3、お飾りの婚約者
「久しぶりね」
王宮に隣接する祭殿では、王家の繁栄を祈る祭事がつい先ほど幕を下ろした。
厳かな余韻の残る中、マチルダは王宮の庭園へ案内されていた。
花に囲まれたガゼボには、二脚の椅子と丸いテーブル。
そこは既にお茶の支度が整い、婚約者にフェリシアンと二人で過ごすための形式的な場が用意されていた。
彼がこのように王宮を訪れるのは、今日のような特別な日だけだ
「マチルダ王女殿下、ご無沙汰しております。お元気でしたか」
「……ええ、元気よ」
マチルダは巻き戻ってから初めて対面する婚約者のフェリシアンに、思わず表情を固くする。
彼の長いまつ毛に縁取られた瞳はこちらを見ているようで、どこか遠くを映している。
肩まで触れそうな長さの金髪に、大きな碧眼。まるで絵画の中の天使のように可愛らしい容姿に、少し少年っぽさを加えた十二歳のフェリシアン。
この美貌に、以前の人生で何度恋焦がれたことだろうか。
(……大丈夫。もう愛さないって決めたんだから。無理に話そうとしなくていい。適当に、やり過ごせばいいんだから)
マチルダは身に纏った琥珀色のドレスの裾を持ち、椅子に腰を下ろした。そして長い前髪を耳にかけ、咳払いを一つして声を上げた。
「お、お茶を飲みましょう。とにかく静かにお茶を飲みたいのよ」
「はい。そうしましょう」
フェリシアンは見慣れた柔らかな表情で、静かにティーカップを手に取った。
(昔は彼に好かれたくて、必死になってた。でも今はそんなことしない)
いずれ時間が来れば、侍女が現れてこの場を切り上げてくれる。マチルダはそれまでの時間を、ただ静かに待つことにした。
(今重要なのは私とお兄様の未来を変えること。そうよ。まずは王宮の外で魔法具を入手したり、調べ物がしたいわね)
マチルダはそんなことを考えながら、ケーキに手をつける。
(以前の人生では自由に出かけられなかった。影の王女の願いなんて聞き入れてもらえなかったから。だけど、リチャードお兄様に頼めば……なんとかなるかもしれない)
マチルダが他所ごとを考えているので、ふたりの間の会話はない。フェリシアンは無表情でカップの中をじっと見つめているだけだ。
(とにかく、こんな茶番は早く切り上げましょ……)
マチルダがそう思った時だった。
「まあまあ、なんて白けたお茶会なの? マチルダ、せっかく麗しの婚約者が来てくれたんだから、もっと楽しくおしゃべりしなきゃ」
レースたっぷりの豪華なピンクのドレスに身を包み、わざとらしくにんまりと怪しい笑みを浮かべているのは、異母姉のリリアナだ。
リリアナは姉ではあるけれど、生まれはマチルダより一ヶ月ほど早いだけ。そのため、背丈もマチルダと変わらない。それに童顔で、灰色の巻き髪を二つに結っているため実年齢よりも幼く見える。
(何しに来たの?)
マチルダの表情が不安そうに沈む。
嘘くさい笑みを浮かべたリリアナが二人に近づく。そして彼女は後ろにいた侍女が運んできた新しいカップを、マチルダの前にそっと置いた。
「お姉様特製のお茶よ。マチルダのためにわざわざ持ってきてあげたの。感謝して?」
「えっ……」
マチルダは突然のことで言葉を失った。
「こないだはごめんね? 私のプレゼントに、あなたがあんなにびっくりするなんて思わなくって。ふふ、今日はそのお詫びよ」
リリアナは大きな目を輝かせてそう言った。言葉とは裏腹に、彼女の態度は全く申し訳なさそうではない。
マチルダはそのカップをじっと見つめた。
中は黒くて何も見えない。
「あ……」
(思い出した)
マチルダは、ふと以前の人生での出来事を思い出した。
あの日。
「妹なんだから飲みなさいよ」と無理やり渡されたカップ。
渋くてぬるい味と共に、口の中に広がった嫌な感触。噛んでしまったそれが、何だったのか、理解した瞬間の吐き気。
笑いながらそれを見ていたリリアナの顔。
この真っ黒な液体の中には蜘蛛や毛虫の死骸が入っている。
(またこれ……?)
血が煮えたぎるような音を立てた。
以前の人生でされた様々な仕打ちが頭を巡る。されるがままだった人生。見下されて、見下されて、そして何も言い返せないまま死んでしまった。
『またリリアナに何かされたら、やり返してやるといい』
マチルダが先日、リチャードに言われた言葉だ。
その言葉が頭に響き渡ると、考えるよりも先に、彼女の口からは蓄積された怒りが飛び出していた。
「……ふざけないでよ」
マチルダはゆっくり立ち上がり、カップを掴んだ。
そしてそのままカップを振りかざし、リリアナのドレスにめがけて中身の液体をかけた。
「え?」
一瞬にしてリリアナの花のように可憐なドレスが黒く染まる。レースは汚れ、虫の死骸が布にぺたりと貼りついた。
「きゃあああっ!? な、なにするのよっ!」
リリアナが飛びのく。
その悲鳴を聞いても、マチルダは一歩も引かなかった。
顔は怒りに染まり、感情が溢れ出して止まらなかった。
「懲りないわね、リリアナ。こんなことして恥ずかしくないの?」
「な、何よ! いつもみたいに私を楽しませなさいよ! あんたは私のおもちゃなんだから!」
「……おもちゃじゃないわ。当然だけど、私だって一人の人間なの。私はもうあなたの思い通りにはならないから」
マチルダの言葉が空気を切り裂いた。
その瞬間、フェリシアンの指先がピクリと動いた。彼の目はマチルダを真っ直ぐに見据えている。
しかしその変化にマチルダは気付かない。今、彼女の視線の先はリリアナだけ。
そしてリリアナも、彼女の先ほどの言葉に顔を引き攣らせ、そのまま手を勢いよく振り上げた。
「つべこべうるさい!」
バン、と平手打ちの音が響いた。
それとともにマチルダの頬が赤く染まる。
だが、怯まない。平手打ちなど、前の人生で五万と受けた。彼女は泣くどころか、顔を上げ真っ直ぐに睨み返す。
「殴れば言うことを聞くと思った? そんな手は効かないわ」
「……なによっ! 生意気!」
リリアナは自分の手をさすりながら、悔しそうに顔を歪める。
「殴りたいならもっと殴ればいい。でも覚えておきなさい。私を殴ればその分、あなたの手も腫れ上がるの。祭事の日に『殴り合いをしたバカな王女』って笑われるのは、私だけじゃないわ。あなたも道連れよ」
強い眼差しでそう声を上げるマチルダ。その勢いに負けて、リリアナは思わず後ずさる。
「……っ、今日はどうしてこんなに強気なわけっ? 覚えてなさい! お母様にあんたのこと言いつけるから!」
リリアナはそう叫ぶと、侍女に促されて早々に去っていった。
(言えた……)
嵐が去った後のように静まり返ったガゼボに、冷たい風が吹く。
マチルダは生まれて初めてリリアナに言い返した。
初めて彼女に勝ったのだ。
「はああああ……」
緊張が抜けて、マチルダは思わず大きく息を吐いた。
(夢みたい……あのリリアナに怯まず言い返すことができた。本当はこの場面が二回目で、相手が子供の姿だったから強く言えたんだけど、それでも……それでも……ずっと耐えるだけだった私が……)
じわじわと喜びが湧き上がる。
「やった……」
心の声が溢れ出る。マチルダは満面の笑みで顔を上げると、視界の片隅に人影があることに気付いた。
「あ……」
「……」
(隣にフェリシアンがいるの忘れてた……)
リリアナとの戦いに夢中で、彼女はこの空間にずっとフェリシアンがいたということを忘れていた。
真っ青になるマチルダと、気まずそうに視線を逸らすフェリシアン。しばしの沈黙が訪れた。




