背番号"7“
―僕―
最近仕事の都合で普段より早く家を出る。そうすると電車を待つホームで見かける顔ぶれも違ってくる。何度かその時間に家を出ると、ある女性の存在に気が付いた。彼女はいつもこの時間の電車に乗っているようだ。そんな彼女が僕は気になり始めていた。
いつしか彼女に会うために普段より早いその時間に家を出るようになった。そうしているうちに、駅の途中の交差点で信号待ちをしている彼女と出会った。彼女が僕の隣に立ち止まる。ちらっと横目に彼女の方を見る。彼女はまっすぐに通りの向こうにある信号を見ている。赤から青に変わると彼女はすたすたと歩き始める。僕は彼女を追うように歩き出す。そして、心の中でつぶやく。僕は何をやっているんだ! これじゃあまるでストーカーじゃないか…。そんな後ろめたさを抱えつつも彼女に会いたくて同じ時間に家を出る。そして、いつもの交差点で彼女に出会う。いつものように彼女が僕の横に立ち止まる。そんな彼女を目で追ってしまう。目が合った。彼女がにっこりとほほ笑んだ。
「最近、よくお会いしますね」
「そ、そうですね…」
信号が赤から青に変わる。彼女はいつものようにすたすたと歩きだす。僕はバツが悪くて動けなくなる。横断歩道の途中で彼女が立ち止まり、振り向いた。
「信号、変わっちゃいますよ」
僕は慌てて走り出す。そして彼女に追いつき並びかける。
「何か考え事でも?」
「あ、いえ、その、特に何も考えていないです」
見透かされているようで恥ずかしくて顔が赤くなっているのが分かるほど気が動転した。けれど、そのまま彼女と並んで駅まで歩いた。駅の改札を抜けてホームへ向かう。
「私はいつもこの時間の電車のこの車両に乗るんですけど、あなたは最近ですよね?」
「あ、最近、仕事の都合で出社時間が変わったので」
「そうだったんですね」
なんだ! この展開は。彼女とこんなに会話をしていることが信じられん。彼女ももしかして僕のことが気になっていたんじゃないのか…。そう思えて仕方ない。
電車が到着して二人で一緒に乗り込む。この時間の電車はまだそれほど混み合ってはいない。車内ではお互いに会話はない。もうすぐ彼女が電車を降りる。そう意識し始めたら、あっという間にその時がやってきた。電車のドアが開く。彼女はさっと一礼して電車を降りた。
―私―
朝の通勤ラッシュって嫌い。だから混みあう時間より少し早めに家を出ることにしているの。そして、同じ時間の同じ電車の同じ車両に乗るの。同じようにその電車に乗る人の顔触れは毎回同じだとは限らないのだけれど、中にはよく見かける人もいるわ。
別に意識していたわけではないのよ。ただ、最近よく会うなぁ…。それくらいのことは思っていたわ。でも、今日は何となく彼に見られているような気がしたの。知らない人だし、危ない人だったら怖いし…。だからちょっとだけ彼の方を見たら目が合っちゃった。彼はバツの悪そうな感じだったから悪い人ではなさそうだなと思ったの。そしたら、つい声をかけちゃった。
「最近、よくお会いしますね」
彼には意外だったみたい。私に声をかけられたことが。私も声をかけたのはいいけれど、無視されたらどうしようかなと。でもまあ、それならそれで別にどうってことはないんだけれど、ちゃんと応えてくれたからホッとしたわ。あら、いやだ。私ったらどうしてホッとなんかしたのかしら。そしたら彼は横断歩道から動かなくて…。信号が変わっちゃいそうだったからまた声をかけちゃった。
「信号、変わっちゃいますよ」
彼は慌てて走り出したわ。そして私の横に並びかけたの。それから、なんとなく駅まで一緒に歩いて、歩きながら少し話をすると、彼は仕事の都合で出かける時間が変わったのだとか。それで、最近よく会うようになったのね。
その後は流れで一緒に電車に乗ったのだけれど、電車の中ではさすがに会話はなかったな。どうやら彼が私の事を意識しているのは間違いなさそうだったわ。そうこうしているうちに私が先に電車を降りたのだけれど、きっと、また明日も会えるのだろうなと。そう思って一礼だけして電車を降りたわ。あら、私ったら何を期待しているのかしら…。
―僕―
彼女に声をかけられてからというもの、彼女と顔を合わせるのが楽しみになっていた。ところがそれからすぐに仕事が立て込んできた。出社時間がさらに早まり、いつもの電車に乗ることも、彼女と同じホームに立つこともなくなった。つまりそれは彼女に会う機会がなくなるということだ。けれど、いつしか彼女に会いたいという気持ちは仕事の忙しさに追いやられてしまった。
―私―
彼に話しかけた時から、また会えるかもしれないと思うと自然に出かける時間を調整している自分がいる。それなのに、最近彼の顔を見ないの。きっとまた仕事の都合で出かける時間が変わったのね。男の人はそうだもの。なんたって仕事が優先だから。一時だったけれど、浮かれていた自分が恥ずかしい。
そんな日々が数日続いて、いつの間にか私の意識の中から彼の存在は消えていった。
―僕―
早出残業の日々もようやく落ち着いてきた。彼女と会わなくなってから数週間が過ぎ、いつもの生活に戻りつつあった。今夜は久しぶりに一杯やって帰るか。
会社の近くに行きつけの居酒屋がある。その店の前にぶら下がった赤ちょうちんを見ると心が和む気がする。
「いらっしゃい。久しぶりですね」
店の女の子が笑顔で迎えてくれた。彼女の笑顔で更に心が和む。
「このところ仕事が立て込んでいたからね。今日でやっと片付いたから」
「それじゃあ、今日はとことん行っちゃいましょう!」
「そうしたいところだけど、今日は早めに切り上げてゆっくり休むよ」
中ジョッキの生ビールを一気に半分ほど流し込む。生き返った気がするとはまさにこういうことだ。すぐにおすすめの刺身が出てきた。今日のおすすめはマグロのぶつ。それをつまみながら、ジョッキの残り半分を飲み干す。その後は辛口の純米酒。
「どうぞ」
「まだ頼んでないよ」
「どうせ頼むでしょう」
そう言って彼女が持ってきたのは揚げ出し豆腐。僕の大好物だ。ここに来ると必ず注文する。早速、口に運ぶ。旨い。
―私―
その同じ夜、私は会社の同期に誘われ、半ば強引に駅近くのバーへ連れて来られていた。
ふーん、こういう店に来るんだ…。
連れて来られたのは洒落たバー。カウンター席で二人並んでいる。カクテルグラスに入った名前もわからないお酒に高そうなチョコレート。こういう店の椅子って好きじゃないわ。足が床に届かないから。
「今日は悪いな。付き合ってもらって」
「悪いと思うなら誘わないでよ」
「あ、いや言葉の綾じゃないか」
「それで何の用?」
「実は振られちゃってね。それが悲しくて、辛くて…。一人で居たくなくて」
「そんなことで私を誘ったの? だったら他にいくらでも居るでしょう! どうして私なの? 私、そんなに暇じゃないのよ」
「誰でもいいってわけじゃないさ。こういう店で隣に座らせるならお前みたいな美人じゃなきゃ」
「まあ? 美人だと言ってくれるのは嬉しいけれど、本当にそう思っているの?」
「もちろんさ! ところで、お前、彼氏とか居るのか?」
「何? 私を手っ取り早く後釜に据えようっていうの? だとしたら、残念でした」
「そっか…。そうだよな」
別に彼氏がいるわけではないけれど、同期のこいつとはそういう付き合いなんて考えられないのよ。グラスの赤い酒を口に含み、高そうなチョコレートを一粒だけ摘まんで席を立ったわ。
―僕―
久しぶりに気持ちよく帰路に就く。仕事が一区切りついたことと馴染みの店で好物をつまみながら酒も飲んだ。
駅のホームを通り抜ける風が心地いい。到着した電車に乗り込む。座席も空いてはいたけれどドア付近に立ち外の風景を眺めながら帰ることにした。車掌が次の停車駅をアナウンスする。そう言えばその駅はあの彼女が下りる駅だなあ…。ふと、そんな思いがよぎる。電車が停まる。ドアが開く。
「あっ!」
開いたドアの向こう側に見覚えのある顔を見つけた。すっかり忘れていたのだけれど、それはあの彼女だった。
―私―
なんだかもやもやした気分で駅のホームに立つ。あいつも悪い奴じゃないのだけれど。ルックスもまあまあだし、結構モテるのだと思うけれど、私はちょっと苦手。そう言えば、あいつといた間に口にしたのはチョコレートだけ。高そうなチョコレートではあったのだけれど、腹の足しにはならなかった。おなかがすいた。これから帰って食事の支度をする気にはなれない。
「よし! 地元で一杯ひっかけて帰ろうかしら。そうと決まれば…」
まもなく電車が到着してドアが開いた。すると…。
「あら!」
彼が乗っていた。
―僕―
急に胸の鼓動が早くなったように感じるのは酔ったせいではないのだろう。それはきっとそこに彼女が居るからに違いない。
―私―
あんな席の後だったせいもあるけれど、彼の顔を見たらなんだかホッとした。だから、つい話しかけちゃった。
「今お帰りですか?」
「あ、はい」
「最近、お会いしなかったですね。お仕事の関係ですか?」
「ええ、最近、忙しくて早出残業が続いたもので」
彼の顔がほんのり赤い。それって多分、私に会ったからではなさそうね。お酒を飲んできたのかもしれないわね。そうだとしたら、仕事が一区切りしたのかしら。
―僕―
「今お帰りですか?」
うわっ! 話しかけられた。意表を突かれた感じがしてなんだかどぎまぎしてしまう。
「あ、はい」
返事一つで冷や汗が出る。
「最近、お会いしなかったですね。お仕事の関係ですか?」
「ええ、最近、忙しくて早出残業が続いたもので」
やばい! 顔がほてってきた。それって酒を飲んだせいか? いや、違うな…。それもあるだろうけれど、きっと彼女に会ったからに違いない。だけど、今日、このタイミングで彼女とこの電車に乗り合わせたのはラッキーだったのかもしれない。ならば、このチャンスを逃す手はないな。当たって砕けろでこの後、彼女を誘ってみようか!
―私―
今日、このタイミングで同じ電車に乗り合わせたのはラッキーだと考えた方がいいわよね。彼もお酒を飲んでいるみたいだし、仕事も一区切りしたのであれば付き合ってくれるかもしれないわ。思い切って誘ってみようかしら。降りる駅は一緒なんだものね。
「あの…失礼なことを聞くかもしれませんが、少しお顔が赤いみたいですけどお酒でも飲まれていますか?」
「あ、はい。仕事が一段落したので、久しぶりに行きつけの店でちょっとだけ」
思った通りだわ。
「私も少しお酒を飲んでいるんです。ただ、あまりいいお酒ではなかったので飲みなおしたいなあなんて思っているんですけど…」
わあ、言っちゃった。でも断られたらどうしよう…。
―僕―
なんだかいつもそうだ…。いつも彼女に先を越される。今も僕が誘おうと思っていたのに結局彼女に先に誘われてしまった。いや、待てよ! まだはっきりと誘われたわけではないな。だったら、僕から誘おうじゃないか。それに、彼女が言ったあまりいいお酒じゃなかったというのも気になるし。
「そうなんですね。僕もそう思っていたので、良かったらご一緒していただけませんか?」
よしっ! これで誘ったのは僕からということにしてもいいだろう。あ、いや、でも誘ったはいいけど断られたりしたら目も当てられないぞ。まあ、でも、それならそれでもいいか。どうせ当たって砕ける覚悟だったのだから。
―私―
よかった。こういう時は一人より二人の方がいいのに決まっているわ。
「降りる駅は同じですよね」
「はい。いつも同じ駅でお会いしています」
私ったら、何を聞いているのかしら。乗る駅が同じなのだから降りる駅も同じに決まっているじゃない。
「地元で行きつけのお店とかありますか?」
彼にそう尋ねられてはっとした。行きつけもあるにはあるのだけれど、それは赤ちょうちんがぶら下がった焼き鳥屋なのよね。彼はそういうお店って大丈夫かしら…。彼の方こそ行きつけのお店はあるのかしら…。
―僕―
さて、誘ったのはいいけれど、僕は地元では飲まないし、気の利いた店なんか知らないんだよな…。だったら、いっそ彼女に聞いてみようか。
「地元で行きつけのお店とかありますか?」
「行きつけというほどではないのだけれど、安い焼鳥屋とかならたまに行きます」
なるほど。安くて結構。焼き鳥や、大歓迎!
「いいじゃないですか! 僕は地元ではほとんど飲まないから行きつけとかないんですよ。それに女性同伴となるとどういうお店に行けばいいのかわからないので。では、ぜひその焼鳥屋に行きましょう」
―私―
そのお店は帰るのとは駅の反対側のお店。お店を出て知り合いと顔を合わせるのは嫌だなあと思ってわざわざ駅の反対側のこのお店に行くの。まあ、それほど知り合いがいるわけではないのだけれど。それにしても、彼が賛成してくれてよかったわ。
電車を降りて駅の改札を出る。
「こっちなんです」
「へえ、駅の反対側なんですね。僕はそちら側にはほとんど行ったことがないなあ」
駅の階段を降りると、もう赤ちょうちんが見える。
「あそこ」
「こんな駅近くにあったんですね。なかなかいい雰囲気のお店じゃないです」
「いかにも焼き鳥屋って感じですよね」
あいつに連れていかれたような店じゃあ、楽しめないもの。
―僕―
彼女に従って店ののれんをくぐる。
「いらっしゃいませ!」
威勢のいい声が飛んでくる。僕たちは女性の店員に奥のテーブル席へ案内された。
「お飲み物は…祥子さんはいつものでいいですか?」
へえー、彼女は常連さんみたいだな。ん? 彼女の名前はしょうこって言うんだ。そう言えば、お互い名前も知らないままだな。
「はい!」
彼女は嬉しそうに即答する。
「そちらは何に致しますか?」
「僕も日本酒を」
「では、二合徳利におちょこ二つでいいですか?」
彼女の方を見ると頷いてくれたので、そうしてもらうことにした。
「はい。それでお願いします」
日本酒が好きな女性は魅力的だ。なんだか気が合いそうだな。
―私―
この子ったらいきなりなんてことを! 注文を取る女の子を一瞬睨みつける。こんなやり取りをされたら、私が常連の吞兵衛みたいに思われちゃうじゃない。先ほど彼にはたまに行くくらいにしか言っていないのに。
「どんな字を書くんですか?」
「えっ?」
「しょうこって、どんな字を書くんですか?」
そっか! 名前、まだ教えていなかったわね。そう言えば、彼の名前もまだ来ていないわ。なんだか可笑しくて思わず笑っちゃう。
「吉祥のしょうです。ところで今更なんですけど、私もあなたの名前を知らないです。教えてもらってもいいですか。」
「あっ、それは失礼しました。そうですよね。人に名前を聞くのなら、僕の方から名乗るべきでした。僕は斎藤秀康といいます。豊臣秀吉の秀と徳川家康の康です」
まあ、なんて勇ましい名前なのかしら。でも、信長は居ないのね。
「ちなみに兄が居て、兄は信秀といいます」「のぶは織田信長の信ですね!」
「おっしゃる通りです。父が歴史好きなもので、そんな名前にしたみたいです。なので、是が非でも男二人は作るつもりだったといっていました」
「では、思い通りになったわけですね」
「いえ、実は兄と僕の間には姉…女の子が生まれたもので何としてももう一人男が欲しくて頑張っちゃったらしいです」
「あら、それじゃあ、お母様は大変でしたね。ちなみに私の苗字は武田というんです。もっとも武田信玄とは縁もゆかりもないんですけどね」
―僕―
偶然だけど、僕の苗字は斎藤。それこそ縁もゆかりもないけれど、斎藤と言えば美濃のマムシと言われた。斎藤道三。同じ戦国時代の武将だ。
「なんだか二人とも戦国武将つながりですね」
「私は名字だけですけどね」
そう言って笑う彼女の顔を改めて眺めると、とても整った顔立ちをしている。これまでこんな風に彼女の顔を見たことがなかったから初めて気が付いたけれど、彼女はかなり美人だ。性格もよさそうだからきっとモテるのだろうな。そう思ったら彼女の指が気になった。指輪をしているのではないかと。幸い、彼女の指には指輪はなかった。なんだかホッとした。そんな僕の視線に彼女も気が付いたようだ。
「独身ですよ。ちなみに付き合っている人も居ませんよ」
「あ、いや…」
「いま、私の左手の指を見ていたでしょう? 斎藤さんこそどうなんですか?」
「あ、僕も独身です」
「だったら、お互い不倫ではないわけですね。めでたくカップルの誕生というわけですね」
「えっ! カップルって…」
「もしかして、彼女さんが?」
「いえ! そんな人は居ません」
―私―
戦国武将とかどうでもいいけれど、そんなことでも彼が私との共通点を探してくれたのは少なからず、私に興味があるのかもしれないわね。そもそも、そうでなければ一緒に来てくれなかったでしょうし。もしかしたら、今日で彼氏いない歴23年に終止符が打てるかも。そんなことを考えたら、思わず笑みがこぼれちゃった。すると、彼の視線が私の手元を向いているのに気が付いた。これって、私が指輪をしているのかを確認しているんじゃないかしら。
「独身ですよ。ちなみに付き合っている人も居ませんよ」
そう言ったとたんに彼が焦っているのがわかったわ。ちょっと意地悪だったかしら。でも、これって当たりだわ。よし! ここは更に攻めていくわよ。
「いま、私の左手の指を見ていたでしょう? 斎藤さんこそどうなんですか?」
「あ、僕も独身です」
そうよね。そうだとは思ったけれど、男の人って結婚していても指輪をしていない人も多いから。まずはお互いにフリーだということは確定ね。
「だったら、お互い不倫ではないわけですね。めでたくカップルの誕生というわけですね」
「えっ! カップルって…」
あら、もしかして、すでに彼女が居る?
「もしかして、彼女さんが?」
「いえ! そんな人は居ません」
それなら、いいんじゃないかしら。私的には最初に会った時から気になる人だったから、これを機にもっと親しくなりたいもの。
―僕―
翌朝目を覚ますとまだ顔がほてっているようだった。けっこう飲んだな。だけど、彼女と一緒に過ごした時間は楽しかった。それにしても彼女が酒に強いのにはちょっと驚いた。二人で一升近く飲んだかもしれない。それでも彼女は全く変わらなかったのだから。けれど、妙に遠慮しながらではお互いに気疲れするだけだから。そういうところも彼女の魅力。
店を出て一緒に帰った。いつも出会う信号を渡ったところで彼女とは別れた。
「ではここで」
彼女にそう告げられて後ろ髪を引かれる思いだったけれど、仕方がない。
「はい。では、気を付けて…」
それ以上の事は何も言えなかった。歩き出した彼女の後姿をしばらく見送ってから僕も歩き出した。
少し寝不足気味の顔を洗って気持ちを切り替える。底であることに気が付いた。
「あっ! 連絡先を聞いておけばよかった!」
でもまあいいや。多分今日も会えるから。
―私―
私、昨夜はやっちゃったかな…。初めて一緒に飲んだ人の前で飲みすぎたかなあ…。でも、話も弾んだし楽しかったし。彼も嫌な顔一つせずに最後まで付き合ってくれたし。そんなことを思いながらベッドから抜け出る。トーストと目玉焼きで朝食を済ませると、洗面所で顔を洗った。なんとなく鏡を眺めながら昨夜のことが頭に浮かぶ。
店を出たのは日付が変わる前だったと思う。いつも彼と出会う信号のところで別れたのだけれど、楽しかったままの勢いでお別れしちゃったのよね。
「ではここで」
なんて、そっけない言葉だったかしら。
「はい。では、気を付けて…」
今思えば彼はまだ何か言いたそうだっけけれど、そのまま歩いて行っちゃったものね。そんなことを思い返していると、あることに気が付いたのよ。
「しまった! せっかくの機会だったのだから、連絡先くらい交換しておけばよかったわ」
でま、まあいいわ。多分今日も会える…。
―僕―
結局、その日は会えなかったなあ…。いや、会えたことは会えたのだけれど、僕が家を出るのがちょっとだけ遅れたものだから、いつもの信号の場所についた時には彼女がもう横断歩道を渡り終えて駅へ向かっているところだった。その後姿を見て追いかけたのだけれど…。
―私―
今度会ったら連絡先を交換しようと思っていたのだけれど、いつもの信号のところに彼は居なかった。彼が来るのを待っていようかとも思ったのだけれど、先に行ってしまったのかもしれないと思っているところに信号が点滅し始めたから、慌てて渡っちゃったけれど、待っていた方がよかったかしら…。結局駅のホームにも彼は居なくて何本か電車をやり過ごしてけれど彼は来なかった。きっと先に行ってしまったんだわ。
仕方なく次の電車に乗ることにしたのだけれど、その時に駅の外から救急車のサイレンが聞こえてきたけど、まさかそれが…。
―僕―
すでに信号は赤に変わっていた。だから、信号待ちをしていた車も動き始めていたけれど、杖をついたおばあさんが僕の前をまだ歩いていた。それを待つようにバスが止まっていたのだけれど、その向こう側の見えないところから乗用車が1台飛び出してきた。
「危ない!」
そう思っておばあさんを抱きかかえて駆け抜けようとしたのだけれど間に合わなかった…。
―私―
次の日も彼に会えるかもしれないと期待しながら信号待ちをしていると、こんな話声が聞こえていたの。
「昨日の事故、知ってる?」
「ええ、おばあさんを助けようとした人が車に惹かれて亡くなったんだよね」
「おばあさんは助かったっていうのに、その人は可哀そうだったわね」
えっ? そんなことがあったの…。そう言えば、昨日、駅のホームでサイレンの音が聞こえたのがそれだったのかしら…。
それから、彼にはずっと会えなかった。まさかとは思うけれど…。いや、そんなことがあるわけないわよね。きっと、また仕事の関係で出掛ける時間が変わったんだわ。きっとそう…。
―私―
後になって知ったのだけれど、あの事故で亡くなったのが彼だったと。悔やんでも悔やみきれない。あの日、信号のところで彼が来るまで待っていればあんなことにはならなかったのに…。
今更どうにかなるわけではないのだけれど、無意識のうちに彼の名前をネットで検索してみた。彼がインスタに投稿していた動画を見つけた。そこには草野球チームでプレーしている彼の姿があった。
―私―
今日もいい天気だ。絶好に野球日和だわ。ユニフォームを羽織ってグランドへ向かう。彼が居た草野球チームを見つけ出して入れてもらったのよ。彼の婚約者だったって話をしたらチームのみんなにも歓迎されて、今ではすっかりチームの一員ってわけ。もっとも、私、野球なんかやったことがないから応援団としてだけどね。
えっ? 婚約者だったのかって? いいじゃない。そんなこと誰も知らないんだから。
風になびくユニフォームの背中には背番号7。そして、SAITOの文字。




