1、冷遇王女の数奇な人生
(私の人生って、何だったの……?)
王女の黒いドレスが、血で染まる。腹をえぐる冷たい刃。
遠ざかる意識の中、周囲のざわめきだけが聞こえる。しかし誰も、王女を助けに来ない。
「……マチルダ様!」
聞き覚えのある声に、驚きと切なさが滲む。
だけどもう遅い。
痛みと絶望の間で彼女は、呼びかける声の主の腕の中で息絶えた。
(これが、私の最期……)
数分前。
「ねえ見て。フェリシアン様よ」
「まあ、なんてお美しいの……!」
「目の保養だわ。最近は……ほら、あまり公の場にいらっしゃらなかったから」
派手に着飾った令嬢たちは口々に噂話をする。彼女たちの熱っぽい視線の先にはとある人物がいる。
第二王女婿、フェリシアン。
金髪碧眼の中性的で華やかな美貌。
どこか儚げで絵画のような神聖さが漂う彼はまさしく、誰もが心奪われる国内一の美丈夫だ。
(……はしたない)
フェリシアンに集まる視線を横目に、すぐそばにいた細身の王女は溜息をついた。
彼女の名はマチルダ。
この国の第二王女であり、王宮で最も冷遇されている通称『影の王女』だ。
彼女の地味で陰気な外見は、片目にかかるほど伸びた前髪と、カラスのような黒髪と漆黒のドレスのせいであろう。それに加えて、彼女の表情はこの世に絶望しているかのように暗い。
今夜の貴族たちが集まるパーティーでは、彼女は異質の存在感を見せていた。
マチルダとフェリシアン――誰が見ても二人は似合いとは言い難い。
「それにしても影の王女はまだ喪服を着ているのね」
「王子殿下の喪はとっくに明けたと言うのに……気味が悪いわ」
貴族令嬢たちが、王女であるマチルダにこんな無礼で好き勝手を言えてしまうのは、彼女が後ろ盾のない立場の弱い王女だからである。
終わらない陰口に、マチルダは聞こえていないふりをして俯く。
「今は亡き聖女様の娘なのに、神力がないんじゃねえ……」
「陛下も失望していらっしゃるわ。だから影の王女なんて呼ばれるのよ」
今まで何度も言われてきた言葉に、耳を塞ぎたくなる。
こんな風に言われても、神聖な血を継ぐ者として形式だけの祭事を担い、結婚後も宮殿を離れることは許されなかった。彼女に逃げ場はない。
「……はしたない人たち」
マチルダは唇を噛み締めて小さな声で呟いた。これが彼女が唯一できる反撃だ。
しかし周囲の声にかき消され、ただの独り言となって終わる。いつものことだ。
「何か、気になることでも?」
隣にいる美青年――もとい夫のフェリシアンは静かにそう聞き返した。
その表情は柔らかく、慈愛に満ちているように見える。しかし目だけは笑っていない。
マチルダはもう知っている。彼の笑顔が仮面にすぎないことを。
マチルダはフェリシアンを見上げ、今までの彼との結婚生活を思い返す。
(泣いている私を見ても、あなたは寄り添ってもくれなかった。それがあなたの本性……私、知ってるのよ)
マチルダは頭の片隅でそう思いながら、我に返った。
彼との会話の途中だった。
マチルダは不敬な令嬢たちに視線を移しながら、ボソボソと言葉を続けた。
「あなたも聞こえていたでしょう? あの者たちの噂話を。お兄様が亡くなられたばかりだと言うのに、あの者たちは浮かれて噂話ばかりして……おまけにあなたを見て色めきだっているわ。……はしたない人たちね」
マチルダは手元のグラスを強く握った。中のワインがわずかに揺れている。
「……そうですね」
伏目がちにそう答えるフェリシアンは、どこか遠くに心を置いてきてしまったかのようにも見える。
マチルダはその回答にうんざりした気持ちになった。いつもこうだ。
(あなたは最初から私と何かを議論する気はないのよね。知ってるわ。いつもどんな時も、あなたはただお飾り)
マチルダの心にはやり場のない怒りが湧く。
「やっぱりあなたも喪服で来るべきだったわね。そうすれば皆、お兄様の不幸を忘れて浮かれたりしないわ」
フェリシアンのまつ毛がわずかに震えた。
「リチャード殿下の喪は明けましたから。私は王家の総意に合わせることしか出来ません」
「総意って……私の気持ちは消されてもいいっていうの? 結局あなたはいつもそう。その場で取り繕うだけの中身のないお人形だわ」
マチルダは皮肉げにそう言い放つと、フェリシアンは何も言わず、ワイングラスを持ち直して静かに一口飲んだ。
「私の立場はそういうものです」
挑発的なマチルダの発言を受けても、彼は淡々とそう答える。その声色に怒りや悲しみなどの感情は感じられない。
(嘘でも否定してくれれば良かったのに。人形ではなく、あなたの夫だと一言言ってくれれば……私はここまで惨めな気持ちにならないのに)
マチルダはまたしても彼に心を閉ざされたのだと感じ、愕然とした。
「あなたの立場には、愛はないのね」
彼女は手に持っていたグラスを侍従に押し付けた。
「少し、外の空気を吸ってくるわ。ここにいると息が詰まりそう」
マチルダは周囲に聞こえるようにそう言うと、フェリシアンをひと睨みした。楽しげな旋律を奏でる空間で、二人だけが異質の空気をまとっていた。
マチルダは足早に外へと繋がる扉まで歩き出した。
扉の前でもう一度振り返り、ホール全体を見渡す。
ホールの奥のほうにはフェリシアンがいる。令嬢たちに囲まれて、薄っぺらい笑みをばら撒いている。彼はこちらを見ようともしない。
(分かってはいたけど、追いかけてすら来ないのね……)
自分から離れたのに、引きとめられない現実が、ただ静かに突き刺さる。
(もう以前のように優しかったお兄様もいない。私は本当に一人になってしまったのね……)
侍従が扉を開け、マチルダは涙を堪えて再び歩き出した。
その時だった。
「え……?」
外にいた見慣れない顔の衛兵が、素早くマチルダに近づいてきた。そして次の瞬間、冷たい鋭利な金属の感触が腹に突き刺さった。突然、衛兵が剣で彼女を斬りつけたのだ。
あたりは一瞬にして血の海になった。
(痛いっ……! 私……死ぬの?)
彼女の黒いドレスは、血で更に禍々しい色に染まっている。
膝から崩れ落ちるその視界の片隅に、剣の鍔がわずかに光を反射する。
そこには古代王家の紋章――マチルダは意味もわからぬまま、痛みと共に意識が遠のいていく。
(私の人生って何だったの……?)
「きゃああ!」
「影の王女が!」
血みどろの現場に、周囲は騒然となった。しかしマチルダはもう目を開くこともできない。大量に出血し、意識も遠のいている。
「……マチルダ様!」
そんな混乱の中、フェリシアンが血相を変えて血まみれの王女に駆け寄った。彼は愕然としながら、彼女を抱き寄せた。相当動揺しているのか、彼の手は震えている。
「何をしてる! 早く医官を呼べ!」
(この声は……フェリシアン? あなた……そんな大きな声も出せたのね)
彼らしくない怒号が耳に残る。
「誰かここで何があったのか知る者はいないのか!」
(あなたは今、どんな顔をしているの。そんなこと……もう関係ないわね。……次の人生はせめて、誰にも踏みつけられない人生がいい――)
マチルダはそんなことを考えながら、彼の腕の中で息絶えた。
……はずだった。




