花嫁の顔を消した男の、婚礼はない
薄絹の端が、オルセナの頬へ引っ掛かった。
「動かないで。そこはまだ、引っ張ると痛いだろう?」
ヴァルディスは笑いながら、彼女の左頬へ布を下ろした。前に立つ婚礼の肖像には、その布も、頬を横切る傷も描かれていなかった。
「絵のほうは、隠さなくて済むようにしてもらったよ」
傷はもう痛まない。頬にあるのは、布の縁を押しつける彼の指の硬さだけだった。
額を支えるネイヴェルの指がずれた。立てかける場所を探して絵を横へ向けたため、裏板がオルセナの側へ出ていた。手を添えると、木の縁から金具の先が浮いている。
「下ろしてください。裏の留め金が、浮いています」
ネイヴェルはすぐに膝を折った。オルセナも額の下を支え、近くの長椅子へ預ける。金具を避けた彼の掌に、細い血の筋があった。
オルセナは袖口に挟んでいた手巾を抜いた。
「こちらを。押さえておいてください」
「汚してしまいますよ」
「洗えます。それより手を見せていただけますか」
差し出された掌へ白い布を当てる。彼が指を曲げて押さえたのを見てから、オルセナは額から離れた。
手巾は、急に頬を見られたくなくなった時のために持っていた。今は手元になくても困らなかった。
「ありがとうございます。額は職人に確かめてもらいますね」
ネイヴェルの言葉に頷き、オルセナは絵の正面へ戻った。
薄青の衣装も、袖から出した指も覚えている。何度も腰掛け直した椅子の模様まであった。なのに自分の顔の一部だけがない。
「ヴァルディス様。頬を描き直していただけないでしょうか」
「どうして? そのほうが喜ぶと思ったのに」
「画家の方には、今のまま描いてくださいとお願いしました」
「僕が直してもらったんだよ。婚礼の記念だからね」
彼は絵の中の自分を確かめるように、襟へ触れた。
「父上からの贈り物なんだ。長く飾れる顔がいいだろう?」
「私には、こちらの顔が——」
自分の頬へ指を上げる。彼はその指を取るかわりに、ずり落ちかけた薄絹を整えた。
「それも持っていて。披露の時に使えるよ」
縁をつまむと、絹は爪の間へ小さく縮んだ。
絵の中の花嫁は隠さなくてよい。隠すのは絵の前にいる自分だけ。その違いを言葉にする前に、彼は額を壁へ掛ける場所の話を始めていた。
その夜、絹を外した頬へ湯に浸した布を当てた。熱すぎないのを確かめる癖は、まだ抜けない。
火事の夜には、こんなふうに触れることもできなかった。
あれは彼を外へ連れ出し、ようやく手当てを受けた後のことだ。
煙を吸った喉で息をすると痛かった。戸口に座るオルセナの前で、ヴァルディスは何度も名前を呼んだ。両手を伸ばしてきた彼が、頬の手前で動きを止めたのも覚えている。
「私は、この顔で帰ってきました」
包帯を押さえてそう言うと、彼は頬に触れず、彼女の手だけを握った。
「婚礼は変わらないよ。ちゃんと帰ってきたんだから」
その手が温かかった。
屋敷を出て行かなくてよいのだと、まず思った。春になったら庭の椅子に二人で座りたい。そんなことをまた考えてよいのだと思うと、泣いてしまった。
今、頬に当てている布はすっかり冷めている。
オルセナは布をたらいへ戻した。あの時と同じ手で絹を掛けられたことを、どう受け取ればよいのかわからなかった。
翌日の披露会の打合せには、バルサンド伯爵も来た。
息子に任せた支度の進み具合を聞き、招待客の顔ぶれを確かめる。肖像は金具を直すため別室にあり、伯爵はまだ見ていなかった。
「招いた皆様にも、お前なら彼女を大切にすると伝えた。頼めるな」
ヴァルディスは立ち上がった。
「もちろんです、父上」
差し出した右手を伯爵が握る。机を挟んだその握手の横で、オルセナは膝の上に手を重ねていた。
「父上がそう言ってくだされば、何も心配ありませんね」
彼の笑顔を、伯爵も笑って受け止めた。
そのまま次の支度へ話が移る前に、オルセナは口を開いた。
「伯爵様。肖像の仕上がりで、少し困っていることがあるのです」
「君が気に入らないところがあるのですか」
「頬が、私のお願いしたようには……」
「まだ自分の絵に慣れないんだよ。大きな絵だからね」
ヴァルディスが明るく口を挟む。オルセナはその声に顔を向けた。違うと言えばよかったのに、次に何を言われるか考えてしまった。
「まず二人でよく話してみてはどうでしょう。私からも画家には礼を伝えます」
伯爵は書きかけの招待状を揃えた。
感謝しなければならないのはわかっていた。絵を贈ろうとしてくれたことには、礼を言いたかった。
けれど頬の話は、まだ途中だった。
膝の上で手を重ね直した。指を隠せば、伯爵には力が入っているとわからない。そうして黙って座っていることなら、オルセナにもできた。
披露会の前日、広間へ入ると絨毯の端が靴底をくすぐった。椅子を運ぶ使用人の邪魔にならないよう、オルセナは壁際へ寄った。
奥の席には名札が並び、その脇へ肖像が運び込まれていた。額を包んだ白い覆いが、絵の足元にたまっている。
ヴァルディスは使用人に椅子の位置を示していた。
「オルセナは控えの間で休みます。人前へ出るのは気が進まないそうですから」
彼女は壁から手を離した。
「私が、そう申しましたか」
「無理をしなくていいということだよ。来た方には僕から挨拶しておくから」
「でも、私の席は」
「隣には絵を置くよ。皆に見てもらえるし、君も疲れずに済むだろう?」
彼が覆いを少し上げる。絵の中では花嫁の指が花婿の腕に添えられていた。
その手の位置も、自分で選んだものだった。絵のために彼の腕を取った時、袖の下で肘が動いた。くすぐったいと言って彼が笑い、オルセナも笑った。
今の彼の隣に、彼女の座る椅子はなかった。
「控えの間でしたらお茶も運ばせます。こちらへは呼ばず、休ませてあげてください」
使用人へそう告げた後、彼はもう次の卓へ歩いていく。
オルセナは追いかけなかった。絵の下へ近づき、覆いを直す使用人に会釈して廊下へ出た。
控えの間に一人で座り、お茶が冷めるのを待つ自分を想像した。隣の広間から拍手が聞こえる。自分の名も呼ばれる。なのに、行ってはいけない。
喉の奥が狭くなった。
出たい。
その願いはこんなに短いのに、彼へ話すたびに別の言葉にされてしまう。
オルセナは裾を持ち上げた。伯爵のいる部屋は廊下の先だ。扉の前で一度足を止め、握っていた裾を下ろしてから、取次を頼んだ。
伯爵の部屋では、暖炉の火が手の甲を温めた。オルセナは椅子を勧められても、まず立ったまま用件を伝えた。
「明日の披露には、私も出席いたします。絵の修正について、皆様の前でご相談したいのです」
伯爵の眉が寄った。
「出席を控えたいと聞いていましたが」
「私は、そのお願いをしておりません」
口にしてから、体が小さく震えた。息子を信じている父親にそう言って、嫌われるのが怖かった。
でも、出席したいのは本当だった。
「先日も絵のことを申し上げました。二人で話すようにとおっしゃいましたが、私は直してほしいともう頼んでいたのです」
伯爵は手元の紙を置いた。
「それで、直すことにはなっていないのですか」
「なっていません。伯爵様にも現物を見ていただきたいのです。私と絵が並んだところを」
伯爵はしばらく彼女を見ていた。それから空いている椅子を引き、改めて腰掛けるよう勧めた。
「一緒に見ましょう。明日、披露の時に。君から話してください」
オルセナは椅子の背へ指を添えた。手を支える場所ができて、ようやく深く息が入った。
「ありがとうございます。ヴァルディス様にも、今お伝えしてよろしいでしょうか」
呼ばれて来た彼は、椅子へ座った二人を見て笑った。
「なんだ、そんなに出たかったんだね」
「肖像の修正をご相談します。伯爵様にも見ていただきます」
「いいよ。あの薄絹を着けて来るなら構わないよ。気になるところは後で画家に伝えよう」
彼は父親を見た。
「心配しすぎなんです。皆、祝いに来てくださるのに」
「明日は私も見よう。そのうえで話を聞く」
伯爵の返事を聞くと、ヴァルディスは満足そうに頷いた。オルセナの肩へ手を置き、支度は済んでいるかと尋ねる。
彼の指が肩から離れるまで、彼女は待った。
「着るものは、自分で選びます」
「君の好きなものがいいね。あの絹に合うものにしたら?」
絹を着けると答えたわけではなかった。
今夜もう一度、自分の顔を見よう。その前に自分が欲しかったものを、誰かへ話してみたかった。
ネイヴェルは、取り外した梱包の布を畳んでいた。金具を直した額を運び終えたところで、上着の袖が少しまくれている。
「掌は、もう大丈夫ですか」
オルセナが尋ねると、彼は布を置いて手を返した。
「浅い傷でした。お借りしたものは洗ってあります。明日お返ししてもいいでしょうか」
「急ぎません。それより、絵について伺いたいのです」
彼は脇の椅子から布をどけた。オルセナが腰掛けてから、自分も向かいへ座る。
「肖像の頬を直すのは、難しいのでしょうか」
「私には仕上げのやり方まではわかりません。運ぶのを手伝っただけですから。描いた方へ尋ねることはできますよ」
「そうでしたね。ネイヴェル様に頼めば直せるような言い方をして、すみません」
「誰に何を聞くか、一緒に考えましょうか。オルセナ嬢は、どこまで直したいのですか」
問いがあまり具体的で、彼女は頬へ上げかけた手を止めた。
「傷を描いていただきたいのです」
「そのほかは、今の絵のままがよいのでしょうか。それとも受け取ることから考え直したいですか」
オルセナは膝に置いた指をほどいた。
「そこまで考えていませんでした。直してくだされば、前と同じように喜べると思って……」
「今、お決めにならなくてもいいですよ」
答えをせかさずに、彼は自分の膝から落ちかけた布を拾った。オルセナはその間に考えることができた。
前と同じ、とはいつのことだろう。
絵を描いてもらう前か。火事の前か。頬を直せば、それより後に言われたこともなくなるのか。
「婚礼の後は、庭へ出る部屋に飾りたかったのです。朝のお茶を飲みながら、今日は何を掛けようかと話して。時々は絵を入れ替えて」
「慈善市でも、入れ替えた方がよいとおっしゃっていましたね」
「あの時は、反対されました」
「小さな絵を隣に並べたかったので。最後は入れ替えましたけれど」
「入口から見たら、あの方がよかったでしょう?」
彼が笑う。頷くまで、オルセナは彼の返事を待っていた。自分の案が通ったことを、少し得意に思いもした。
結婚したら、こういう話もヴァルディスとするつもりだった。
「庭を見ながら絵の相談をするのが、楽しみでした」
「その相談は、必ずヴァルディス殿となさりたいですか」
ネイヴェルは問いを置いたきり口をつぐんだ。
オルセナは指先を膝へ押しつけた。彼が何かを約束してくれたわけではない。別の誰かと暮らす話をしているのでもなかった。
「……今は、答えられません」
「では、今は決めないでおきましょう」
断っても、彼は椅子から立たなかった。
隅の布を畳み直しながら、慈善市で話した小さな絵がまだ売れていないと教えてくれた。オルセナは少し笑った。買い手がつくよう祈りながら、まだ見られるのを嬉しいとも思った。
披露の日、伯爵家で借りた支度の部屋で、オルセナは櫛を置いた。鏡台に触れた指が冷たい。
オルセナはその指を両手で包んでから、自分の左頬に当てた。傷をなぞると、途中で皮膚の滑りが変わる。何度も触れて知っている形だった。
「私は、この顔で帰ってきました」
部屋には彼女しかいない。口に出してみると、火事の夜に聞いた返事を待ってしまった。
婚礼は変わらないよ。
その約束を聞いた時には、握られた手を握り返した。彼を助けた代わりに貰った褒美だなんて、思いもしなかった。
窓の下に、庭へ降りる小道がある。
この屋敷の春には来たことがある。花の下に置かれた椅子へ座ると、腰が深く沈んだ。ヴァルディスが出してくれたお茶を飲み、毎年ここへ来たいと話した。
結婚すれば、客として帰る時刻を気にしなくてよくなる。その小さな願いを、指折り数えるほど楽しみにしていた。
部屋の端には、支度のために運んでもらった婚礼着の箱が積んであった。
袖の内側が擦れないものを選び、何度も試して揃えた衣装だ。蓋を開けると、縁飾りを縫った細い糸が爪に掛かった。彼の隣で着るところを想像するのは、今でも難しくなかった。
薄絹も着けてしまおうか。客の前に出る間だけ。帰ってきて外せば、彼は以前のように話してくれるだろうか。
箱の縁を握った手に、力が入った。
そうやって婚礼を迎えたら、次の絵でも同じお願いをすることになる。次の客が来た時も、今日は隠れていようかと、先に考えることになる。
オルセナは婚礼着の蓋を閉じた。
棚から出したのは、披露のために用意したドレスだった。袖の中へ腕を通す。選んだ時に思ったとおり、肘を曲げても内側が引っ張られない。
髪を整え、薄絹を手に持った。
誰にも見せたくない日なら、自分から掛けていただろう。今日は自分も出席したいと願って、伯爵へ話しに行った日だ。
鏡の前で頬を隠してみてから、やめた。
手紙をしたためる机には向かわなかった。何を話すかは、もう自分の中にあった。どんな返事になるとしても、好きだった人の顔を見て伝えたい。
扉へ向かいながら、婚礼着の箱を振り返った。すぐには足が出なかったが、戻って蓋を開けることもしなかった。
控えの間へ着くと、掌にぴたりと収まらない箱を渡された。
両手で受け取る。蓋の角には金の飾りがつき、持つだけで手の置き方に迷った。
「ネイヴェル様。これは何でしょうか」
「お借りした手巾です」
開けると、箱の真ん中に白い布が畳んであった。周りの布張りのほうがずっと広い。
オルセナは箱から顔を上げた。
「手巾は、こんなに大きくありませんでした」
「ちょうどよい箱を探したのですが。店で小さく見えたものが、その……」
彼は箱と彼女の両手を見た。
「入れてみるべきでしたね」
思わず笑うと、張っていた背中から息が抜けた。手巾を取ろうと片手を離すと箱が傾き、ネイヴェルが下を支える。
「箱は私が持っておきます。布だけで、よいでしょうか」
「お願いします。手巾より箱を落とす方が心配です」
彼も笑った。
洗って柔らかくなった手巾を受け取り、袖口へ挟む。薄絹は反対の手に持ったままだった。ネイヴェルはその絹にも、頬にも手を伸ばさなかった。
扉が開き、伯爵が入口に立った。
「お支度はよろしいですか、オルセナ嬢」
「はい。参ります」
伯爵は広間へ戻った。ネイヴェルも箱を脇へ置き、先に入ってよいか尋ねた。オルセナは頷いた。
一人になった控えの間で、靴の中の指を一度曲げる。
絹をつまみ直して、扉へ向かった。
広間には杯の触れ合う響きが満ちていた。こちらへ向いた顔の中に、よく知る人もいる。頬を見られると背中が強張ったが、そのまま歩いた。
ヴァルディスの隣には、覆いを外した肖像が立っていた。
彼女を見つけた彼が片手を上げる。その手が自分の頭へ向くのを、オルセナは見ていた。絹がないことを教えているのだとわかった。
返事をせず、絵の前まで歩いた。
薄絹を手から落とした。
持ったままでは、またその端を握り潰してしまう。開いた指の下へ絹がたまり、床へ滑った。
広間には開いた窓があった。そこから入る夜気が、左右の頬を同じだけ冷やした。
オルセナは肖像の隣に立った。
「この顔を描き直していただきたいのです」
バルサンド伯爵が絵と彼女を見比べた。杯を置く音が、広間の奥から重なった。
「君が望んだ仕上がりでは、なかったのですか」
「違います。直してほしいと、先日もお願いしました」
ヴァルディスが彼女の肘へ指を添えた。
「だから、皆の前で言わなくてもいいだろう?」
「伯爵様と、ここでご相談するお約束です」
「絹はどうしたんだい。せっかく用意したのに」
彼は足元へ屈み、薄絹を拾った。広げて、彼女の頭へ戻そうとする。
オルセナはその下をくぐらず、一歩退いた。
「これなら隠れるよ。絵と違うと、君だって比べられるじゃないか」
絹を持つ手の脇から、絵の中の自分が見えた。あちらの花嫁には、退く足も口もない。
伯爵の手が止まった。
「ヴァルディス。その傷は、お前を助けた時のものだろう」
「知っています。だから結婚もやめなかったんです。でも家に飾る顔くらい、皆が喜ぶものにしておきたいでしょう」
オルセナは彼の口を見た。
だから。
その言葉の後には、礼が続くと思っていた。何も続かなくても、彼がここに立っていれば、火事の夜と同じように手を伸ばしたくなった。生きていてくれてよかったと、今でも思っている。
隣にいた客が、ヴァルディスから離れた。その人の裾が椅子へ触れ、脚が短く鳴った。
オルセナは握っていた手を開いた。掌に爪の跡が白く残っている。
「私は、この顔で帰ってきました」
彼が絹を下ろした。
あの火の夜、戸口で何度も呼んでくれた名前を、今は言わなかった。
「あなたのところへ帰れて、嬉しかったのです。結婚をやめなかったと、感謝するためではありません」
「オルセナ。絵なら、直せば済むだろう」
彼の指が、今度は花嫁の頬を指した。絵の中の、消されたところを。
オルセナは自分の頬へ手を上げなかった。
「婚礼はしません」
声は震えなかった。オルセナは息を継ぎ、彼の返事を待った。
彼の口が動く。言葉になる前に、一度閉じた。
「……父上がこんなに支度してくださったのに。困らせる気かい?」
オルセナは伯爵へ向き直った。
「お招きいただいた皆様には、申し訳ありません。伯爵様、私は先日も困っていると申し上げました。まず二人で話すようにと戻されて、言えなくなりました」
伯爵は顎を引いた。何かを言いかけ、息を整えてから彼女を見た。
「確かめずに済ませました。私が、ここで聞くべきでした」
「今、聞いてください。私はヴァルディス様とは結婚いたしません」
「承知しました」
伯爵は花婿の席へ手を伸ばし、息子の名札を取った。
「私は皆様へ、お前が彼女を大切にすると申し上げた。その言葉を撤回します」
ヴァルディスが父親へ顔を向けた。
「父上、絵のことで、そこまで——」
伯爵は卓へ名札を伏せた。オルセナの肩が動くほど硬い音が響いた。ヴァルディスはその先を続けなかった。
「この方を隠して迎える家に、私の名は使わせません。今後もです」
ヴァルディスが父へ手を伸ばした。
打合せの席で握り合ったのと同じ右手だった。伯爵は取らず、客の方へ向き直った。
「婚礼のお披露目は取りやめます。お集まりいただいたお詫びは、私から改めて申し上げます」
差し出された手の先から人がいなくなった。ヴァルディスは指を曲げ、握るものを探すように薄絹をつかんだ。
絹。杯。空席。
誰も座ろうとしない花婿の椅子に、白い薄絹だけが垂れていた。
オルセナはその椅子へ近づかず、広間の入口へ向かった。
「待ってくれ。画家を呼ぶよ。君の言うとおりに描いてもらうから」
足を止めると、ヴァルディスはすぐに近づいてきた。絹は椅子に残したままだった。
「ほら、もう隠さなくていいんだよ」
そう言って、彼は彼女の頬を見た。
「ヴァルディス様に、隠してよいか決めていただくことではありません」
彼の腕が下がる。
オルセナは伯爵へ一礼した。
「婚約を解消するお話は、領地の両親へお願いいたします。私も帰って伝えます」
「君のご両親へ書面を送ります。帰りの支度は、手を貸しましょうか」
「馬車を呼んでいただけますか。泊まっている家へ戻って、そこから領地へ帰ります」
伯爵が使用人へ合図した。オルセナは礼を言い、広間を出た。
廊下を曲がるまで、背中の布が引かれるような気がした。それでも、呼び止める声を待って足を緩めることはしなかった。
玄関へ下りる階段で、手すりの丸い端を強く握った。膝が震えているのに気づき、急がずに一段ずつ下りた。
下にはネイヴェルがいた。あの箱を両手に持っている。
「お帰りでしたら、私の馬車をお使いになりますか」
「ありがとうございます。でも、自分の馬車を呼んでいただきました。両親に話して、領地へ戻ります」
「そうですか。では、ここでお待ちしますね」
彼は箱を抱え直して脇へ寄った。隣へ並んでも、今夜のことは尋ねなかった。
オルセナはその掌を見た。布を当てたところに小さな線が残っている。彼の手を取って、階段で怖かったことも話したくなった。
けれど今、伝えたいのは別のことだった。
「ネイヴェル様。今度、絵の展覧をご一緒していただけますか」
彼が顔を上げた。
「私と、ですか」
「はい。来月の初めに王都へ戻る用事があります。その時に。ご予定はいかがでしょうか」
「初めの週なら、午後は空けられます。お迎えに伺っても?」
「三日の午後に、泊まる家へお願いします」
声に出すと、帰ってから先の予定ができた。
庭の椅子に座れなくなったことは、まだ寂しい。あの箱の婚礼着も、いつ片づけられるかわからない。それでも自分で次の約束を決めることはできた。
ネイヴェルが箱を少し持ち上げた。
「ところで、こちらは。本当にお要りになりませんか」
「馬車の席が手巾の箱で埋まってしまいます」
「では、私が持ち帰ります。中に何を入れましょう」
「次の絵を見せてください。手巾より小さい絵でしたら、きっと入ります」
言ってから吹き出した。彼も笑い、開いた玄関から近づいてくる馬車へ目を向けた。
今度会う時は、絵の相談だけではないと話そう。
誘った理由を、彼に推し量ってもらうのはやめよう。オルセナは手巾を持つ袖に触れ、玄関を出た。
婚約の解消は、両家の書面が往復してから決まった。オルセナは帰郷した日のうちに両親へ自分の返事を伝え、支度の品を返す段取りにも加わった。婚礼着の箱を開けた日は泣いたが、その箱を王都へ持ち帰りはしなかった。
展覧を見終えた午後、馬車へ乗ると、座面の布がスカート越しに柔らかかった。ネイヴェルは向かいに腰を下ろした。窓が開いていて、肩が少し冷える。
「お疲れではありませんか」
「楽しかったです。最後の風景画を、もう少し見ていたかったくらい」
「また見に行きましょうか。今度は先に、あの部屋へ」
「絵も見たいのですが、今日はお伝えしたいことがあります」
手巾を袖から取り、膝へ置いた。指で畳み直そうとして、やめる。
「ネイヴェル様にお会いしたくて、お誘いしました。絵のことで困っていたからではなくて」
彼は窓枠へ置いた手を引いた。こちらを向いたまま返事がなく、オルセナは急に、手巾を畳みたくなった。
「私も、お会いしたかったのです。絵の話ばかりしてしまいましたけれど」
「それなら、私もたくさんいたしました」
「次は、お茶だけにしましょうか」
「絵を見てもよいと思います」
彼は笑いかけてから、改めて背を伸ばした。
「では、絵の話をしに伺ってもよいですか。展覧の時だけでなく、オルセナ嬢に会いに」
「お待ちしています」
肩へ入り込む風に、彼女は脇へ置いた肩掛けを取った。出掛ける前、自分で選んだ柔らかいものだ。頬には掛けず、肩を包む。
窓はこのままでよいかと尋ねられ、オルセナは頷いた。少し寒くなったら閉めてほしいと頼む。それなら、と彼も頷く。
そのやり取りをもう少し続けたくて、次に来る日は晴れているだろうかと話した。
膝の手巾は、開いたままだった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
ネイヴェルの返礼の箱は、書く前から楽しみにしていた小道具です。丁寧に返したいのに、大きさを確かめるところでうっかりする。そんな失敗なら、この人にもしてほしいなと思いました。箱を抱えて玄関に立たせたら、何を入れて持って帰るのか、こちらまで気になってしまいました。
書いていて迷ったのは、オルセナが婚礼着の箱を閉めるところです。嫌なことを言われても、好きだった庭や衣装まで急に嫌いにはなれないはず。その未練をどれだけ残そうかと、何度も手を止めました。最後の馬車では二人にもう少し絵の話をさせたくなりましたが、次の訪問まで取っておくことにしました。
◇◆◇ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ ◇◆◇
理不尽に切り捨てられた令嬢たちの、一話完結の物語です。
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「お前は道具だった」と笑った婚約者が、5年後に物乞いになって戻ってきた件
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