18、東国の聖女(前編)
東国と聞けば、マチルダが思い出すことは、ただ一つだった。
あれは今から八年前――マチルダが七歳のときのこと。
王宮に、東国ジャハルカンから『幼き聖女』が訪れた。
聖女の名はハーラディ。
そして東国の皇女でもあった。
豪奢な刺繍と宝石で彩られた民族衣装に身を包んだまだ幼い少女。
顔の上半分は、身分ある者の証として、薄灰色のベールに覆われていた。
侍女たちに囲まれてゆっくりと歩くその姿は気高く、まさしく聖女。しかし同時に、どこか得体の知れない小さな魔女のようにも見えた。
彼女はマチルダと同い年。そして同じく末の皇女だった。
だが十三人いる兄姉の中で、最も大切にされている存在だと紹介された。
彼女には、不思議な力があった。
叡智の神力――全てを見通す預言者のようなその力で、彼女は東国を栄えさせていた。
その一点において、マチルダとは正反対だった。
東国の聖女の滞在は一ヶ月。その間、彼女は何度も王宮の片隅にいるマチルダを訪ねてきた。
ある日の午後。園庭の木陰のベンチに座り、一人で本を読んでいたマチルダの前にハーラディは現れた。
「マチルダ、遊びましょ」
振り向くと、灰色のベール越しに小さく微笑む彼女がいた。
彼女の遊び相手は、リリアナやその取り巻きが担っていたはずだ。それなのに、彼女はマチルダの前にやってくる。
「……ハーラディ。どうして私に構うの?」
「どうしてって、あなたとお友達になりたいから。ジャハルカンでは、私は誰にも話しかけてはいけないのよ。でもここではいいの」
「話しかけてはいけないって、あなたは悪いことをしたの?」
マチルダは思わず本を閉じ、心配そうに顔を上げる。
ハーラディは小さく首を振った。
「違うわ。私はなんでも知れる神力があるでしょ。だから誰かと仲良くなると、私の力を巡って争いが起きてしまうの」
「……そうなの? 強い力があるというのも大変なんだね」
「そうよ。あなたも同じでしょう?」
そう言われてマチルダは苦笑する。
「私には神力はないの。だからそんな心配はいらないわ」
彼女の言葉に、ハーラディは一瞬目を見開いた。しかし灰色のベールがそれを隠す。
ハーラディは、何事もなかったかのように静かに頷いた。
「……ふふ、そうね。じゃあ、あっちで遊びましょう」
そう言って、ためらいなくマチルダの手を取る。
顔にかかったベールのせいで、マチルダはハーラディの目の色も、形も知らない。知っているのは、笑うとめいっぱい上がる口角だけ。
それでも、彼女が心の底から楽しんでいることは分かった。
そしてマチルダも、初めてできた友人との時間に胸を弾ませていた。
(だけどその後すぐ、東国で起きたクーデターで彼女は処刑された)
東国崩壊の報せを聞いたとき、幼いマチルダはすぐには理解できなかった。
理解したくなかったのかもしれない。
初めてできた友人だった。
胸の奥を静かにえぐり取られたような感覚だけが、今も消えずに残っている。
あの日々を、忘れたことは一度もない。
そしてジェイス・クロードに会った。
彼を初めて見た瞬間、マチルダの胸の奥がかすかにざわめいた。
(もしかしたら――彼は、ハーラディに近しい人だった?)
必死に記憶を遡る。だが、そんなはずはないと気づく。
(東国の貴族は幼少期から男女分けて生活する慣習がある。だからあの時、ハーラディの周りにいたのは大人の女性ばかりだった)
マチルダは自身の首にかかる魔法具に触れて、ふと一つの可能性を感じた。
(……もしハーラディが処刑を逃れて、ジェイスという青年に変装していたとすれば……私のことを知っていてもおかしくはない)
憶測であるが、彼女が生きているかもしれないという希望が胸を熱くした。
――――
「彼……実は女性なんじゃないかしら」
学舎の窓辺に立ち、手すりに指をかけながらマチルダは呟いた。
視線の先には、学友たちに囲まれ談笑する青年――ジェイスの姿。
「それはないと思います」
隣でフェリシアンが即答する。
「あの者は二年も男子寮で生活しているようです。その間、誰にも気づかれず魔法で変装し続けるのは難しいかと。全校生徒を騙すとなると膨大な魔力消費ですし」
「そうよね……。変装魔法は複雑だもの。そんな簡単にはいかないわよね」
フェリシアンの返答に、マチルダは肩を落とす。
ジェイスのことで一喜一憂するマチルダに、フェリシアンは少々不満げに声を上げる。
「そんなにあの者が気になりますか?」
「……ええ。もし彼が本当は女性だったら、実は心当たりがあるの。小さい頃に一度会ったことがある人かもしれない」
「ですが、あれはどう見ても女性ではありませんよ」
「そうよね……」
フェリシアンはきっぱりと言い切り、わずかに眉をひそめた。
「……そこまでおっしゃるなら、確かめますか?」
その声音は心底嫌そうだった。マチルダは彼の横顔を見て、嫌な想像をする。
(……まさか、着替えているところに忍び込む気……?)
「あなたにそこまでさせられないわ。確かめなくていいから。絶対に、絶対にやめてね」
念を押され、フェリシアンは小さく苦笑した。
ちょうどその時、窓の外から弾む声が響いた。
「王女様ー!」
ジェイスがこちらを見上げ、大きく腕を振っていた。遠慮のない仕草に、周囲の視線が一斉にマチルダへと集まった。
(どうしてみんなが私を見ているの……?)
頬が熱くなる。
注目されることに慣れていないマチルダは、戸惑いながらも小さく手を振り返した。
その瞬間、ジェイスの顔がぱっと明るくなる。花が開くような、どこかで見たことのある屈託のない笑顔。めいっぱい上がるその口元に、確かに見覚えがあった。
(あの笑い方……)
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
一方で、隣に立つフェリシアンの表情は硬い。
(……馴れ馴れしい男だな)
鋭い視線をジェイスへ向けながら、彼は静かに牽制した。
「やっぱり彼と話すわ」
「……あの者は信用できません。危険です」
「だからあなたも一緒よ。お願い」
真っ直ぐ見上げられ、フェリシアンはわずかに息を吐いた。
「……分かりました」
声音には明らかな不本意が滲んでいる。だが彼は、マチルダが一人で動くよりはましだと判断した。




