魔王 が 現れた! 017 (三人称改訂版)
月明かりすら射し込まない完全な暗闇の中で、少女は尽きぬ涙を流しながらガタガタと震えていた。
ずっと自分を抱き締め、励ましてくれていた母の温もりは失われてしまった。
どんなときでも優しく微笑んでくれた母はもういないのだと、死んでしまったのだと、理解することを感情が拒んでいた。
(いやぁ、いやだよぉ……! こんなところに愛理を置いていかないで、一人にしないで、ママ……!!)
全てがタチの悪い夢だと思いたかった。自分はまだベッドの中にいて、隣には母が寄り添って眠っているのだと信じたかった。
一度強く目を瞑って開けば、夢から覚めて現実に帰還できるのだと、何度も何度もまばたきを繰り返した。
しかし、どれだけ繰り返しても悪夢は終わらず、視界に映るのは塗り潰された黒一色のみ。
ままならぬ現実に、愛理の胸中に絶望だけが募ってゆく。
思えば、何もかもが唐突で、おかしかった。
就寝し、心地よい眠りを享受していた自分を血相の変えた母が揺り起こした直後、轟音と共に家が揺れた。
咄嗟に自分を抱き締め、ベッド横の床に身を伏せた母の性急な振る舞いに抗議する間もなく、ガガガァ……と激しい音と振動に心胆寒からしめられて声を失った。
一連の恐慌が収まった後には、痛いほど自分を強く抱き締める母の温もりと、呼吸しただけでむせそうな埃っぽい空気だけがあった。
自分を抱き締めたままの母が、「家が崩れて閉じ込められた」「動かないで助けを待ちましょう」と教えてくれた。
下手すれば潰されるところだったが、家具や瓦礫が奇跡的なバランスで折り重なり、ささやかな生存空間が発生して助かったのだ、とも。
それから母は自分を抱き締め、大丈夫だから、きっと助けが来るからと、ずっと声を掛け続けてくれた。
だからこそ、自分の心はかろうじて平静を保つことができた。頼りになる母がいれば何も怖いことなどないと信じることが出来た。
なのに……。
ぴし、めき、と、一定間隔で不吉な音を立てていた周囲が、また少し崩れて母を下敷きにした。
僅か二畳程度の広さしかない空間では逃げ場がなかったが、母が自分を庇い、四つん這いになって瓦礫を受け止めてくれた。
かろうじて残った狭い空間へ自分が這うようにして脱出するのを見届ると、母は力尽きて胸から下を瓦礫に潰された。
最後に母は「生きて……」とだけ呟き、光の粒子に変わって消えていった。
この世界で死ぬ、ということがどういうものなのかを初めて知った。
母を……代償として。
母を失った悲しみ、理不尽への憎しみ、込み上げる感情のままに泣き叫びたかった。
でも、出来なかった。怖かったから。怖かったのだ。
大きな音を立てたらまた崩れるんじゃないかと、そしたら次は自分が下敷きになるのだと、根源的な死への恐怖が感情の決壊を塞き止めた。
死んで大好きな母の元へ行けるなら、それでもいいと思わなくもなかった。でも、思っただけだった。
やはり、死ぬのは怖い。自分を守り、「生きて」と命を繋いでくれた母の想いにも報いたかった。
時折、瓦礫の外から恐ろしげな唸り声が微かに聞こえてくる。
人のものとは思えなかったが、声が響く度に、すぐ頭上に迫った天井からぱらぱらと埃が落ちて来ているように思え、更なる崩落の恐怖に襲われる。
(たすけて、たすけて、誰か、たすけて……)
神様には祈れない。この世界の神様は、人々を苦しめて喜ぶ悪い神様だって母から聞いていたから。
むしろ、母を失ったことも、今の状況も、全部その神様が悪いんだ。
そう決め付けたところで、神様が改心して愛理を助けてくれたりはしなかった。
モスキートバット四匹を倒したことにより、暫定目標であるレベル十を達成したレン。
(主にティアが)相当数狩ったために、モンスター遭遇効率が落ちてきた南側区画に見切りをつけ、北側区画に移るかと考え始めていたレンの頭に、囁くような声が響く。
(レン……あっちで誰かが泣いてるの……お願い、助けてあげて)
一瞬、使い魔の誰かが念話を飛ばしてきたのかとレンは思ったが、違った。
レンに切ない口調で語りかけてきたのは、レンのストレージで眠っているはずのメアだった。
どこまでも透き通って届くようなメアの高い声音をレンが聞き間違えることはない。
メアの声に無視できない切迫さが滲んでいるのを感じたレンは、詳細を訊ねる手間を省いて即座に了承した。
(わかった。案内を頼む)
(うん)
ふっ、とレンの目の前にメアの小さく華奢な肢体が現れる。
その姿を見るといつも、レンにはずっと昔から知っているような不思議な感傷が込み上げてくる。メアと出会ってからまだ半年と経っていないというのに。
しかし、そう感じるのも当然のことか、と考え直し、レンは唇の端をクッと歪める。
メアはレンの記憶を引き継いだ半身にして分身といえる。そんな存在を前にして、何の感慨も抱かないわけがなかった。
《ナイトメアウイルス》。それがメアの正体であり本質。
五年前、中学卒業を間近に控えた冬の終わり。何気ない日常に潜んでいたナイトメアウイルスに感染したレンは昏睡状態に陥り、以後三年弱にも及ぶ時間を病院のベッドの上で無為に過ごした。
十八歳になって半年も過ぎた頃にようやく目覚めたレンは、十代の後半という人生で最も輝く青春時代の三年間を奪われた事実を知り、愕然とした。
それだけではない。ローカルウイルスでありながらも、危険度AAAに認定されたナイトメアウイルスは単に不活性化しただけで、駆除出来たわけではなかった。
三年の間にナイトメアウイルスはレンのNBCに深く根を張り、迂闊にワクチンソフトで消去しようものなら、レンの人格や記憶、生命維持機能に至るまで多大なダメージを与えかねない状態に悪化していた。平たく言うなら、もはや治療の施しようがない、ということだった。
せめてもの救いは、後遺症の類が一切なく、長年の寝たきりによる身体的衰弱が多少ある程度で、日常生活への復帰は難しくないと診断されたこと。
しかし、危険なCウイルスの感染者であるレンを国が野放しにするはずもなく、結局は社会復帰支援の名目で体のいい軟禁生活に身を置くこととなった。
政府お抱えの専門家たちが、三年という時間をかけても全容を解析するに至ってない《ナイトメアウイルス》を引き続き調査分析する、という目的もあったのだろう。
ある意味モルモットと言えるレンの待遇は決して悪くはなかったが、唯一自由だけが許されない生活に鬱屈したレンは、自殺すら考えた。
こんな境遇に叩き込んでくれた元凶たるナイトメアウイルスを、レンは心底憎み、恨んだ。
どうせ自殺するなら、その前にナイトメアウイルスが寄生するNBCを自ら抉り取って粉々にしてやろうと、病的な復讐心に取り付かれ始めていた。
そんなレンの精神状態を憂慮した担当のカウンセラーが気晴らしにどうかと、新作VRMMOを勧めてくれた。
それが転機だった。仮想現実とはいえ、制限のない自由を与えられ、Cウイルス感染者というハンデなく他者と触れ合える世界は、レンに希望と生きる活力を与えてくれた。
たかがゲームに大げさな、と心ない者は笑うかもしれない。しかし、レンにとってアカシック・レコードはまさしく大いなる福音、現実世界以上に《生》を実感できる世界だった。
それから約二年。《デザイア事変》も含め、様々な出来事があった。その中にメアとの邂逅もあった。
恩人であり、想い人であったレティスを殺されたレンの復讐に力を貸し、デザイアに対抗できるほどの力を与えたメア。
いつしかレンは共生を願うメアの意志に応えたいと思うようになり、全ての恩讐を捨てた。
月光を浴び、美しくも幻想的に輝く銀髪を翻し、メアが駆け出してゆく。
レンのストレージからメアのアバターは抜け出ていなかった。
メアはアバターを顕現させているわけではなく、レンの視界に干渉し、自分の姿を表示させていたのだった。
「ティア、方針変更だ! 今から攻撃範囲内にいる全てのモンスターをたたっ斬れ!」
「わかったー」
メアを追って走り出しながら、レンはティアに指示を出した。
虫一匹殺さないようなあどけない容貌を持ちながら、殺伐とした指示に顔色一つ変えることなく諒解したティアは、レンの頭上ポジションで追従する。
レンの周囲を高速で流れていく裏路地の景色。
メアを追って入り組んだ道を左に右にと駆け抜ける。
その先々でレンの《感知力》スキルに引っかかったモンスターの全てが例外なく気配を消失させてゆく。無論、ティアの仕業だ。
レンたちがこれまでに数倍する速度でモンスターの空白地帯を広げながら進み行くと、既にモンスターに蹂躙された街壁近くの区画に辿り着いた。
走りながら周囲を観察すれば、崩れた家屋が散見され、火災未満の火種が燻っている。
未だモンスターは多少徘徊しているが、プレイヤーはとっくに避難を済ませており、今はもう誰もいるはずのない場所だ。
東門からだいぶ離れた街壁にほど近い場所で、レンの《感知力》スキルがモンスターのそれとは違うマナ数値を検出する。
(メアが言っていたプレイヤーか? モンスターの支配地域でよく今まで生きてたな)
マナ数値量からして、レベル一のプレイヤー。
その付近に何匹か低レベルモンスターがたむろっていることから、モンスターは手を出せないしプレイヤーは逃げ出せない状況に陥っているのだとレンは当たりをつけた。
レンがそう判断したところで、先行するメアの姿が薄まり、消えた。案内の必要がなくなったからだ。
現場に到着すると、大きめの宿屋に似た集合住宅っぽい建物が半壊し崩れているのがまず目に付いた。
周辺のモンスターは既にティアの攻撃によって一掃されており、レンたち以外に動いている者はいない。
マナ所有者の位置情報と状況から、プレイヤーが半壊して崩れた建物内に取り残されている、とレンは見て取った。
恐らく出入り口や窓を瓦礫に塞がれて生き埋め状態になっているのだろう。皮肉にもそれが幸いしてモンスターも手出しできなかったようだ。
それなりにレベルの高いプレイヤーであれば瓦礫など自力で撤去して脱出できただろうが、レベル一では現実世界の人並み程度の力しかない。
また、同様にレベルの高いモンスターであれば、瓦礫ごと吹き飛ばすなりしてプレイヤーの命を奪っただろう。
しかし、強いモンスターであればあるほど、僅かなマナしか持たない低レベルプレイヤーなどには興味を示さないし執着もしない。
とはいえ流石に、視界に入っているプレイヤーまで見逃したりはしないが。
おおよそ状況を把握したレンは、半壊した建物に駆け寄り、大声で内部に呼びかけた。
「中に誰かいるのか! 助けに来た、いるなら返事してくれ!」
内部の状況次第で救助方法が変わってくる。
もし返事すらないようであれば、気絶しているなどで意識がなく、危険な状況に置かれている、という可能性も高い。
レンはどんな音も聞き逃すまいと耳を済ませた。
「――……けて」
瓦礫越しに、微かに人の声が聞こえた。
「ティア、聴力拡大を頼む」
「はぁい。《センス・ウィスパード》」
ティアに支援魔法をかけてもらい、レンは再び大声で呼びかけた。
「声を出せる状況なら、内部の様子を教えてくれ!」
「ここから出して、おねがい、たすけてぇ……」
何かの事情で大声を出せないのか、囁くように助けを求める声が、今度ははっきりとレンの耳に聞こえた。
声色からして、幼い女の子が閉じ込められているのだと察する。
レンは三度怒鳴った。
「わかった! そのまま動かないで少しだけ待ってろ!」
弱々しい声からして怪我でも負っているのかもしれないと考えたレンは、救助に時間はかけられないと判断する。
怪我の程度にもよるが、重傷だと持続ダメージデバフが発生するからだ。
しかしながら、レスキュー隊員でもないレンには、崩落家屋から迅速かつ的確に人員救助を行ったりはできない。
例によって神頼みならぬティア頼みになるのであった。
「ティア、建物内部のプレイヤーを保護しつつ崩れた瓦礫を吹き飛ばせるか?」
「んんー……たぶんできる、かも?」
珍しくティアが曖昧に言葉を濁した。
無理もなかった。遮蔽物のない開けた場所であればともかく、ほぼ密閉空間内に護りの風を展開しつつ、建物をこれ以上崩さぬように瓦礫を取り除くという、離れ業じみた繊細な作業が要求されるのだ。
少なくともプレイヤーでは不可能だと言えるだろう。例えレベルが九十あろうと風属性魔法の習熟度が九千あろうと無理なものは無理である。
一応、プレイヤーにも風を操って物を浮かせたり飛ばしたりする魔法が扱える。
だがそれは攻撃的な手段や単純な運搬作業等に用いられるものであって、精密さが求められる用途には適さない。
他に手段はなかった。
「結果には俺が責任を持つ。やってくれ」
「はーい」
承諾したティアは建物二階の高さまで浮き上がると、両手を前に翳して「うぅー」と唸り始めた。ティアなりに気負いがあるのか、自慢の銀翅が垂直にぴん、と立っている。
風で内部構造を調査、及び救助対象プレイヤーがいると思われる内部空間に護りの風を送っているのだろうとレンは察した。
そのまま十秒、二十秒と、じりじりと時間が過ぎてゆく。
やはり難しいのか……? とレンが考え始めた頃、おもむろにティアがバンザイするかのように両腕を上げて叫ぶ。
「えぇーい!」
ボッ!!
鈍い衝撃音と共に、まるで爆発したように瓦礫が外側に吹き飛んだ。
建物のほぼ正面に立っているレンにも瓦礫の欠片が多数飛んでくるが、ことごとく風の護りに弾かれ、あさっての方向にすっ飛んでいく。
周囲に濛々と粉塵が舞うも、ティアが即座に風で吹き散らした。
瓦礫の前半分が取り除かれ、クリアになった視界に、断面的な建物内部の様子が映る。
建物の横端から六、七メートルほど離れた一階部分に、大人が二人も入れるかどうかの狭い隙間があった。
瓦礫の多くを吹き飛ばしたせいでバランスが崩れ、本来であればすぐにでも崩れそうなものだが、風の護りが補強しているためかミシリとも音がしない。
見事作業を成功させたティアを褒め称えるのは後回しにして、レンはその隙間へと駆け寄り、暗がりの中を覗き込んだ。
あまり奥行きのない空間の先で、小さく蹲った人影らしき姿が「ひっ」と怯えの声を漏らす。
レンは中腰に屈みつつ、胸の高さに右手の平を掲げた。
「ルクス」
こちらの姿がろくに見えないでは不安だろうと、レンは光属性汎用魔法を使用した。
掲げた手の平の上に拳大の光球が生まれ、周囲を明るく照らし出す。
スペースの奥に見えたのは、両腕で頭を抱えながら蹲る幼い少女だった。
瓦礫を吹き飛ばしたことに驚いたのだろう、幼女は怯えきった表情でガタガタと震え、レンを見上げている。
同時に、ツンと匂うアンモニア臭がレンの鼻を刺激した。
(恐怖のあまり失禁したか……悪い事をしたな)
他に手立てがなかったとはいえ、幼子を怖がらせてしまったことに若干の罪悪感を感じつつ、レンは口を開いた。
「もう大丈夫だ。こっちへおいで」
「ひぐっ」
レンは務めて優しい声と口調で幼女に語りかけた。
幼女はしゃっくりのような、何とも形容しがたい声を漏らしてレンをまじまじと見つめた。
そこから幼女の表情は劇的に変貌した。くしゃっと顔を歪め、ぽろぽろと涙を零しながら、よつん這いでレンの方へ近寄ってくる。
小さなレディの尊厳を守るためにお漏らしの事と匂いは極力考えないようにして、手の届くところにまで来た幼女をレンは両腕で抱き上げた。
左腕で幼女の臀部を支え、手で膝のあたりを掴むようにして懐に抱え込む。
「あうっ、えぐっ」と嗚咽を漏らしながら、レンの首に両腕を回して強くしがみついてくる幼女。
メアよりも小柄で、幼い容姿からすると、歳の頃は十にも届いていないようにレンには思われた。
(こんな幼い子が、いつ崩れるともわからない瓦礫の下で恐怖に耐えていたのか……)
幼女を安心させてやるため、右手で背中をポンポンと叩くレン。
こんな場所で一人閉じ込められていた事情を詳しく聞きたかったが、未だ混乱と怯えの抜け切っていない幼女にあれこれ訊ねるのは酷だろう、と判断して、レンは一点だけ訊ねる。
「君の名前は?」
「あっ、あいり、です。さ、《桜坂》、《愛理》……」
「わかった。俺の名はレン。よろしくな」
「う、うん……。お兄ちゃん、あいりをたすけてくれて、ありがとう……」
感極まったような声で言われたお礼の言葉に、レンは再び愛理の背中をポンポン、と叩いて応えた。
訂正前との最大の変更点として、母親の優理がお亡くなりになってます。
パラレルワールド的な。こういう可能性もあったんですよ、みたいな。
おっぱい要員が減ってしまってリリシアにしわ寄せが……




