魔王 が 現れた! 002
――短い回想の間に少女の呼吸はほぼ落ち着いていた。
整息した少女は危地から距離を稼いだことによる安心感も手伝ってか、周囲の状況を確認する余裕が生まれていた。
ぐるっと辺りを見渡し、暗いながらも見覚えのある場所かどうかを確認する。見覚えは――ない。
どちらかといえばインドア派な少女の普段の行動範囲はそれほど広くなく、ホームの宿屋から2キロ近くも離れた場所の地理に精通してるはずもなかった。
1年という時間を過ごしたとて、直径約8キロメートルに及ぶ広大な円形の敷地を有する巨大都市・イースの隅々まで探検し、把握するなど、どだい無理な話である。
見知らぬ場所だからといって、少女に落胆はなかった。怯えは少なからずあるが、犯罪的な被害に対するものではない。
イースの裏路地はあくまで裏路地であってスラムではない。
確かに表通りに較べれば活気や治安はいささか劣りはするけれど、一歩足を踏み入れたからといって即座に犯罪に遭うような殺伐さや後ろ暗さとは無縁であった。
(走ってきた方向に間違いがなければ、中央区画の外縁部にそろそろ辿り着くはず……)
中央区画は、幅の広い水路にぐるっと囲まれる形で外と隔てられている。
少女の言う外縁部というのは、要するにその水路のことを指している。
そして少女が目指しているのは、外縁部水路に存在する大小24の橋のうちの一つであった。
(いったん、大通りに出て現在地と方角を確認すべきかも)
余裕が理知的な思考を生み、それに従って少女が大通りの方向へと足を向けたところで――
パチャリ、と、濡れた音が少女の背後で響いた。
ぎくり、と少女は身を震わせて立ち尽くす。そして心の片隅でホラー映画のワンシーンのようだ、などと存外暢気な感想を抱きながら、恐る恐る振り返った。
夜の闇と建物の影に覆われて、物音の正体は見えない。
しかし、物音が気のせいなどではないことを証明するかのように、先ほど通った用水路の橋の方角から、パチャリ、パチャリ……と、濡れた足音が聞こえてくる。
(……酔ってうっかり用水路にでも落っこちた間抜けなプレイヤーかな……?)
全く自信の持てない推測を胸に抱きながら、音源がそろそろ視界の届く数メートルの間合いに入ってくるのを戦々恐々と待つ。
結果論で言えば、少女は不穏な物音を聞きつけた時点で逃走を再開すべきだったのだ。
ここまで逃げてくれば安全圏だろう、という思い込みと、余裕から生まれた僅かな好奇心が少女を危機へと誘った。
「ギャギャ!」
突如、暗闇から獣とも鳥ともつかぬ奇妙な鳴き声が聞こえたかと思うと、透明な何かが少女の足元を瞬時に通り抜けた。
直後、とてつもない灼熱感が少女の右膝のあたりに生まれた。
「ぎぃぐぅぅぅうううううああああああぁぁぁっっ!!?」
これまで人生で一度も味わったことのない凄まじい痛みに、少女は金切り声の悲鳴をあげて転倒する。
転倒の際、側頭部を打ったせいか、少女の視界にちかちかと光が瞬き、涙が尽きることなく溢れてくる。
頭の痛みもさることながら、右足の痛みが激烈すぎて少女にまともな思考力は残されていなかった。
それでも、両手で痛みの原因である患部を抑えようとして、そこに本来あるべきものがないことに気付くくらいの正気はかろうじて残っていた。
(膝から先が――ない!?)
少女の右足は、膝から先がすっぱりなくなっており、切断面からは鮮血が怒涛の勢いで溢れ出している。
びしゃり、と切断面に触れた手が生暖かい自分の血で濡れる。
「ひっ、ひっ、ひっ……!」
仮想現実世界なのにアドレナリンの効果まで実現しているのか、若干痛みが弱まったと感じた少女は息も絶え絶えに薄目を開け、何事が起きたのか必死で確認しようとする。
涙でぼやけた視界に映る大柄な人影。
ディティールはわからないが、恐らく自分を攻撃した誰かなのだろう。
少なくとも都合よく自分を助けにきた第三者だとはとても楽観できなかった。
「ニエ……にぇぇぇ……!」
目の前にいる大柄な人影から、くぐもった声が放たれる。
言葉の意味は少女には理解できなかったが、自分に向けられた明確な殺意だけは察せられた。
右手に握っていたマインゴーシュは転倒した際に手放してしまっている。
仮に未だ武器を手に握っていたとしても、片足のない今の状態でどれほどの抵抗ができるのか。
(私……死ぬのかな)
絶望が心を侵食し、少女の生きようとする気力を諦観に差し替えようとする。
ここで甘美な誘惑に負けて意識を手放してしまえば、恐らく二度と目覚めることはないだろう。
いや、デザイアウイルスに記憶を、魂を食われて、単なる死よりも恐ろしい末路を迎えるかもしれない。
(それだけは……嫌……!)
激甚な恐怖が痛みをいっとき忘却させ、少女の肉体機能を復活させる。
要領悪くもがきながらも必死で上半身を起こし、家屋の石壁にもたれかかる。
そして視力の戻った瞳で人影の正体を視認した。
ぬめぬめと月光を浴びて粘着質に輝く蒼い鱗。
人と同じ四肢以外にもヒレや水かきといった人間にはない形質を有し。
ぎょろっとした丸い目と、横に大きく裂けた口から覗くぎざぎざの鋭い歯並びは到底人のものではありえない。
右手にはトライデントと一般的に呼ばれる形状の三叉の銛を持っていて、地面に向けた切っ先からぽたり、ぽたり、と水滴が滴っている。
それがまるで自分より前に殺害した別の誰かの血であるかのように思え、少女の肌がぞくりと粟立つ。
ゲームやファンタジーに疎い少女は名を知らなかったが、それは水棲系モンスターに属する「サハギン」という名の半魚人タイプのモンスターだった。
「ひっ……!」
目の前で仁王立ちしているモンスターの醜悪な姿に、思わず少女は鋭い悲鳴をあげた。
その声を不快に思ったのか、それとも単なる切っ掛けであったのかは知れないが、サハギンは緩慢な所作でトライデントを振りかぶる。
考えるまでもなくその狙いは少女への止めの一撃だろうと思われた。
しかしながら少女は逃げようとする素振りを見せず、まるで魅入られたかのように持ち上げられたトライデントの鋭利な切っ先を見つめていた。
びゅっ、と鋭い音と共に矛先が少女へ殺到した。
と、同時。
「避けろ!」
何が少女を救ったのか。突如投げかけられた声か、それとも無意識の防衛本能か。
サハギンの狙った場所が頭だったことも幸いした。
少女は咄嗟に右斜め前に倒れこむように頭を動かして致命の一撃を回避する。
トライデントが石壁に深々と突き刺さり、少女の髪が一房切られて宙を舞う。
「ウインドキャリバー!」
少女の至近で先ほどとは違う声が鋭く響いたかと思うと、ヒュドッ! と鈍い音が間近に炸裂した。
「な……に……?」
避けた勢いで前方に倒れこんだ少女が、何事が起きたのかと痛みを堪えながらサハギンへと視線を向ける。
大柄なサハギンの姿は、壁にトライデントを突き刺した格好で硬直していた。
……と、思った次の瞬間。
ずるり。
サハギンの体が斜めにずれた。
ドチャッ。
鈍く粘着質な音を立てて、サハギンの上半身が地面へと落ちた。
「あ……え……?」
事態に理解が追いつかず、呆然としている少女の目の前でサハギンの死体が淡い燐光に包まれたかと思うと、音もなくぱあっと拡散して消える。
少女にとって間近では初めて見る光景であったが、それはモンスターの消滅エフェクトだった。