11話 リコと、アヤカ。
深い森の奥。
月明かりすら届かない木々の隙間を、リコは必死に駆けていた。
髪飾りはもう何もない。
ただの白い髪が、乱れて顔に張り付く。
息が荒い。
足がもつれる。
胸が、痛いほどにざわついている。
「……もう、食べない。
絶対に、食べない……」
ミリアの言葉が、頭の中で繰り返される。
「それは愛じゃない」
「私の宝物を返せ」
正論だった。
食べれば食べるほど、失うものが増える。
心の穴は、ますます深くなるだけ。
リコは木の根に躓いて、地面に転がった。
「……もう、誰も近づけない。
私なんかと一緒にいたら、みんな死ぬ……」
立ち上がろうとしたとき、
小さな声が聞こえた。
「……お姉ちゃん? どうしたの?」
リコはびくりと体を硬直させた。
木の陰から、ゆっくりと現れたのは、
十歳くらいの少女だった。
淡い緑色の髪を肩まで伸ばし、大きなエメラルド色の瞳。
服は森の苔のような緑のワンピース。
手に小さな花の冠を持っている。
少女は心配そうに近づいてきた。
「転んだの? 怪我してない?
夜の森は危ないよ……一緒に、うちまで来る?」
リコの胸が、激しく鳴った。
可愛い。
温かい。
生きてる。
少女の小さな手が、差し出される。
リコは後ずさった。
「……だめ」
少女は首を傾げる。
「え?」
リコの声が震える。
「私なんかと一緒にいたら……この子は……
きっと、食べちゃう。
また、美味しそうって思って……
首を絞めて、解体して、味わって……
全部、私の中に閉じ込めて……
でも、また寂しくなるだけ……」
リコは自分の腕を抱きしめて、目を逸らした。
「……ごめんね。
私、行かなきゃ。
あなたと一緒にいたら、あなたを傷つける。
私は、人じゃない。
ただの、怪物だよ」
少女は静かにリコを見つめた。
その瞳は、驚きも恐怖もなかった。
ただ、優しい光だけが浮かんでいる。
「……お姉ちゃん、寂しいの?」
リコの息が止まった。
少女は一歩近づいて、そっと手を伸ばす。
「私、森で一人で暮らしてるの。
誰も来ないから、寂しいって思ったことあるよ。
でも、今日はお姉ちゃんに会えて、嬉しい」
リコはさらに後ずさる。
「だめ……触らないで……
私、食べちゃうよ……
あなたを、美味しそうって思ったら……
もう、止められないかもしれない……」
涙が、リコの頰を伝う。
少女は微笑んだ。
「大丈夫だよ。
お姉ちゃんが食べたいって思うなら……
それでもいいよ。
でも、まずは一緒に座ろう?
お話、しようよ」
リコの心が、激しく揺れる。
食べたい。
この子の温もりを、全部知りたい。
頰の柔らかさ、髪の匂い、心臓の鼓動……
全部、味わいたい。
でも、同時に、
ミリアの声が響く。
「それは愛じゃない」
リコは両手で顔を覆った。
「……行って。
お願いだから、逃げて。
私と一緒にいたら、この子は……
きっと、死ぬ」
少女は静かに首を振った。
「お姉ちゃんが寂しいなら、
私はここにいるよ。
食べられてもいい。
だって、お姉ちゃんも、誰かに必要とされたいんでしょ?」
リコの胸が、痛いほどに締め付けられる。
孤独。
これまでずっと、埋めようとして、
逆に失い続けてきたもの。
リコはゆっくりと立ち上がった。
「……ごめんね」
そして、少女に背を向けて、
再び、森の奥へと走り出した。
後ろから、少女の声が追いかけてくる。
「お姉ちゃん! 待って!」
リコは振り返らず、走る。
走る。
涙が、風に飛ばされる。
「……もう、誰も近づけない。
私は、一人でいい……
一人で、寂しさを抱えて……
それが、私の罰だ」
森は深く、暗い。
リコの白い髪が、木々の間に消えていく。
少女は立ち尽くしたまま、
小さな花の冠を、そっと胸に抱いた。
「お姉ちゃん……!?」
風が、木々を揺らす。
リコは、どこまでも、
一人で、
逃げ続ける。
木の根に足を取られ、何度も転びそうになる。
息が苦しい。
心臓が、壊れそうに鳴っている。
後ろから、少女の声が追いかけてきた。
「待って! お姉ちゃん、待ってよ!」
リコは足を止めた。
振り返らないまま、肩を震わせて立ち尽くす。
少女は息を切らしながら、近づいてきた。
淡い緑色の髪が、月明かりに揺れている。
「……どうして、逃げるの?」
リコは背中を向けたまま、掠れた声で答えた。
「だから……私なんかと一緒にいたら、あなたは、死ぬよ。私は、みんなを食べてきた。
可愛いと思った人を、全部、殺して、味わって、
自分のものにした。
でも、食べれば食べるほど、
心が空っぽになっていく……
もう、誰かを傷つけたくない」
少女は静かにリコの背中に近づき、
そっと袖を掴んだ。
「待って。何があったか、教えてよ。
私は……全部、受け止めるから」
リコの体が、びくりと震えた。
ゆっくりと振り返る。
瞳は涙でぐしゃぐしゃ。
唇が震えている。
「……本当に?全部、知ったら……きっと、嫌いになるよ」
少女は首を振った。
「嫌いにならない。教えて」
リコは膝から崩れ落ちるように座り込んだ。
少女も、その隣に静かに座る。
リコは、震える声で話し始めた。
「私は……前世で、アヤカって名前だった。
普通の女の子だったのに……
彼氏の味が、知りたくなって……
彼を殺して、解体して、全部食べた。
美味しかった。
でも、食べた瞬間、彼はもういなくなった。
温もりも、笑顔も、全部失った。
裁判で死刑になって……
首を吊られて、死んだ。
それで、この異世界に転生したの。
美少女になって……でも、心は変わらなくて……
また、食べ始めた。
ミミちゃん、
エリナちゃん、
ルナちゃん、
エレナさん、
セラちゃん、
アリアさん、
リリとルル……
そして、エリナちゃんのお母さんのミリアさん……
みんな、美味しかった。
でも、食べ終わるたび、
もっと寂しくなった……
私は、怪物だよ。
愛してるつもりで、全部壊してきた……」
リコは両手で顔を覆い、嗚咽を漏らした。
少女は静かに聞いていた。
恐怖の色は一切浮かばない。
ただ、優しい瞳でリコを見つめている。
リコは顔を上げて、弱々しく笑った。
「……どう?怖いでしょ?もう、逃げた方がいいよ。私と一緒にいたら、あなたも……」
少女はリコの手を、そっと握った。
温かい。
小さな手が、優しく包み込む。
「受け止めるよ。全部。
お姉ちゃんがアヤカだったことも、
前世で人を食べたことも、
この世界でたくさんの人を食べたことも……
全部、受け止める。
私は、森で一人で生きてきた。
お姉ちゃんが寂しいなら、
私がそばにいるよ。
食べたいって思ったら……
それでも、いい。
私は、お姉ちゃんの全部を、受け止めるから。」
リコの瞳から、大粒の涙が溢れた。
「……どうして?どうして、そんなに優しいの?
私は、罪をいっぱい背負ってる。孤独で、怖くて、
大切なものを自分で壊してきた……私は、愛して良いのかな?誰かを、本当に愛して、そばにいても良いのかな……?」
声が、嗚咽に変わる。
少女はリコを抱きしめた。
小さな体で、精一杯に。
「いいよ。愛して良い。
お姉ちゃんが、愛したいって思うなら……
私は、ここにいる。寂しいのも、罪悪感も、
全部抱きしめてあげる。
お姉ちゃんは、もう一人じゃないよ」
リコは少女の胸に顔をうずめて、
声を殺して泣いた。
長い、長い時間。
森の木々が、静かに二人を見守っている。
リコの心の穴は、まだ完全に埋まっていない。
でも、初めて、
誰かに「受け止めてもらった」感覚が、
温かく広がっていく。
「……ありがとう」
リコは、かすれた声で囁いた。
少女は微笑んで、リコの髪を優しく撫でた。
「うん。これから、ゆっくりね。一緒に、歩こう」
月明かりが、二人の影を長く伸ばす。
リコは、まだ怪物かもしれない。
でも、
たった一人の温もりが、
初めて、
「愛して良い」と、
教えてくれた。
森の奥で。
でも…
それは本当かな?
怪物は…近くにいるかもしれない。
「アヤカ…ここにいたんだね。」
少女は怪しげな笑みを浮かべ、
前世の記憶を思い出していた。




