最愛の人を救うためならば
ゆるふわ世界観なのでゆるふわでお読みください。
いつものこってり長文です。なんでこんなに長くなるんだろ……。
あっさり風味を目指した短編も同時に投稿してるので、よかったらそちらもお読みください。
「どうか、私の恋心を使ってくださいませ」
凛とした声が響いた。
ひたむきな眼差しでそう言った少女の鬼気せまる気迫に、居合わせた者は皆息をのんだ。
少女の目線の先には、意識朦朧としながら苦しんでいる青年がいる。
少女は荒い息を吐く青年だけを、ただ一心に見つめていた。
王太子が呪いに倒れたという知らせは、ミザレアの元に密やかに届けられた。
ミザレアは王太子であるフィリップの婚約者である。
幼い頃に初めて会ったフィリップに一目惚れしたミザレアが散々に強請り、結ばれた関係だった。
ミザレアの生家は公爵家であり、数ある貴族達の中でも抜きんでた存在だ。
しかし、長らく王家と釣り合う丁度いい年回りの子が産まれておらず、王家とはしばらく縁が結べていなかった。
そんな中で王子の少し後に産まれたミザレアは元から王家に嫁ぐことを期待されており、顔合わせで都合よく恋に落ちたことからこれ幸いとばかりに結ばれたという事情もあったのだが、それに納得しなかったのがフィリップだ。
フィリップは輝くような金色の髪と深い青の瞳をした、絵に描いたような美しい王子だ。
一方、ミザレアは下級貴族によくいるブラウンの髪にオリーブグリーンの瞳で、顔立ちは愛らしいものの少し地味な印象を受ける少女だった。
そんな少女に強請られたからと自分を下げ渡されたように感じ、フィリップはミザレアに複雑な感情を抱いていた。
ミザレアが優秀だったのもよくなかったのかもしれない。
フィリップも普通より優秀ではあったが、ミザレアはそれに輪をかけて、いや、それ以上に優秀だった。
フィリップの王太子教育を、王太子妃教育を既に終わらせたミザレアが一緒に受けていたといえばその優秀さの一端でも伝わるだろうか。
ミザレアにとってフィリップに合わせた速度は物足りないはずなのに、フィリップと一緒に居たいからと同じように学ぶ姿は人によっては健気と称するだろうが、フィリップにとってはただの恥辱でしかなかった。
だからか、成長したフィリップは、他に癒しを求めた。
美しい令嬢や夫人、更には下働きの少女とまで見せつけるように戯れては、ひと時の恋を楽しむ。もしかしたら、その度に傷ついた顔をして、それでも自分を一心に見るミザレアの顔こそ楽しんでいたのかもしれない。
ミザレアが何も言わないから、両親である国王夫婦がいくら窘めてもフィリップの遊び癖は直らず、次第に諦めた周囲も何も言わなくなった。
その結果が、これだ。
フィリップの全身の肌には、真っ黒な茨が巻き付くような醜悪な痣が浮き出ていた。フィリップが苦し気に息を吐く度に、茨も不気味に蠢く。生理的嫌悪を感じさせるそれは、対象を苦しめ、最後には命を奪う呪いだった。
フィリップの浮気相手の一人が、突如彼に漆黒の液体を浴びせたかと思うと毒を飲み自害したのだ。
液体を浴びたところから芽吹くように、茨のような痣は瞬く間にフィリップの全身に広がった。そうしてフィリップは倒れ、異常に気付いた侍従が呼んだ魔術師により、呪いだとわかったのだ。
その呪いが全身に回りきり、茨が心臓に達してしまったら死に至る。
解呪する方法はただ一つ。専用に調合された薬を飲むことだけだ。
しかし、この薬を作るには一つだけ問題がある。それが、特殊な花が必要なことだ。
その花は自然界には咲かない。種を人間が飲むと、その恋心を糧として芽吹き、美しい花を咲かせる。そうして、満開に咲く時にはその恋心を残さず吸い尽くしてしまうのだ。
呪われた相手に対する一途な恋心から咲いた花、それも満開のものが絶対に必要なのだ。
最初はフィリップの遊び相手から採取しようとしていたのだが、彼女らは誰も純粋に恋などしていなかった。
王太子という立場に付随する権力、富に魅せられているものばかりで、志願者に飲ませてみたところで種は根付かなかったのだ。
だから、最終手段としてミザレアを呼ぶしかなかった。
花が咲く程純粋な恋心を持っているのは、ミザレアしかいないと誰もがわかっていた。
しかし、皆その手段だけは躊躇った。いくら無下にされてもひたむきにフィリップを慕うミザレアからその恋心すらも取り上げるのは、あまりに酷い行為に思えたからだ。
だがフィリップは王の唯一の子であり、失うわけにはいかない人物だ。遊び相手全員に飲ませて失敗した後、茨の呪いが進むフィリップを見た王は、断腸の思いでミザレアを呼び寄せることにしたのだった。
ミザレアはフィリップが呪いに倒れたと聞くや否やすぐに駆け付けた。
「フィリップ様……!」
ミザレアは不気味な茨の痣が全身を覆うフィリップを見ても気丈にも悲鳴すらあげず、事情を聞いて躊躇わず恋心を捧げることを選択した。
ミザレアの決心を、王は悲し気な目で聞き入れた。
「……まずは、感謝を。ミザレア嬢の勇気と献身に心からの感謝を捧げる。しかし……、そんな厳しい決断をしてくれたミザレア嬢に言うのは申し訳ないが、例え恋心を失ったとしても、二人の婚約は破棄できん。それでも、その恋心を捧げてくれるだろうか?」
「勿論ですわ。私の恋心一つでフィリップ様が救われるのなら、これ以上の光栄はございません。元より貴族令嬢である以上、恋などせず嫁ぐのが普通です。今まで私の恋心を許していただけていたことこそが、身に余る幸運だったのですわ」
「…………そうか」
迷いなく言いきるミザレアに、王はしばし目を閉じた。
少しの間沈黙が場に満ちる。次に目を開いた王は、為政者の目をしていた。
「では、ミザレア嬢に命じる。その恋心を使い、王太子の呪いへの特効薬を作成せよ」
「かしこまりました」
完璧な礼をしたミザレアに、その場にいた者は心からの敬意を捧げた。
ミザレアは手の中の種を転がした。
小さな小さな種だ。それが今からミザレアの恋心を吸い尽くすのだと思うと、不思議な気持ちがした。
女性の薬師が一人、沈痛な面持ちでミザレアの傍らに控えている。花が咲いたらすぐ採取し、薬を作るためだ。そして、これから起こることをミザレアに説明する係でもある。
薬師は少し躊躇ったのち、諦めたように口を開いた。
「……ミザレア様がその種を飲まれましたら、胸元から種が芽吹きます。多少の痛みはあるかもしれませんが、実際に肌を突き破って生えてくるわけではございません。後遺症等はありませんのでご安心ください。恋心の多寡に応じ咲くまでに少し時間はかかりますが、花は満開になったらすぐ枯れてしまいます。咲ききったら私が採取させていただきますが、人によっては眩暈や虚脱感等があるそうです。そうして、採取後は心の整理の為か例外なく眠りつかれるとのことです。ですので、こちらで横になってからお飲みください」
「ふぅん。不思議なものね……」
「簡単ですが、説明は以上となります。何か質問等はございますでしょうか?」
「恋心は全て無くなるのかしら? それに伴う情とかもなくなってしまうの?」
「文献によりますと、間違いなく恋心は全て無くなります。長年寄り添った夫妻の妻が恋心を捧げた記録がございますが、恋心とそれを核として育まれた感情はほとんどなくなったそうです。ただ、長き間一緒に居たことで築かれた愛情だけは残ったとか」
「そうなの……。では、私には何も残らなさそうね」
「…………」
「あぁごめんなさい。困らせてしまったわね」
「とんでもございません」
静かに頭を下げる薬師に、ミザレアは苦笑した。
本当に、素直な感想が零れてしまっただけなのだ。それだけミザレアとフィリップの関係は希薄だった。それなのに、ミザレアの恋心だけが今なお燃えるような熱を持っているのだ。
これが無くなればどうなるのか、ミザレアには見当もつかない。フィリップと一緒にいれるだけで嬉しかった。他の人に愛を囁くのが悲しかった。その視線が気紛れにこちらを向くだけで天にも昇る心地になった。それを、今から無くすのだと思うと凍てつく風に吹かれたような心もとない気持ちになる。
けれどフィリップの命がかかっているのだ。それなら、この気持ちを捧げるのに躊躇などない。
「こちらの寝台でよろしい? 胸元は開けた方がいいかしら」
「いえ、服はすり抜けるそうですのでそのままで結構でございます」
「まぁ、本当に不思議なお花なのね。でも有り難いわ。一人では脱げないもの」
「……ミザレア様、本当によろしいのでしょうか。吸いだされた恋心は二度と戻りません。あれ程邪険に扱われてもずっと大事にされていたその御心を、こんな……なにか、他の方法はないのでしょうか……」
悔しそうにそう言う薬師に、ミザレアは柔らかい笑みを向けた。
「ありがとう。でもいいの。フィリップ様にはずっといらないと言われていたのに、私だけが大事にしていたものだもの。最期にフィリップ様のお役に立って消えるのなら、それが一番だわ。……さぁ、こうしている間にもフィリップ様は苦しまれているのだもの、早く薬を作っていただかないと。もう飲んでしまってもかまわないかしら?」
「……差し出がましいことを申し上げました。大変申し訳ございません。こちらの準備は済んでおります。どうぞ、ミザレア様の御心のままに」
「いいえ、私を思っての言葉嬉しかったわ。ありがとう。後は、よろしくね」
ミザレアは柔らかな微笑みを浮かべ、そっと種を口に運んだ。それを口に含む刹那、手が止まる。
脳裏にフィリップと初めて会った日の記憶が鮮やかに蘇る。
絵本から飛び出てきたような美しい王子様が、優しく自分に手を差し伸べてくれた時の胸の高鳴りは今でも思い出せる。王子様は丁寧にエスコートして、様々咲く花の名前を教えてくれた。そして、まるで詩でも朗読するような朗々とした声にただ聞き惚れるミザレアに、優しく笑って小さな花を一つ手ずからミザレアの髪に飾ってくれたのだ。
「やっぱり、ミザレア嬢のブラウンの髪には、野に咲く花がよく似合う」
そう言って笑う美しい王子様の目を見て、ミザレアは恋に落ちたのだ。
それからずっと大切に大切にしてきた恋を、これから無くすと思うとじわりと涙が滲んだ。ミザレアの何より大切な宝物。ずっと抱き続けたかけがいのない思い。けれど、フィリップの命には、替えられない。
「ミザレア様……」
「大丈夫。大丈夫よ。手を止めてしまってごめんなさい。私がグズグズしている間にも、フィリップ様は苦しみに耐えておられるのですもの。それを思えばこんな躊躇なんてしている場合ではないわ……だから、大丈夫」
少しだけ目をつぶる。大切な思い出が走馬灯のように流れるが、そのどれにもフィリップが居た。その微笑みが失われるなんて、耐えられないと思った。
やがて目を開いたミザレアは意を決して、種を飲んだ。
途端に、胸のうちから何か吸い出されていく感じがする。胸の谷間が熱くなったかと思うと、そこからあっという間に半透明の茎が伸び葉が生い茂り、大きな大きな蕾がついた。
「文献では花の大きさが思いに比例すると記載されてましたが……まさか、こんなに大輪だとは」
薬師が茫然と呟いた。
神秘的な光景だった。半透明の花はほのかに輝きを放っていて、大きな蕾が少しずつ綻んでいく様子は思わず魅入られてしまうような迫力があった。
けれど、その美しさに惑わされタイミングを間違っては取り返しがつかない。薬師は首を振り、真剣な目で花が徐々に咲くのを見守った。
ミザレアはぼんやりと花を見つめた。
蕾が綻ぶ度、半透明だった茎が鮮やかに色づいていく度、ミザレアの心から何かが消えていく。それが思いの外気持ちよく、解放感まであって、ミザレアは自分の恋心がとっくに自分にとっても重荷になってしまっていたことを思い知った。
痛みはないが、倦怠感が酷い。横たわっていてよかったと息をついた。
二人が見守る中、ついに花が満開を迎える。
この世のものとは思えない程、美しい花だった。表面はまるでオーロラのようにキラキラと複雑な色に輝き、角度ごとに色が変わって見える。薄い花びらが幾重にも重なる様は貴婦人のドレスを思わせ、ふわりと揺れる姿がなんとも優雅だった。
それは、見ている者の胸を締め付けるような、切なくなる程美しい、あだ花であった。
薬師が震える手でそっと花を掴む。引き抜こうとすると少しだけ抵抗があったが、すぐに諦めたようにするりとミザレアの胸から抜けた。
「あ……」
その時、ミザレアの口から吐息と共に、悲鳴のような、感嘆のような声が漏れる。
ずっと大事にしていたものが跡形もなく消え去ったのがわかって、一粒だけ涙が零れた。取り返しのつかない喪失感と、長い間持ち続けた荷物を下ろしたような爽快感がぐるぐる渦巻いて気分が悪くなりそうだ。
そうして、強烈な眠気によってミザレアの意識は閉じる。
最後に瞳に映った花は、哀しいほどに、ただただ美しかった。
いたい くるしい つらい だれか だれかたすけて
全身に巻き付く茨がじわじわとその身を伸ばす。その度に鋭い棘が肌に食い込み、耐えがたい苦痛を与えてくる。
あまりの辛さに悲鳴をあげることも、身をよじることさえも許されない。分厚く絡みついた茨は身体の自由を奪い、何一つ思い通りにさせてくれない。
出来ることは、耐えることだけ。茨が身の内にまで入り込み、その心臓を貫く時を抵抗も許されず耐えることだけが、出来ることだった。
フィリップは絶望していた。
絶え間なく続く苦痛が最後には自分の命を奪うのだとわかっているのに、出来ることは何もないのだ。
誰かに助けを求めることすら出来ない。フィリップの喉には茨が巻き付いており、声を出そうとすればそれが痛みと共に阻んでくる。どれだけ辛いか誰かに訴えることも、悲鳴をあげることさえも出来なかった。
あまりの痛みにいっそ意識をなくしてしまいたいのだが、それさえも不可能だ。茨はフィリップが気絶しそうになる度、締め付けを強くする。まるで逃げることは許さないとでもいうように。強まる痛みのせいで覚醒してしまい、ろくに眠ることすらできない。
死にたいわけではないが、それでもこんな苦痛を味わい続けなければならないくらいなら、一刻も早く茨が心臓まで届いて欲しいと願ってしまう位には、フィリップは絶望していた。この苦痛から早く解放されたかった。神に、誰かに縋るように祈る。助けて、と。誰でもいいから助けてくれ、と。ただただ必死に。
(とても、かなしいめだわ。さみしそう)
不意に、地獄のような苦痛が少し和らいだ。
幼い少女の声がしたかと思うと、茨が力を失う。
声とともに流れ込んできたのは、温かい記憶だった。
記憶の主である少女の目の前に立つのは、同じく幼い少年だった。
微笑みを浮かべているもののその目が暗く陰っているのに、少女だけは気付いているようだった。心から相手を案じる少女の心がフィリップに流れ込み、また茨が少し力を失う。
倦んだ目をしながらも少女を優しく気遣う少年の姿に、少女の胸がきゅうっと痛くなる。少年の為に何かしたい。どうすれば少年が幸せになれるのかと一生懸命考えて、ついに少女は素晴らしい考えを思いついた。
(そうだ! わたしがいっしょにいれば、きっとさみしくないよね。それなら、ずっとずっといっしょにいれるようにおねがいしよう!)
ひどく純粋な願いに、茨の一部が枯れた。
次に流れてきた記憶では、少年は少し成長していた。
優しく微笑む少年の瞳が前より温かくて、記憶の主は歓喜していた。
(本当によかった! 私も、もっと頑張らないと。ずっと一緒にいれるように)
それから少女は寝る間も惜しみ努力した。
少しでも役に立てるように、彼に相応しいように。
だから、気付かなかった。一緒にいるより学ぶことを優先する少女に少年の笑みが消えたことに。少女が優秀さを褒められるたびに、少年の心が傷ついていたことに。
少女の努力が実り一緒に王太子教育を受けられるようになった時には、少年の瞳はまた温度を失っていて、少女は自分の努力が足りなかったのだと自分を責めた。
それでも少年を思う少女の心に、茨がまた少し枯れた。
(あなたの優しいところが好き。私の好きなものを覚えてくれていて、お茶会で出してくれるところが好き)
(あなたの寂しがり屋なところが好き。私が会いに行ったら、とても嬉しそうな顔をしてくれるところが好き)
(あなたの傷付きやすいところが好き。繊細で優しくて、だからこそ脆いのだもの。欠点という人はわかってない。将来国を背負うことになるんだから、弱者に寄り添えるその御心は立派な長所よ。私が強くなってずっとまもってあげるから。だから、どうか笑っていて)
少女の温かな恋心が流れ込む度に、茨が力を失い、枯れていく。
気付けば耐え難かった苦痛もほとんど消えていた。まるで、少女の恋心がフィリップを護るかのように。
痛みに耐え疲れ切った身体と心に、優しい思いが染みわたっていく。フィリップを慰めるようにただ寄り添う温もりの心地よさに、溺れてしまいそうだった。
『どうして……』
しかし、次に流れてきた記憶はせっかく温まったところに氷水をかけられるような、ひどく冷ややかなものだった。
その記憶の中ではすっかり成長した青年が、少女以外の女を侍らせている。
立ち竦む少女を、青年は鼻で嗤った。
『心配しなくても、次期王妃は君に決まっている。誰もが褒める程優秀で完璧な君なのだから、少しの息抜き位大目に見てくれるだろう?』
『……殿下がそう、望まれるのでしたら』
『はっ。流石、次期王妃様ともなれば器が大きい』
決してそんなことはない。少女の心は今にも張り裂けそうな程痛かった。
それでも青年が幸せならそれでいいと、少女は口を閉じる。顔に微笑みを浮かべたままの少女をつまらなそうに見て、青年は女と歩き去った。
少女の痛みに打ちのめされるように、茨がまた枯れる。
それから他の女とばかり戯れ、少女をないがしろにする青年に、少女はひどく傷ついた。
(それでも、あなたが幸せならそれでいいのです。その女と共にいるのがあなたの幸せなら、こんな痛み、無視できる)
どこぞの女と過ごしたのだろう。気怠そうな雰囲気でお茶会に遅れてきたこともあった。
少女との話の最中、声をかけてきた女を優先して置いて行かれたこともあった。
面と向かって鬱陶しい、お前の恋心なんていらないと言われたことすらあった。
それでも好きだった。諦められなかった。一緒にいられるだけで幸せだった。
だけど、
『どうか、私の恋心を使ってくださいませ』
どんな仕打ちを受けても挫けず持ち続けた恋心を、ミザレアはフィリップの為に迷わず捧げたのだ。
その愚かまでに純粋な恋心が、ついに呪いの核を打ち砕いた。
「ちがうんだ……」
茨が枯れ、目覚めたフィリップはそう呟きながら涙を零した。
フィリップが起きたことに周囲が騒いでいるがどうでもいい。
譫言のように、ちがう、ちがうと繰り返す。
だって、聞かされていたのだ。
ミザレアは、公爵家は王妃となることに執着しているのだと。
王太子教育にまで乗り込んでくるのがその証拠、フィリップを軽んじ実権を握ろうとしているのだと。
『フィリップ様、ミザレアがずっとずっとおそばにおりますね』
忙しい両親に放っておかれ、ろくに愛情を感じたことすらないフィリップの手を取り、そう優しく言ってくれた女の子は、もういないのだと。
偽りの恋心でフィリップを騙そうとしているのだと。優秀なミザレアは本当は容姿しか取り柄のないフィリップのことを蔑んでいるのだと。女遊びをするフィリップを見て顔を歪ませるのは、取るに足らない婚約者に蔑ろにされる屈辱のせいなのだと。
そう、色々な者に囁かれて。いくら粗雑に扱おうが文句ひとつ言わないミザレアに真実なのだと思って。だから、だから、だから! 傷つけ、疎んじ、遠ざけたのに!
それなら、先程流れてきた記憶はなんなのだ!
苦しみから救ってくれた、あのあたたかさは!!
直に感じたフィリップにはわかる。あれは嘘偽りなど入る余地すらない、真実なのだと。剥き出しの気持ちそのままだと。
きっとあの呪いはその愛に負けたのだ。悪辣な呪いはミザレアの真実の愛の前に逃げ出し、だからこそフィリップは目覚められた。
だとしたら、フィリップが今までしてきたことは。
「あやまら、ないと……」
ふらつく足で無理矢理立つ。周囲が引き留めようとするのを無理矢理振り払い、フィリップはがむしゃらに歩き出した。
「ミザレアに、あやまらないと」
ミザレアならフィリップの一大事にすぐ近く、それこそ横の部屋にでも控えているはずだ。
そこで待つミザレアに今までの行為を誠心誠意謝るのだ。裏切られたという思いと優秀なミザレアへのコンプレックスで曇っていた目は、彼女の恋心が晴らしてくれた。
だから真摯に謝って、それで、もう一度二人で話し合おう。話し合ってミザレアが許してくれたら、今まで傷つけた分を償うためにミザレアを大切にして、そして、そうして、フィリップもミザレアを愛していると伝えるのだ。ずっと一緒にいると愛らしく微笑んだ女の子に、恋をしたのだと。
そう思い描いた輝かしい未来は、どこにもミザレアが居なかったことですぐさま色を失った。
「ミザ、レア……?」
「ミザレア様は現在静養中です。今はお会いできません。殿下も意識が戻られたばかりで絶対安静です。ベッドにお戻りください!」
ミザレアを探しに行こうとするフィリップを捕まえ、医師達がベッドに引き戻した。
色々な検査を受けながら、フィリップが考えるのはミザレアのことだけだった。静養中とのことだが、どうしたのだろうか。もしやフィリップのことを聞いてショックで気を失ったのかもしれない。もしそうなら見舞いに行きたいが、ベッドに横たわったことでフィリップは全身の疲労具合に気付いてしまい、とても動ける状態ではなくなってしまった。
呪いの後遺症か、倦怠感や眩暈もひどい。これでは見舞いに行ったところで逆に迷惑だろう。それなら、フィリップが治ったことを聞いてミザレアが会いに来るのを待った方がいいかもしれない。
そう思ったフィリップは侍従に声をかけた。
「ミザレアに見舞いの品を手配して、俺が治ったことも伝えてくれ。何時から会えるかも医師に確認して一緒に連絡するように」
「……かしこまりました」
命じたことに安心して、フィリップの意識は微睡みにとける。呪いのせいで著しく消耗したフィリップの身体は、休息を求めていたのだ。
だが、フィリップが回復して動けるようになっても、ミザレアが会いに来ることはなかった。
「ミザレアは何故会いに来ないんだ」
苛つきながらフィリップが呟くと、従者は不思議そうに首を傾げてみせる。
「以前王城に来られる度にご挨拶されるミザレア公爵令嬢に、いちいち来ないようお命じになったのは殿下だったと記憶しておりますが」
「……そうだったか? だが、それでも来ていただろう」
「まぁ、以前は来られておりましたが……あちらもお忙しい身ですからね。ましてや病み上がりですし」
「そういえばそう言われたな。俺のことを聞いて気絶したのだとばかり思っていたのだが、ミザレアは何か病気だったのか?」
その言葉を聞いた従者は、持っていた書類を落とした。バサバサと大きな音を立てて書類が床に広がるが、従者はそんなことを気にかける余裕すら無いようで、フィリップの顔を愕然と見つめている。
「……………………まさか、殿下は何も聞かされていないのですか?」
驚愕のあまり漏れ出た声は、ひどく擦れていた。
いつもはこんな失態をしない従者のあまりの狼狽ぶりに、フィリップは嫌な予感がした。
目覚めた後の記憶を探るが、そういえば不自然な程ミザレアの話題を避けられていたような気がする。フィリップも呪いは解かれたとはいえ随分弱っていたので回復に専念しており、あまり気にしていなかったのだが、今思えばおかしい。
「なんだ? ミザレアに何かあったのか!?」
「……殿下がお聞きになられていないということは、陛下のご判断でしょう。それなら私の口から申し上げるわけにはいきません」
そう言うと、従者は頭を下げ口を噤んだ。
こうなれば決して情報を漏らす事はない。フィリップはちっと舌打ちをすると立ち上がった。
「それなら父上に直接聞きに行く。俺はこのまま行くから先触れをだせ」
「お、お待ちください!!」
呼び止める従者の声を無視して、フィリップは足早に王の元に向かった。
この時間なら執務室で仕事をしているはず。火急の件なら話位聞いてもらえるはずだ。
何故か焦燥感に駆られる。
このままでは取り返しのつかない事態になるのでは、という感覚だけがぐるぐると身体の中を渦巻いていた。わけもなく胸が苦しくて、自然と息が上がる。そうして焦る心のまま国王の元へ急ぐフィリップの視界の端に、ブラウンの髪がかすめた。
「……ミザレア?」
「…………まぁ、王太子殿下。ご機嫌麗しゅう。無事に快癒されたご様子で安心いたしましたわ」
幾度となく目にしたそれに思わず振り返れば、そこには微笑みを浮かべたミザレアが立っていた。
何かの教育の帰りだろうか。王城に相応しくはあるが装飾の少なめなドレス姿で卒なく微笑むミザレアに、今までのフィリップならただでさえ地味なんだから着飾るくらいしたらどうだ、と嫌味の一つも言っただろうが、今のフィリップは束の間無言で見惚れた。
ミザレアはこれ程美しかっただろうか。
ブラウンは確かによくある色ではあるが、丁寧に磨き抜かれた髪は艶やかな光沢を放っていて、金や銀の髪にも決して見劣りしない。乱れ一つなく結い上げられた中からこぼれた一筋が頬の横を流れる様すら、目が離せない程美しかった。
オリーブグリーンの大きな瞳は宝石でもはまっているのではと思わせる程の輝きに満ちていて、その視線を独り占めできるなら全てを擲つ男などいくらでもいるだろう。
ほっそりした肢体には飾り気がないが格式高いドレスがよく似合っていて、その気品を更に引き立てていた。
まるで大地の女神だ。今までフィリップが遊んできた女達より、いや、そんなものとは比べ物にならない程、ミザレアは美しかった。
フィリップは知らず息を呑む。
「ひさ、しいな」
「はい、ご無沙汰しております」
「……病み上がりと聞いたが元気そうじゃないか。何故会いに来なかった」
瞬間、ぴり、と空気が張り詰めた。
ミザレアの後ろで大人しく頭を下げていた侍女が、フィリップに追いついた侍従が、息をのんだのが伝わり、フィリップは困惑する。
だが、ミザレアだけは浮かべた笑みを微塵も揺るがせることはなかった。
「私は問題ないと思ったのですが、周囲の者やお医者様から安静にするよう言われておりまして。やっと許可がおりましたので、本日が久々の登城となります。陛下達にはご挨拶させていただきましたが、王太子殿下には以前ご挨拶は不要の旨申し付けられておりましたので、必要ないかと愚考いたしました」
「婚約者なんだから、会いに来てもいいだろう」
「病み上がりに不快な姿はお見せしない方が良いかと思ったのですが……」
「不快、など」
「私の髪は土塊のよう、瞳は雑草の色で見ているだけで気が滅入ると仰せでしたので、ただでさえ弱っておられる時に私のような者がお傍に寄らない方がいいかと思いまして」
そんな暴言を言った覚えが……あった。その時のミザレアの見開かれた目と蒼白な顔色まで思い出す。フィリップはざっと血の気が引くのを感じた。
「それは、その、本心ではない。ミザレアは、美しいと思う」
「まぁ、ありがとう存じます」
フィリップはそこで酷い違和感を覚えた。
フィリップが謝り、褒めたというのに、ミザレアの反応は薄いものだった。儀礼的なお礼の言葉に変わらない表情。そのどこにも熱がない。
ミザレアの恋心を知った後、思い返せば少し前までのミザレアからは抑えきれないフィリップへの恋情がその節々からこぼれ落ちていた。
少し褒めただけで頬を染め、目が合っただけで嬉し気に微笑み、フィリップの送った装飾品を大切に使い、事あるごとに会いに来る。その熱量が、今のミザレアからは微塵も感じられない。
嫌な予感にフィリップはつばを飲み込んだ。ひたひたと足音を立てて無情な真実が近付いてくる気配がする。
それを振り払うように、フィリップは無理矢理笑みを浮かべた。
「そうだ、久しぶりにお茶でもしないか? お互いに積もる話もあるだろう」
「……お誘いいただきありがとうございます。ですが、申し訳ございませんがこの後予定が詰まっておりますの。また改めて事前にお誘いいただけますでしょうか。生憎しばらく忙しいのですが、そうですね、一月後ならどうにかなるかと」
「一月……!? ばかな、前は二日と開けずに来ていただろう!?」
「そうですわね。王太子殿下のご都合も考えず大変失礼いたしました。あの頃はかなり無理をしておりましたのでどうにかなっておりましたが……何分病み上がりの身で、無理はしないよう言われておりますので」
「そんな、少しも無理なのか……? そういえば、何の病だったんだ? まさか後遺症でもあるのか!?」
フィリップの問いに空気が凍った。
ミザレアの侍女が一瞬だけ殺気を放ち、瞬時に沈める。フィリップの護衛が前に出た時には、侍女は膝をつき深く頭を下げ、その表情を隠していた。
「申し訳ございません。侍女が粗相を致しました。咎は私に」
「い、いや。気にしないでくれ」
ミザレアが謝るのを鷹揚に許しながら、フィリップは真綿で首を絞められるような気持ちになっていた。
明らかに様子のおかしいミザレアに、いつもは主の傍に控え従順に仕える侍女の有り得ないミス、フィリップの護衛も何とも言えない顔をしていて、侍従は目を伏せ何も言わない。
致命的な何かが起こっているのに、フィリップだけがそれを知らない感覚。じわじわと追い詰められている気がするのに、その正体がわからない嫌な感じ。取り返しのつかない事態が進んでいるような焦燥感だけがずっとあった。
だけどどうすることもできず、フィリップは問いかけるような目をミザレアに向ける。いつもならすぐさまそれに応えたミザレアは、今は慇懃に頭を下げるだけだ。
「王太子殿下の寛大な御心に感謝を。それと、私の病に関しましては、陛下が告げられていないことを私から申し上げることは出来ません。ただ、王太子妃や王妃になるにあたって問題となる後遺症はございませんとだけ申し上げます。これは医師にも確認をとってありますのでご安心ください」
「そ、そうか。それならいいんだ」
「……申し訳ございません。そろそろ次の予定がございますので御前失礼してもよろしいでしょうか」
「…………わかった。引き留めてすまない。今度お茶会の誘いをおくるよ。そうだ、庭園の薔薇が見頃なんだ。そこでお茶会をしよう。薔薇、好きだっただろう?」
「えぇ。楽しみにしております。それでは」
結局最後まで貼り付けたような笑みを崩すことなく、ミザレアは立ち去った。
その後ろ姿を見つめながら立ち尽くすフィリップは、ミザレアが見えなくなってようやく口を開いた。
「……ミザレアの態度、おかしくないか? 前はもっと俺のことを優先していただろう? こうやって不意に出会った時なんて、予定があろうがいくらでも話したがって、俺が窘めていたじゃないか」
「…………私からは何とも申し上げられません」
「いくらなんでもおかしいだろう。だって、あれではまるで……」
フィリップのことが、どうでもいいようではないか。
口に出せなかった言葉が胸にわだかまる。
言ったら真実になってしまいそうで、とても言葉には出来なかった。だからといって先程のミザレアの態度が嘘になるわけでもなく、フィリップは嫌な予感を振り払うように頭をふり、また王の元に足を進めた。
しかし、その足取りは先程までの焦りのこもった一種力強いものではなく、まるで真実を知るのを恐れるような、重く、弱弱しいものだった。
王はフィリップが来たことに気付くとペンを置き、深く、深く息を吐いた。
部屋は既に人払いされているのか、国王とその腹心である侍従長、護衛の騎士達だけしかおらず、静けさがじわりと染み込むようだ。
王は疲れ切った目をフィリップに向ける。いつもの威厳に満ちた姿ではなく、疲労を隠しもしない姿はすっかり老け込んで見えた。
「ミザレア嬢に会ったようだな」
「……はい」
「では気付いただろうが、彼女はお前への恋心を失っている」
「………………は?」
フィリップはポカンと口を開いた。
言われたことを理解出来ず呆けるフィリップを気にすることなく、王は話を続ける。
「だが、この婚約は破棄できない。先程ミザレア嬢と話したが、妃にはなってくれると、責任は果たすと誓ってくれた。愛人も許すと言ってくれたから、お前にはミザレア嬢と結婚はしてもらうが、それが済めば他の女と今まで通り遊んでいればいい。……あぁ、ただし変な相手に引っかからないように厳選はさせてもらうぞ。その中からなら好きにしろ。そちらと子は出来ないように処理はしておく。次の国王はミザレア嬢の産んだ子になる。他の相手との間に子をもうけることは許さな」
「ま、待ってください! ミザレアが恋心を失っているとは!?」
王の言葉を遮るという不敬を気にする余裕もなく、フィリップは気色ばんでがなり立てた。
顔色をなくしたフィリップを見て、王はまた息を吐く。
「……お前、呪いを受けただろう」
「それがなにか!? 今はミザレアの話です!」
「それを解呪する薬の為に、ミザレア嬢が恋心を捧げてくれたのだ!」
「……え?」
王はかいつまんで全てを説明した。
フィリップの受けた悪辣な呪いを解く為に必要な花の為に、ミザレアが恋心を捧げたのだと。
その花を咲かせる為に恋心は全て吸い取られ、フィリップへの思いはもう無いのだと。
「お前が迂闊なことをするから……いや、もういい。言ってもどうにもならん。ミザレア嬢には愛のない婚姻をしてもらうことになり申し訳ないのだが、お前にとっては結婚した後も今まで通り好きに過ごせるから都合がいいんじゃないか」
「そん、な……」
顔色をなくすどころか土気色にしたフィリップが崩れ落ちるのを、王は冷めた目で見た。
「何を今更。お前がきちんとミザレア嬢を遇し、ミザレア嬢だけを大切にしていれば問題なかったのだ。私達の警告を無視し、遊びまわった結果がこれだ。本当に、ミザレア嬢には申し訳のしようもない」
「だ、だって、まさか、こんなことになるとは……」
「思わなかったではすまない。王が道を誤れば、そんなつもりでは、と泣き言を漏らしたところで意味はないのだぞ。愚か者が」
「……だって、そんな……ミザレア……うそだ……」
「………………話にならんな。もういい。誰か、フィリップを部屋に戻せ」
王の指示を受け、呆然とするフィリップを騎士達が丁重に運び出す。
王は深々とため息をつき、ぐったりと椅子に背を凭れさせた。すぐに侍従長が濃い目に淹れられた珈琲を差し出す。
王はそれを飲み、行儀悪く椅子に体重を預けた。苦い苦い後味が、珈琲のものなのか、それともフィリップに現実を突きつけたゆえのものなのか判断がつかない。
「……ミザレア嬢はもう帰ったのか」
「はい。既にご帰宅なされたと報告がございます」
「前はフィリップに会うため何かと理由をつけ残っていたが……。そうか。本当に、恋心をなくしたのだな」
「そうご報告差し上げましたが」
「知っている。思い知っただけだ」
慇懃な姿勢を崩さず答える侍従長を、王は軽く睨んだ。
この侍従長は前からフィリップの態度を問題視し、散々王にも伝えていた。忙しいからと、窘めても聞かないからと、ミザレアの忍耐に甘え放置していた自覚のある王は、だからこそ何も言えない。それをわかっていてこうしている侍従長も、言葉にしないだけで怒っているのだろう。
「……どうすればよかったのだろうな」
「そんなつもりでは、と言っても意味がないと先程仰せでしたが」
「わかっている。お前相手なのだから少し泣き言を漏らす位許せ」
「さようでございますか」
国王はまた深々とため息をついた。
「………………あの呪いの詳細をもう一度教えてくれ」
何か手立てはないかと、王は悪足掻きのように散々聞いた報告をもう一度求める。
侍従長は静かに頷き、何度も繰り返した言の葉をまた口にした。
「かしこまりました。……あれは、呪いの対象を痛めつけることに特化した呪いでした。茨のような痣は広がる度に本物の茨を巻き付ける何倍もの痛みを感じさせ、死なない程度に痛めつけます。そうしてじわじわと苦しめながら、自分の命が消えていく恐怖と、自ら死を願う程の痛みを与えますが、実際の肉体に傷は与えません。解呪さえ出来れば後遺症もなく元通りの生活に戻れます」
そこまで言って、侍従長は目を伏せた。
「……ただ、一番悪辣なのは、解呪の方法、そして解呪された後の事です。薬を飲んだ対象は、その薬の為に恋心を捧げた者の記憶を見ます。そこで、相手が自分のことをどれだけ愛しているか、自分がどれだけ愛されているかを知り、それのおかげで呪いが消えたこともはっきりと自覚するそうです。そうして、治った者は例外なく恋心を捧げた者に深い感謝と強い愛着を抱くことになるとのことです」
侍従長はそこで息をついた。やり切れない思いが声に滲む。
「しかし、その愛着を抱かれる者は、恋心を捧げた後です。その思いに応える思いは残っておりません。自分は世界一愛しているのに、相手にとって自分はどうでもいい存在になるのです。それまでに相手が抱いていた恋を知っているだけに、皆あまりの落差に非常に苦しむとか。今までの経験の記憶はあるので、もう一度恋を育むこともないわけではないそうですが……」
「フィリップの態度を覚えているなら、余計無理だろうな。今更、自分の恋心を知ったから好きだとほざかれても、鬱陶しいだけだろう」
「……私からはなんとも」
「まったく。本当に、悪辣な呪いだ」
王はそう言って悲しげなため息をついた。
少しだけ目を閉じ、そして、再度開けた時にはもう為政者の顔に戻っていた。
「こうなった以上、フィリップのことは諦めるしかない。王位はフィリップの子に継がせるからそれまでは私が務めることになるだろう。お前もそれまで引退させんぞ」
「承知いたしました。最後までお付き合いいたしますよ」
従順に頷く侍従長に目線を返し、王は仕事の続きに取り掛かった。
やることはいくらでもあるのだ。もう、王になれぬ息子にかける時間は何処にもなかった。
ミザレアは大人しく目を伏せた。
目の前には美味しそうなお菓子が並べられ、かぐわしい紅茶の匂いからは最上級の茶葉を使用しているのがわかる。
それらに罪はない。むしろ食べやすいよう一口大にされたお菓子達は花を模したり繊細な砂糖飾りがつけられていたりして、ミザレアの目を楽しませてくれる。食べる気になれずとも少しでも慰めになれば、という誰かの気遣いを感じて心が温まった。
「食べないのか?」
「……ありがとうございます。いただきますわ」
それが、一緒に食べる者のせいで心から楽しめないのが残念でならない。
ミザレアはゆっくりと紅茶を飲んでため息を押し込め、一番小さなクッキーを一つ口に運んだ。
口に入れた途端にほろりとほどけ、上品な甘さを口の中いっぱいに届けてくれるクッキーは流石王城の職人の手によるものだと素直に思える。微かに香るバターの風味がいいアクセントになっていて美味だった。ミザレアは微かに口元を綻ばせる。
「とても美味しいです」
「な、ならよかった。好きなだけ食べてくれ」
「はい。ありがとうございます」
麗らかな日差しが心地良く、王城でしか見れない豪奢な薔薇はまさに花の盛りで華やかだ。目の前ではそんな薔薇に負けない程麗しい王子様がこちらを気遣ってくれて、一心にこちらを見ている。
少し前のミザレアなら大喜びしていたはずのシチュエーションが、何故不要になってから易々と手に入るのだろう。世の不条理を嘆くように、ミザレアはもう一度ため息を紅茶で押し流した。
今日開かれていたのはフィリップとミザレアの交流の為のお茶会だった。
しかしその場は異常な程静かで、緊張感すら漂っている。
以前はこういう席では率先して喋っていたミザレアだったが、今は言葉少なに受け答えをするだけで、貼り付けた笑みを崩さない。
フィリップはミザレアから話しかけられるのにすっかり慣れきっていて、静かなミザレアにどう接していいかわからないようだった。
気まずい時間が過ぎ、せっかくの紅茶が冷めきった頃、ミザレアはゆっくりと立ち上がった。
「申し訳ございませんが、そろそろ帰りませんと。本日は貴重なお時間をいただきまして誠にありがとうございました。次回の予定はまた書面でいただければと思います」
「ま、待ってくれ! もう少しくらいいいんじゃないか!?」
「……承知いたしました。では、もう少しだけ」
ミザレアは大人しく席に座り直した。あからさまにほっとした顔をしたフィリップには変わらぬ人形じみた笑みを向ける。ここで無理矢理帰った方が面倒だと思ったから戻ったまでなのだが、フィリップの瞳に何か希望のようなものが宿っている気がして少し不快だった。
引き留めたというのにフィリップは口を閉ざしてしまい、ミザレアはまた静かに冷めた紅茶を口に運んだ。侍女が新しいものに替えようとするのを目で制す。どうせ長居するつもりもないのでこれでいい。
フィリップは思い悩んだように口を開いては閉じていた。言いたいことがあるのはわかるが、ミザレアはわざわざ水を向けるつもりも、察してやるつもりもない。あとどれくらいすれば解放されるかとぼんやり考えていた。
しばらくもごつき、ついに心を決めたのか、フィリップはひたとミザレアを見つめた。真剣な眼差しに、ミザレアもつられて姿勢を正す。
「その、薬のことを聞いた。ミザレアのおかげで俺は救われたんだな。本当にありがとう」
「勿体ないお言葉です。王太子殿下の御命の為ですもの、当然のことをしたまでですわ」
「いや、ミザレアの献身がなければ俺は死んでいたんだ。本当に感謝している。……それで、それに報いるためにもこれからは交流の場を増やしたいと思うんだ。勿論他の女とは二度と会わないし、ミザレアのことだけを大切にすると誓う。今までの思いをなくしたとしても、新たに築いていけばいい。俺達にならそれが可能だと思う」
「………………」
嗚呼。
嗚呼。ああ。嗚呼……。
ミザレアはそっと息をついた。
嘆きとも呆れともつかない声が心の中に響いている。
フィリップの眼差しは真摯なもので、本当に、心から、ミザレアがこの申し出を喜ぶと思っているのが伝わってきた。確かに以前のミザレアなら心底喜んだだろう。それをわかっていて放置されていたのだと思うと、胸がちくりと痛んだ気がした。
フィリップは理解していないのだ。ミザレアが差し出したものを。自分でも苦しいほどの熱量を、大事に大事に傷がつこうと持ち続けた宝物を捧げたのだと、わかっていないのだ。
今のミザレアはフィリップのことを何とも思っていないと、理解できていないのだ。
残っているのは記憶だけ。フィリップに蔑ろにされ、散々傷ついてきた記憶だけが今のミザレアにあるものだ。それしか残っていないのに生まれるものなんて、あるわけない。
心が、凍てつく気がした。ミザレアはいっそう隙の無い完璧な微笑を浮かべてみせる。
「……申し訳ございませんが、何分多忙ですのでお時間を捻出するのが難しく……。せっかくのお申し出ですが、辞退させていただければと思います」
「は」
「今まで通り、月に一度、少しおしゃべりする程度でよろしいですわ。王太子殿下もお忙しいでしょうし、もし面倒でしたら減らしていただいても構いません」
断られると思っていなかったのかポカンと呆けるフィリップに、ミザレアはただ美しいだけの笑みを向けた。
「お話は以上でしょうか? では、そろそろ帰らせていただきたいのですが」
「ま、待て! 俺達は婚約者だぞ!? 交流は必須だろう!」
「えぇ。ですので今まで通りの頻度でいいと申しております。元々は王太子殿下からのお申し出ですわ。何かと忙しいから、お前に割く時間はないとの仰せでしたわね」
「そ、れは……。そうだが……。だ、だからこそ、これからはもっと交流を深めたいと」
「必要性を感じませんわ。私達の結婚は必須事項です。どうせ結婚するのですから、わざわざ交流する必要がございますか? これも、元々は王太子殿下の御言葉でしたわね」
「……俺は、ミザレアのことをもっと知りたい。だからもっと会いたいと思っている。ミザレアは、ミザレアにはもうそんな気持ちは欠片もないのか? 少し時間を割くのすら、嫌なのか?」
ミザレアは貼り付けた笑みのままフィリップを見た。
縋るような顔をしたフィリップを見ても、心は動かなかった。ただ面倒だな、と思うだけだ。
このまま縋られても鬱陶しいので、ミザレアはトドメを刺すことにする。
「王太子殿下は、私の一番好きな花をご存知でしょうか」
「は、な……? 薔薇、じゃないのか?」
ミザレアはちらりと薔薇を見た。美しいとは思うし、別に嫌いではない。
だが一番好きな花は他のものだ。
ミザレアの態度で違うことを察したのだろう。フィリップはうなりながら考え始めた。
「なんだ……百合? いや、チューリップか? 蘭だったか? ポピー? ガーベラ?」
「全て違いますわ。おそらく今までお付き合いされてきた方達のお好きな花ではないでしょうか。……何度かお話ししたこともありますが、記憶にございませんか?」
「………………」
黙り込んでしまったフィリップに、ミザレアは無機質な笑みを浮かべた。
「幼い頃からのお付き合いですのに、好きな花すら覚えていただけていないのですね。そのような関係で交流の機会を増やしたところで、時間の無駄かと存じますわ」
「こ、れから、覚える、から……」
「もう必要ございません。今まで通りのお付き合いで、構いませんわ」
今までミザレアを冷遇してきたのはフィリップだ。
そのままでいいと、最低限の付き合いだけでいいと言われてフィリップが言葉に詰まった隙に、立ち上がったミザレアは美しい礼をしてみせる。
「私はこれで失礼いたします。王太子殿下の貴重なお時間をいただくのは申し訳ないので、次回は一月、いえ二月程先でも構いませんわ。またご連絡いただきましたら調整してお返事いたします」
「ま……」
「そうそう、愛妾をもたれるのでしたらお早めにご連絡くださいませ。候補の方達は国王陛下が選ばれるとお聞きしておりますので、そちらとの交流を優先いただいてもよろしいですよ。私のことはお気になさらず。結婚して子を産むという義務さえ果たせば他は自由にしていいと言われておりますもの。お互いに、好きにいたしましょうね」
「や、やだ……待って、ミザレア……」
ミザレアは最後にフィリップの目を見た。
かつてのミザレアが恋をした、絶望と寂寞と憂いだけが詰まった瞳だった。寂しいと、哀しいと、訴えかける瞳だった。
フィリップが二度とそんな目をしませんように、とミザレアが心底祈っていた、ひとりぼっちの目だった。
それを見ても何も思えないことに、ミザレアは、かなしいな、と思った。ただ、それだけだった。
無言で再度礼をし立ち去るミザレアに呼びかけることすら出来ず、フィリップは椅子に座りこむ。
頭をよぎるのは、無邪気に微笑みフィリップと一緒にいられる喜びをあらわにする、かつての少女の面影だった。
ちなみにミザレアの好きな花はシロツメクサです。
フィリップが髪に飾ってくれた花。
よく見れば小物やらにクローバーの意匠がめっちゃ使われてるのでわかりやすい。




