魔王 が 現れた! 001
自分がVRMMOを書いたらどうなるんだろう、と興味本位で書いてみました。紳士の方向けです。
2012/10/27、投稿直後ですがタイトル修正しました。旧題《電脳世界で魔王様Lv1になりました》 ……「電脳世界」は表現が古いかなぁと……(´・ω・`)
人口約20万人を誇る世界最大の都市、イースはVRMMO《アカシック・レコード》(通称アカレコ)を始めたプレイヤーが最初に出現するホームタウンである。
中世における欧州風の街並み――専門的な言い方をするならばロマネスク建築とゴシック建築が入り混じった建物が規則的に立ち並ぶ巨大都市だ。
建物だけでなく、中央大通りの広場に設置された噴水や小舟が行き交う水路などによって形成された風光明媚な景観は、今や阿鼻叫喚の様相で彩られていた。
「はっ、はっ、はっ、はっ……!」
人々の悲鳴、怒号がひっきりなしに飛び交う街中の裏路地を一人の少女が懸命になって走っていた。
頭から長い尻尾のような金色のツインテールの髪束を靡かせ、必死の形相で駆ける少女の容貌は、平素の状況であれば男なら誰しもが振り返るほどの美しさを有している。
とはいえ凹凸の少ない小柄な体躯と、幼さの残る顔立ちからして外見は10代半ばの未成熟な美少女といった風情であり、彼女の美しさが完成するにはあと数年ほど必要と思われた。
汗によって前髪を額に張り付かせた少女の表情には大きな焦燥と絶望がありありと浮かんでいる。
少女は追い詰められていた。
人間に、ではない。イースの街を突如として襲ったモンスターの大群によって、だ。
本来であればMMOにおいて街をモンスターの群れが襲うといったイベントはありふれた内容のものであり、プレイヤーとして危機感を覚えこそすれども現実的に命の危険に曝されるようなことはない。
だが、今この世界は――
とある人工知能型ウイルス《デザイア》が引き起こした事件によって、凄惨なデス・ゲームの世界へと変貌していた。
しかもアカレコに接続していた約六万人の正規プレイヤーだけでなく、デザイアウイルスに感染した200万を超える人間が老若男女問わずこの仮想現実の箱庭に囚われてしまっている。
自らをデザイアと名乗った人工知能型ウイルスがかつてプレイヤー全てに送りつけたメッセージによれば、行動目的は感情のサンプリングと記憶の収集にあるという。
囚われた人々の通説では、デザイアは感情を学び数多の記憶を《喰う》ことで人間に近づきたがっているのではないか、などと囁かれていたが、無論真意がどこにあるのかは誰にもわからない。
ただ事実として、この仮想現実世界で《ライフポイント》が一度ゼロになってしまえばプレイヤーは消滅し、現実世界でも脳内をデザイアウイルスに食い散らかされて廃人になるか脳死するかのどちらかの結末を迎えるだろうとされていた。
無論それは物理的に脳細胞を食われるわけでも破壊されるわけではない。
今や人類のほぼ全ての延髄に存在している器官――《ナノブレインチップ》を介して脳内の情報を侵食するのだ。
デザイアウイルスに限らず、最も危険性が高いと分類されたウイルスは人体に重大な障害や命の危険をもたらす恐ろしい存在として人々に認知されており、現代の社会問題にまで発展していた。
プレイヤーに望まぬ死をもたらす元凶であり、今やデザイアの分身と言えなくもないアカレコ世界のモンスターたちは、感染源とも別称され多くの人々から恐れられている。
そして今現在、無数のモンスターたちは実際にイースの街に住む人々を恐怖のどん底に叩き込んでいたのだった。
スタミナの限界まで走り、肺腑から最後の吐息を搾り出して少女はようやく足を止めた。
はっ、はっ、と荒く息をつきながら少女は考える。どうして、と。
当然ながら、声にならぬ思考に応えてくれる者は誰もいない。
喧騒に追われるように少女が暮らしていた街の外縁部から中央区画へと逃げてきた。
中央区画はいわゆる高級街で、ホームの購入や維持に莫大な資金が必要とされている。
もちろん資金といっても現実世界のお金ではなく、ゲーム内通貨である《リラン》だ。
資金を稼ぐ手段は様々あるが、最も普遍的なのはモンスターを狩ってお金やアイテムを手に入れる方法である。
そして高級街にホームを買えるだけの資金を稼げるということは、即ちそれだけ実力のある高レベルプレイヤーが多いということだ。
少女がここまで走ってきたのは、そうした理論的帰結に従ったためであった。
その甲斐あってか、身の危険はやや遠ざかったように思え、少女は息が整うまで少しだけ休憩することにした。
裏路地に隙間なくひしめく家屋の煤けた石造りの壁にもたれかかりながら、僅かばかり過去を振り返った。
事の発端はデザイアによってこの世界に囚われることとなった事件――通称【電脳融解】とか【デザイア事変】などと後に呼ばれることとなる事件が発生してから、約1年が経過した、とある日の深夜に起きた。
危険を恐れ、街から出ようとしない《引き篭もり》と揶揄されるプレイヤーに大別される少女は、宿屋の厨房で明日の朝食として仕出す食事の下拵えを行っていた。
根幹がゲームとしてデザインされた世界である以上、あらゆる技能には《習熟度》というパラメータが存在する。
当然料理という技能にもそれは当てはまり、少女の料理スキル習熟度のそれは《2477/5221》という数値であった。
習熟度の概要を簡単に説明すると、『 / 』で区切られた左の数値が現在の習熟度、右の数値が成長限界である。
成長限界の数値が1000や10000といった整った数字でないのは、現実的には人それぞれに才能や適性の有無といった個性の差があるように、アカレコの世界でも同様に向き・不向きが設定されているためだ。
架空世界にそこまでリアリティを求めなくとも、という至極もっともな意見は当然あったが、一般的なRPGやMMOにはないプレイヤー毎の個性があって楽しめる、という好意的な意見がプレイヤーの中では大半を占めていた。
もっとも、そういうプレイヤー毎の不公平さを好まない層はそもそもアカレコをプレイしようとは思わないか、もしくは馴染めずに引退していくのだからゲームシステムに対して迎合者が多いのは自明の理と言えるのだが。
アバターメイキング時に自動的に決められる成長限界数値は完全ランダムだと言われている。
再作成すれば全く異なる成長限界数値を有したアバターが誕生するのだからそこに法則性はない、と考えるのは当然だ。
成長限界数値が低くて気に入らなければ作り直せばいいのだから、労力の問題はあってもそこに他人との絶対的な不公平を感じるプレイヤーはほとんどいなかった。
問題があるとすれば、膨大な数に及ぶスキル習熟度パラメータはごく僅かな例外を除き、最初は全てマスクデータであることだ。
料理スキルの成長限界が知りたければ、実際にゲーム内で料理作業を行い、習熟度を最低1ポイント獲得してプレイヤーのステータス画面に習熟度パラメータを表示させなければいけない。
なのでアバター再作成によって目当てのスキルの高い成長限界を得ようと思えば多少手間と時間が必要だったが、そうした不自由さもアバターメイキングに没頭しすぎないようにというゲームバランスの妙に思えてプレイヤーたちには概ね好評であった。
成長限界数値はどんなに低くても1000以上が保障されている。というか、三桁以下の数値を誰も見たことがないためで、数万人に及ぶプレイヤーのサンプリングで得られたその情報はシステム的に間違いのない事実だと言えた。
一方、成長限界数値の上限は10000だろうと言われているが、下限ほど既成事実としての信用はない。
5000を超える成長限界数値のスキル、言い換えれば才能はどんなプレイヤーでも最低一つか二つはあると言われている。
比較的見つけやすい戦闘関連や生活に即したスキルであればいいが、非常にニッチな技能に才能が潜在してるとなれば、見つけ出すのは容易ではない。
なので大概のプレイヤーは戦闘や生産系のスキルで高い成長限界数値を持つアバターが誕生するまでメイキングを繰り返すのが普通であった。
習熟度は1000で人並み、3000で一流、5000で超一流と言われており、その裏付けとなる成長限界数値は、高くなればなるほど保有者の数を減らし、稀少になっていく。
そして9000を超える成長限界数値スキルは《完全才能》と呼ばれ、スキル保有者は《天才》という一種の社会的ステータスを得て他プレイヤーから羨望の眼差しを向けられている。
ちなみにデザイア事変が起きる前においては、運営の公表プレイヤー数11万人のうち、完全才能をもつ天才は6人しかいなかった。
プレイヤー自身が発見できていない潜在的な完全才能の可能性を鑑みて、天才はおよそ1万人に1人程度で存在するのだろう、というのが専らの通説だ。
アカレコのプレイヤー人口が200万人を超えた今であれば200人以上の天才が存在するという計算になるが、デザイア事変後1年が経過した現在で確認されている天才は17人に留まっている。
デザイア事変前に存在した天才たちのほとんどが、偏執的とまでいえる時間と労力を費やした末に、戦闘関連や生産関連の見つけやすく有用なスキルの完全才能を得るに至った作為を鑑みれば、アバターメイキングすらさせてもらえずアカレコワールドに放り込まれた200万の人々に、天才が従来のアカレコプレイヤーと同頻度で存在するわけがない。
よって天才は1万人に1人どころか、10万人に1人程度でもおかしくはないだろう――というのが天才に対するプレイヤーたちの認識であった。
成長限界数値が重視される理由はいくつかあるが、最たるものは「成長が早い」ということだ。
わかりやすく例に出すと、とあるスキルにおいて1000の成長限界数値を持つプレイヤーが100の時間と労力で《100/1000》まで習熟度を上げたとする。一方、2000の成長限界数値を持つプレイヤーが同様の時間と労力をかけた場合は《200/2000》まで成長するのだ。
実際にはそこまで単純かつ劇的な比例関係ではないのだが、同じ努力をするにしても成長限界数値が高いスキルほど成長が早いのは事実である。
まさしく大器早成を実現できる完全才能、ひいては天才が周囲にありがたがれ、羨まれるのは当然の流れだった。
そうした点からすると、少女の5000を超える料理スキルの成長限界数値はなかなかに稀少で、戦闘を主としないライフスタイルからすれば実に有用だと言えた。
「うん、なかなかの出来」
食事の下拵えを終えた少女が一品だけ料理を完成させ、1食分用の小さな鍋にオブジェクト化したスープを一口舐めてひとりごちる。
満足げに表情が綻んでいるところを見ると、味に納得がいったのだろう。
少女は眼前50センチほど先の空間に仮想ウィンドウを表示させ、繊細な指先でオプションメニューを操作する。
そして下拵えの済んだ調理過程の品を次々に厨房の食材保管倉庫へと移してゆく。
仮想現実でありながら、現実とは違うこうしたゲーム的な操作にも慣れたなぁ、などと考えながら。
「今日のお仕事、おしまいっ!」
全ての作業を終えた少女は「んー……っ!」と万歳するように大きく伸びをした。
たっぷり5秒ほど姿勢を縦に伸ばした後、腕を下ろして「んはぁ……」と疲れの滲むため息をつく。
現実に較べれば作業が簡略化されてる分、労力が少なく済むとはいえ、ローティーンの少女にとって毎日の肉体労働はなかなかに負担である。
働かざるもの食うべからず。当たり前のことだが少女が働いている理由は生活費を稼ぐためである。
仮想現実世界とはいえ、空腹は感じるし風雨を凌ぐ屋根も必要だ。
であれば食費や居住費といった費用が当然そこに発生し、そうした生活費を捻出する為には完全な引き篭もりではいられない。
とはいえこの手のネットゲームをプレイしたことのない少女にとって、危険に満ち溢れたフィールドに出ることなど論外であったため、それ以外の何かを生業としなければならなかった。
街の中でありつける職業は決して少なくはない。
ある程度資本があるなら商人で身を立てても良いし、何かしらのサービス業で稼いでる者もいる。
極端な例を出せば、本来健全なMMOであるアカレコにはない《娼婦》といった職業を選択する女性プレイヤーもいた。
無論それはシステム的に存在する職業ではなく、生業としての位置付けに過ぎないが。
アカレコは全年齢対応のゲームであるが、家庭用ゲームにおける倫理規定的な意味での全年齢対応ではなく、あらゆる行為が出来るという意味で、正しく全ての年齢に対応した楽しみ方ができるゲームだ。
つまり年頃の男女が寝室で楽しむあれやこれやも普通に出来てしまう。
もちろん、そこには現実の社会的ルールも存在していて、行為に及ぶために必要な倫理プロテクトの任意解除は18歳以上にしか許されていなかった……のだが、デザイアウイルスがその年齢制限を0歳に変更してしまった。事実上の撤廃だ。
デザイアウイルスのその行いは、人間のあらゆる感情をサンプリングするという目的の妨げになるからだろうと言われていたが、男性たちの生理的欲求を考慮したからではないか、と考える者もいる。
実際、18歳以下は自慰行為すら不可能な環境での生活を強制されたら、思春期以降の少年青年の大半は絶望的な気持ちを抱いただろう。
少なくともその件に関してだけは、密かにデザイアウイルスに感謝している若者が多かった。
未だ歳若く、身持ちの堅い少女が娼婦に身をやつすなどということはなく、幸いにしてアカレコに囚われた直後に知り合ったとある女性の縁を頼ってプレイヤー経営の宿屋で仕事を得ることができ、その宿屋の一室を自宅に借り受けることも出来た。
生活にいささか苦労はあるものの、安全で安定した生活にとりあえず少女は満足していた。
しかしながら全く問題がない、というわけでもなかった。
少女の勤める宿屋(とその食堂)は、街中で暮らす人々のみならず、モンスターを狩ることで生計を立てるプレイヤー……狩りプレイヤー、戦闘プレイヤー、冒険者などと呼ばれる人種が足繁く通う人気の店である。
その人気の理由の一つに、人目を引く容姿を持つ宿屋の看板娘とお近づきになりたいと考える、下心満載な男性プレイヤーが多いことが挙げられる。
アカレコは仕様として髪の色や肌の色を変える程度の外見カスタマイズは可能だったが、性別や体格、顔の作りといった部分は変更できないリアリティ重視のゲームだった。
選択した種族によっては固定外見特徴が追加されているものの、200万人を超える本来のアカレコプレイヤーではない大多数の人々は《ヒューマン種族》(人間)でこの世界に放り出されたこともあって、美しい容姿を持つ者は原則現実世界でもほぼ同じ外見、という認識である。
高レベルや資産といった実際的な基準によって有名プレイヤーの名声を持つ者はそれなりにいたが、外見だけで人の噂にのぼる者は少数と言っていい。
そんな類稀な美しさを有した少女との縁を求めて、多くの男性が宿屋を毎日のように大勢訪れるため、少女は精神的にかなり参っており、最近では宿屋のオーナーに頼んで接客業務から調理業務にシフトを変えてもらっていたのだった。
1日の業務を消化し終え、あとは寝るだけだと、少女が3階にある自室へと続く厨房脇の階段に足をかけたところで――
ズン、と地面が揺れた。
「きゃ!?」
悲鳴をあげ、思わず階段の手すりに掴まった少女は常ならぬ事態に身を硬くする。
一体何が……と手すりに縋りついた姿勢でしばし呆然としていると、ドドォン……という爆音が遠くに聞こえてくる。
それを切っ掛けにして宿屋の外で何やら喚いている人々の喧騒が少女の耳に届き始める。
徐々に大きくなるその叫び声の内容がはっきりと聞こえ、理解できたとき、少女の体を冷たい戦慄が貫いた。
「モンスターの大群が襲ってきたぞー!!」
「戦える者は東門へ向かえー!」
(モンスター……の、たい、ぐん? このイースの街に?)
そんな馬鹿なことがあるのか。
いや、モンスターが街や村を襲う、というのは別段珍しいことではないと知ってはいる。
だけどイースの街はプレイヤーのスタート地点だけあって周囲のフィールドモンスターは最弱の個体ばかりだし、万を越えるイースの常駐戦闘プレイヤーが毎日のように周辺で狩りを行っているため、纏まった数のモンスターが街を襲うなどいうことはこれまで一度もなかった。
ありえないことが起きている。
であるならば、これは何かの大規模イベントが発生したということなのだろうか……。
危機感と疑問に促されるまま、少女はよろよろと緩慢な足取りで宿屋の外へと向かう。
入り口のドアを開き、幅30メートルを超えるイースの東大通に出たところで少女は状況を把握した。
(街が……燃えている)
300メートルほど先にあるイース東門と城壁が大きく崩れており、周辺の建物が炎に包まれていた。
火の粉が舞い、闇夜を煌々とオレンジ色の光で染めあげている。
それだけでも十分脅威と不安を感じさせる光景と言えたのだが、問題はそれだけではなかった。むしろ、火災は副次的な災害でしかなかった。
視界に映る夥しい数の異形のシルエット。
遠目ではほとんど形のわからない数十センチ程度のものから、数は少ないものの10メートルを超える超大型の個体までいる。
種類も様々で、地面を這う芋虫のようなモンスターもいれば、猛々しく空を滑空する飛行型のモンスターもいる。
およそ足並みを揃えることなど不可能に思える雑多なモンスターの群れだが、数はざっと見ただけでも数百はくだらないだろう。
見えている範囲にだけいるとは思えないことから、後続も含めれば千以上いるかもしれない。
唐突に起きた災害に対して、プレイヤー側も無力ではなかった。既に数十人の人影がモンスター群の最前衛と交戦しているようで、金属製の装備品に反射する炎の照り返しや攻撃魔法の炸裂によって轟く爆音が少女の元まで届いてくる。
少女は事態の推移を予想した。
あれだけ大量のモンスターを彼らは駆逐できるだろうか? ……いや、無理だ。
イースには数万を超える戦闘プレイヤーが暮らしているとはいえ、深夜の奇襲から態勢を整えてモンスター全てを退治するまでには相当時間がかかるだろう。
それまでこの場所が、宿屋が安全地帯であり続けるか? ……答えは否だ。
現在進行形で緊急事態に気付いたプレイヤーが次々にモンスターとの戦線に加わってはいるが、各個撃破され過ぎている。
モンスター消滅エフェクトと同じ頻度でプレイヤーアバターのポリゴン爆散エフェクトが発生しているように見受けられる。
どちらかといえば少女は臆病な性質であった。このままこの場所に留まれば自身に危険が及ぶと予想出来ているのに、ただ立ち竦んでなどいられない。
少女は身を翻して宿屋の中に飛び込むと、大声で警告を発した。
「みんな起きて! モンスターの群れが街を襲ってる!」
騒ぎに気付いて既に起き出し、階段を下りてきていた数人の客たちが何事かと目を丸くして少女を見つめる。
しかし緊迫した少女の表情に事の重大さを理解した客たちは、踵を返して降りてきた階段を再び駆け上がっていく。
部屋の荷物を取りに戻ったか、仲間や他の宿泊客に警告しに行ったのだろう。
少女はそのことに一定の安心感を得ると、今度は自分の番だとばかりに宿屋の裏口に向かって走り出した。
一旦自室に戻らなかったのは、部屋にはあまり私物を置いてないことと、大事な物・価値のある物は常時インベントリに入れてあるからだ。
暗くても戸惑わないほどに親しみ馴染んだ宿屋の1階をあっという間に駆け抜け、施錠された裏口のドアを開けて裏路地へと飛び出す。
どこへ向かって逃げるかは考えてある。プレイヤーの裕福層が暮らす街の中央区画だ。
本来あまり関わりたくない相手ではあるが、知り合いの高レベルプレイヤーに保護を求めるしかない。
代価に後々どんな要求をされるか知れたものではないが、この非常時にえり好みしている余裕は少女にはなかった。
裏路地に出た少女はせめてもの護身用として、処分せずに持っていた初期装備のマインゴーシュをオブジェクト化させる。
包丁を扱う調理作業の過程で上昇した短剣スキルの習熟度が《786/2977》となっている。
戦闘は一度も経験したことがないけれど、これくらいあれば最低レベルのモンスター相手なら身を護るくらいはできるはず……と、右手に掲げもったマインゴーシュの重みをやや頼りなく感じながら、少女は内心で自分に言い聞かせ、不安を押し殺す。
我が身にせめてもの幸運を神に祈りながら少女は走り出した。
感想にて、不適切な表現についてご指摘がありましたのでいくつか修正しました。(2012/11/03)