8、月夜の誓い(前編)
涙に濡れたフェリシアンを見て、呆然と立ち尽くしているメイド――もといマチルダ。
いきなり現れたメイドに、アスベル伯爵は顔を顰めて口を開く。
「何の用だ」
そう聞かれたマチルダは、我に返ってメイドの口調で話し始めた。
「あのっ、マチルダ王女がフェリシアン様にご用件があると。フェリシアン様だけ案内せよとのことです」
「ふん。行ってこいフェリシアン。くれぐれも……分かっているな?」
伯爵は強い眼差しで彼の行動を牽制し、邸宅の方へ戻って行った。
「……こんな顔をマチルダ様に見せる訳にはいかない。伝言を頼みたいんだけど」
マチルダの変装に気付いていないフェリシアンは、手で涙を拭いながらそう言った。
以前の人生で、彼が涙を流した瞬間を見たことがあっただろうか。マチルダの心が揺さぶられる。
「フェリシアン……」
マチルダは思わず彼の名を呼んでいた。
メイドにそう呼ばれたフェリシアンは、ぎょっとして顔を上げる。
メイドの首には昼間マチルダが手に入れた魔法具があった。
「……まさか」
次の瞬間メイドが光に包まれ、マチルダの姿に戻った。
「……ごめんなさい。話を聞いてしまったわ」
マチルダは気まずそうに俯いた。盗み聞きするつもりはなかった。しかし聞いてしまったからには、今更嘆いても遅い。
困惑するフェリシアンに向かって、マチルダは控えめに声を上げた。
「でもどういうことなの? 私、何も知らなかったの。あなたのお母上は病で亡くなったと聞いていたから……」
マチルダの声は徐々に震える。彼女の純粋な問いかけに、彼は静かに目を伏せた。
「それは建前です。……母は陛下の寵愛を受ける予定だったんです。しかし王命に背き、自ら死を選びました」
彼の口から真実が語られ、マチルダの目の前が真っ白になった。
「それで母の代わりに私が王宮に入ることになり、あなたの婚約者に選ばれました」
「そんな……」
手の震えがおさまらない。
「お父様が……あなたとあなたの家族の人生を壊してしまったっていうの?」
マチルダの両目から、じわじわと大粒の涙がこぼれた。彼の境遇を思うと、以前の人生で自分が彼に対して行なってきた行動がどれだけ酷い仕打ちだったか――考えただけで気がおかしくなりそうだった。
「ごめんなさい。ごめんなさい、フェリシアン。あなたは私を嫌って当然だわ。そんな過去があったなんて、知らなかった。何も知らないのに私……あなたにたくさん要求して、振り回したわ。辛かったでしょう。王族なんて憎いに決まっているのに」
その言葉は目の前の彼だけではなく、以前の人生で夫だった彼にも向けられたものだった。
取り乱すマチルダを前に、フェリシアンは驚きつつも冷静に首を振る。
「違います。私は今まで、あなたを嫌ったことなどありません」
「……うそよ」
「嘘ではありません。それに王家への恨みも……もうないです。余計な感情は消えてしまったんです。だから泣かないでくださ……」
「だめよそんなの! あなたは憎んでいい! 怒ってもいいし、泣いてもいいの!」
マチルダがそう声を張り上げると、フェリシアンの瞳の奥が揺れた。
母の死後、悲しみさえも表に出すことを禁じられた日々。そして家を守るため、感情を出さない都合の良い人形であることを強要された日々。
(……あの時、本当に言って欲しかった言葉はこれだったんだ)
彼の心の奥底の悲しみが、今初めて認められた気がした。
「フェリシアン。あなたの母上の無念はもう、誰にも癒せないのかもしれない」
マチルダはそう言って、息を吸い込む。
「でも私はあなたの感情を受け止めるわ。憎しみでも悲しみでも、どんな形でも受け止めるから」
その瞳はまっすぐに彼を見上げる。
月明かりに照らされながらそう語るマチルダの姿は気高く、まるで聖女のように見えた。
フェリシアンは彼女のその内なる輝きに息を呑んだ。
ふたりの間に、静かな沈黙が流れる。
やがてフェリシアンの唇がわずかに震え、彼の感情が少しずつ現れ始めた。
「……悲しかった。どうして母上があんな目に合わないといけなかったんだって、恨んだ。でも僕は……何もできなかった。言いなりの人形になるしかなかった」
感情の蓋が開き、押し殺していた想いが零れ落ちる。
「……ずっとこの人生に納得なんてしていない」
彼の拳は強く握り締められ、俯いた横顔は月光に淡く照らされている。
「そう……話してくれてありがとう」
マチルダは静かにそう言った。そして彼に一歩近づき、手を伸ばす。まるで子供をあやすかのように、彼の頭を優しい手つきで撫でた。
フェリシアンの肩が揺れる。しかしその手の温もりに、じわじわと心が溶かされていく気がした。
(マチルダ様のことをずっと誤解していた。今まで蔑まれることに抵抗せず、下を向いていたあなたは僕と一緒だと思っていた。だから同情したし、だけど鏡を見ているようでどこか落ち着かなかった)
彼は真っすぐマチルダを見つめた。彼女は決して弱い王女ではなかった。
(あなたは最初から私に同情されるような人ではなかったんだ。こんなにも温かで、気高く、芯の強い人だった)
フェリシアンは目の前に婚約者――影の王女と蔑まれる彼女の本質に初めて触れた気がした。
一方マチルダは撫でていた手を戻すと、自身の胸元の母の形見をそっと掴んでいた。
(以前の人生でも、こうやってフェリシアンと話すべきだった。そうすれば、私もあなたも少しは救われたのかもしれない。だから私も……あなたにだけは秘密を話すわ)
マチルダは決意に満ちた目をしていた。




