める。
「えっとね、これからの行動を決めました。冒険者ギルドってところに避難しようと思うの。いいかな?」
恐らく大勢のプレイヤーが難を逃れて集まってくるだろう。そういう場所に身を置くことをアリスは嫌がるかもしれない。
なんとなくそう考えての確認だったが、アリスは素っ気無く「問題ありませんわ」と答えただけだった。
その冷淡な態度に、位置関係的にアリスの表情が覗えないユキは、アリスの機嫌を損ねるような事をしてしまったのかな、と不安を覚える。
しかしアリスは別に不機嫌だったわけではなかった。
(何かが近づいて来てますわね。気配からして木っ端でしょうけど放置すべきかしら? 僅かなマナしか持たないユキ様をわざわざ狙ってくるとは思えないし……)
などと、広げた索敵感知網に引っかかったモンスターらしき存在の対処について考えを巡らせていたため、ユキへの対応がなおざりになってしまったのだ。
ちなみに《マナ》というのはよくある《魔力》とか《精神力》といったものを意味する単語ではなく、《存在値》とでも言おうか、平たく言えばそのプレイヤーの強さや社会的立場の軽重、これまでにこなしたイベントの実績といった様々な要素から算出されるマスクパラメータの一種である。
つまりこの数値が高ければ高いほど強くて(=レベルが高くて)名声や社会的立場も高く、多くの実績を有したプレイヤーということになる。
また、マナ数値はプレイヤー以外、NPCやモンスター等にも設定されている。
特にモンスターにおいては、倒したときの入手経験値がマナ数値に比例しているので、強さの割には経験値が美味しい、という類のモンスターはマナ数値が不相応に高かったりする。
もっともモンスターは強さ以外にマナ数値の変動要素がほとんど存在しない為、ほぼレベル=マナ数値=経験値、となるわけだが。
マナの参照要件がその程度であれば大して重要な要素ではないが、無論それだけではない。
マナ数値はゲーム内の実に様々な部分に影響を及ぼす。
例えば、モンスターがプレイヤーを狙う際のプライオリティ算出にはマナ数値が参照項目として用いられたり。
例えば、モンスターテイミングにおいて、プレイヤーのマナ数値とテイミング対象モンスターのマナ数値の差がテイミング成功率に大きく関わっていたり。
レンから「ユキを仮の主として従え」と命じられていたこともあり、アリスは結局ユキに判断を委ねることにした。
「……ユキ様。どうやら魔物らしきモノがこちらに近づいてきておりますわ」
「えっ、ええっ!?」
アリスの機嫌についてはひとまず考えないようにして、東地区の冒険者ギルド支部ってどこにあったかな、と、ユキが以前一度だけ足を運んだことのある場所までの道順を思い出そうとしていた矢先。
突然のアリスの警告にびくっと体を竦めたユキは、狭い裏路地で暗がりが多く、さして視界の通らない周囲の様子を怯えの孕んだ表情できょろきょろと覗う。
……目に見える範囲で特に異常は見当たらない。
「……ど、どこ……?」
レンと出会う前に暗がりから奇襲を受け、とてつもない痛手と恐怖を刻まれたのはユキの記憶に新しい。
非常時の経験が致命的に不足していることもあって、ユキは目に見えない脅威にすっかり怯えてしまい、震える腕でぎゅっとアリスを抱き締め、聞き返した。
「まだ少し距離がありますわ。遭遇を避けたいのでしたらすぐにこの場を離れた方がよろしいでしょう。もっとも、追ってくるともわかりませんし、迎撃するでも構いませんわ。いずれにせよ、ユキ様には私が指一本触れさせませんからご安心くださいな」
「う、うん……ありがとう」
力強く身の安全を保障してくれるアリスに頼もしさを感じながらユキは礼を述べた。
(うん、さっきとは違う。今度はアリスちゃんがいてくれる。私もしっかりしなきゃ!)
根強く残る恐怖心を振り払い、とにかく行動しようと心に決めるユキ。
「それじゃ、冒険者ギルドってところに向かうね。もしそのモンスター……が、追っかけてくるようなら、アリスちゃんに任せていい?」
「ええ、承知しましたわ」
「よろしくね」
(とりあえず大通りに出よう。もしかしたらそこにもモンスターがいるかもしれないけど、こんな狭いところで襲われるよりはましだよね)
方針を定めたユキは大通りの方角へと走り出した。
自分の地理感覚が余程ずれてなければ、大通りとはせいぜい100メートルくらいしか離れていないはず。
その推測に大きな誤りはなかったのだが、近づいてくる脅威を軽んじてアリスがろくな説明をしなかったことと、大通りまでの最短距離を選んだことで、事態は皮肉な方向へと傾いた。
「あら、潰してから行くんですの?」
「えっ?」
意外そうな口調ではあるが、平易な声音で疑問を口にするアリスに、ユキは思わず足を止めた。
「あの……何のこと?」
「? ですから、先ほど伝えたモンスターのことですわ。このまま進むとエンカウントしましてよ?」
「……はい?」
「と、足を止めるのが少し遅かったようですわね。囲まれましたわ」
「……!」
少しだけアリスの声が剣呑さを帯びたことを敏感に感じ取り、ユキは危険な状況に陥ったことを理解した。
慌てて周囲を見渡す。目の前にはT字路があり、先ほどよりはやや視界の開けた場所だが、それらしき怪しい影は見当たらなかった。
「闇に紛れて孤立した人間を襲うとは、やり口がせこいですわね。もっとも、影働きこそがお前たちの本分というべきかしら?」
目の前にいる誰かに語りかけるかのようなアリスの言動に、ユキは正体のわからない怖気を感じ始めていた。
今更ながらに、懐に抱えたアリスもまた、おそらくプレイヤーなどではなく、本来は敵であるモンスターに属する存在なのだと強く意識する。
「――あくまでだんまりですの? 仕方ないですわね……」
何か仕掛けようとするアリスの気配を察知したのか、遂にソレは直接的な行動に出る。
ユキの背後で地面から闇そのもののような黒い何かが音もなく盛り上がり、出来の悪い粘土細工の人形のような歪な人型となる。
見る者が見れば明らかに不定形……スライムなどで有名な、物理攻撃が効き難いことからプレイヤーの多くに嫌われている種族に属するモンスターであることがわかる。
背後という絶好のキリングポジションを獲得した影モンスターは、右手の先を槍のように先細めたかと思うと、音もなくユキの背中に突き出した。
しかしユキの背中まであと数センチといったところで、暗い殺意はアリスが常時展開している防御結界に阻まれた。
影モンスターの鋭手が結界障壁に触れた途端、ヂッ! という音と共に金色の火花が飛び散り、影槍の穂先が削り取られたように消滅する。
「っ!?」
背後の音と気配に驚いたユキが振り返り、闇そのものな人影に息を飲んだ刹那。
「退け」
と、凍てつくような声音でアリスが告げた。
ドッ!!
同時、ユキと影モンスター間の僅かな空間に光が閃き、鈍い衝撃音が辺りに響く。
膨大というほどではないにせよ、闇に慣れた瞳にはいささかきつい光量に、ユキは反射的に顔を逸らして目を瞑った。
普通なら咄嗟に手で眼前を覆うような行動を取りそうなものだが、不意の出来事にあってもアリスから手を放さなかったのはささやかな賞賛に値する。
恐る恐る瞼を開いてユキが正面に向き直ると、恐ろしげな影モンスターのどてっ腹に大穴が空いていた。
「ギ……イ……ィ……」
一体どこに発声器官があるんだ、という疑問はさておき、影モンスターは微かな断末魔の悲鳴をあげた。
そして淡い燐光に包まれたかと思うと、パァッとポリゴンの欠片に変わって爆散して消える。
事態に理解がおっつかないユキは呆然と立ち尽くしていた。
「わたくしから逃げられると思って? ……身の程を知りなさいな」
一方、ただの一撃で影モンスターを倒したアリスは、凍てつく声音はそのままに、やはり見えない何者かに語りかけるような調子で傲然と言い放った。
「星宿の猟犬 主に仇なす者へ食らいつけ 《レイ・シリウス》」
短く詠唱し、アリスは右手の平を前方に突き出した。
ユキたちの2メートルほど先の空間に、白く光る1メートル大の光球が二つ出現する。
目を見張るユキの前でそれはシンプルな輪郭を崩したかと思うと、大型犬のような姿形へと変貌した。
「……食べておしまいなさい」
「グルルルルッ!!」
残酷とも言える指示をアリスが与えると、光の猟犬は猛烈な勢いでそれぞれ左右に分かれて前方のT字路へ飛び込んでいった。
人並みの知覚しか持ち得ないユキには、これから見えないところで起きるはずの出来事を知る術はない。
なんとなくアリスが襲ってきたモンスター? のようなものを退治したか追っ払ってくれたようだ、とは理解していたが、具体的に何がどうなったかはわからない。
とりあえず安心して良いのか、いまだ警戒が必要なのかを把握したいこともあって、ユキはアリスにおずおずと訊ねた。
「ね、アリスちゃん。一体何がどうなったのかを教えていただけると嬉しい、かも……」
「それは構いませんけれど……どこまで詳しく語ればよろしいんですの?」
アリスの声音に労を厭うような響きがないことに内心ほっとしつつユキは答えた。
「えっと、今の人影みたいなモンスターのこととか、どうやってやっつけたのか、とか。出来るだけ詳しく教えて欲しいです」
「そうですわね……」
アリスはやや考え込んでから、「少し長くなりますけれど」と前置きしてから説明を始めた。
「まず、先ほど襲ってきた魔物はシャドウストーカーという名称の不定形種族・闇属性のモンスターで、本来は地下迷宮や洞窟といった暗がりの土地に生息していますわ。個体差はありますがレベルは30前後といったところでしょうか。今ほど見たとおり、暗闇を利用して他者を襲うせこいモンスターですわ。それがわたくしたちを囲うように3匹ほど近づいてきていたのです。初手の奇襲は防御結界で防ぎ、《オーラインパクト》という中位の光属性攻撃魔法で反撃して倒しましたの。まぁこの魔法はわたくしの通常攻撃のようなものですわ。見てのとおりわたくしは非力なものですから魔法による戦闘が得手ですの。そして、わたくしがマナと呼ばれる存在力の隠蔽を解除したこともありますけれど、一撃で同族が倒されたことに怯えたのでしょう、残る二体が逃げるように遠ざかっていったのです。しかしこちらに手出ししてきた不届き者をみすみす逃すのは業腹でしたから、シリウスと呼ばれる星霊を召喚してけしかけたのですわ。闇属性である彼らにとって光属性の魔法や星霊はまさしく天敵。今頃逃げた二体ともシリウスに喰われて消滅してますわ。――以上、今の説明でお解りになりまして?」
「うん。ありがとう、大体わかりました」
正直に言えば細かいところまで完全に理解したとは言えなかったが、アリスが敵モンスターを全部やっつけてくれた、という事実を知ることが出来、とりあえずユキは安堵した。
「それにしても、失礼な褒め方かもしれないけど、ティアちゃんといいアリスちゃんといい、体は小さいのに強いんだね。すごいな……」
自分が傷つくこと、誰かを傷つけることに臆病な性格だったこともあって、これまで《強さ》というものにさして魅力や価値を感じず、高レベルプレイヤーたちの存在もどこか自分とは無縁の世界で生きている人々、という認識だったユキ。
だが絶体絶命の危機に陥り、そこから救い上げられ、そして今また鎧袖一触と言えるほどの圧倒的な強者の格をまざまざと見せ付けられて、ユキの心に初めて強さに対しての憧憬が生まれていた。
ユキの純粋な感情を乗せた褒め言葉に、アリスは満更でもないようで、少し誇らしげな口調で語る。
「わたくしが強いのは、魔王であらせられるレン様の使い魔、いわば高位眷属の身として当然のことですわ」
「レンさんってそんなに凄い人だったの?」
「勿論ですわ。この広い世界を知らず、己が狭い領域で支配者気取りだったわたくしを外に連れ出し、蒙を開いてくださったレン様の偉大さは、一朝一夕では語り尽くせぬほどですわ」
「そうなんだ……」
ユキの感心した様子に更に気を良くして興が乗り、ぺらぺらと余計な情報を喋っていることに気付いていないアリス。
例によって知識のないユキだからこそ疑問を抱いたり突っ込まれたりはしていないが、ある程度の経験と想像力を備えた者が今の発言を耳にしていたら、きっと青い顔をしてこう訊ねただろう。
「まさかお前はボスモンスターなのか?」と……。