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16、余韻と面影



 王宮での出来事から二日後。

 アカデミーに戻った二人は、まだあの日の口づけの余韻を引きずったまま、互いに顔を合わせた。


「……おはようございます」

「……おはよう」


 たったそれだけの挨拶なのに、妙に胸が騒ぐ。

 短い言葉が、かえって重苦しい空気を生んでいた。二人は目を合わせないまま、足早に歩く。


(どうしてこんなに恥ずかしいの!)


 あの日は大変だった。

 フェリシアンを傷つけたリリアナが許せなくて、頭に血が昇って気がおかしくなった。そして結局またフェリシアンを傷つけてしまった。

 問題はそのあとだ。例の口づけを思い出して、マチルダの顔がみるみると赤くなる。

 

(あの後の記憶がないわ。要件だけ話してすぐ帰してしまった気がする。もっと話したいことがあったのに。でも、余裕なんてあるはずない……)


 マチルダはそっと自身の唇に触れ、すぐさま頭をぶんぶん振ってあの感覚を思い出さないように励んだ。


(私たち、以前の人生では夫婦だったんだから、別に意識するようなことじゃないわ。前の人生では、義務ではあったけど……あれ以上のこともしてきたし……)


 そこまで考えて、はっとする。


(……なのに、どうして今の方がこんなに恥ずかしいのよ)


 思考がぐるぐると巡り、歩みはどんどん早くなる。表情が百面相し、落ち着きがない。

 一方フェリシアンの表情は暗く沈んでいた。


(マチルダ様の様子がおかしいのは私のせいだ……。あんな突発的な行動をしたからだな。……嫌われてしまった。馬鹿すぎる。避けられて当然だ)


 二人とも、心ここに在らずの朝を歩いていた。

 そこへ、明るい声が差し込む。


「おはようございまーす!」


 爽やかな声と共に、ミレイユがにこやかに駆け寄ってきた。

 二人はいつも通り彼女に挨拶をした。つもりだった。

 しかしミレイユからすれば、今の二人は違和感の塊だ。


 いつも親密そうな二人が、今日は目も合わせず微妙な距離をとっている。しかもマチルダは妙に頬を赤らめ、柄にもなく挙動不審に見える。


 ミレイユは、鋭く首をかしげながら問いかける。


「あのー、何かありました?」

「い、いいえ、なにも」

「……なにもない」


 二人は声を揃えて答え、お互いの声にびくつき、すぐさま目を逸らす。

 そんな二人を見たミレイユは、大きな目をぱちくりさせ、納得したように小声で呟いた。


「……はあ、なるほど。なにかあった……というより、進展したといった感じでしょうか」


 


 午前の授業が終わったころ、ミレイユは足を引きずりながら、マチルダに近づいてきた。


「実は……さっきの演習で足をくじいちゃったんです……」

「大丈夫? 手を貸すわ」


 マチルダは両手で持っていた教本を片手に持ち直し、即座に手を差し出した。


「そんな悪いですっ、でも……せっかくだからお言葉に甘えて……!」


 そう言うと、ミレイユは待ってました言わんばかりに、大げさにその手を握り、突如くるりと向きを変えた。

 そして、その先にいたフェリシアンの方へ勢いよく倒れた。


「わっ……!」


 その勢いに引っ張られ、マチルダはそのままフェリシアンのいる方向へ倒れ込んだ。

 フェリシアンはとっさにマチルダを支える。反射のような素早い動きだった。

 二人の距離が極限まで縮まって、意図せず密着する形になった。

 

 すぐ目の前に彼の整った顔がある。マチルダは思わず息を呑んだ。

 先日の口づけの感触が、不意に脳裏をよぎる。


 その横で、支えられなかったミレイユはそのまま地面に転がっている。

 しかしそれも計算のうちと、満足げに鼻息を鳴らして微笑んでいる。


「申し訳ございませんっ! 力が入らなくって! マチルダ様、フェリシアン様も大丈夫ですか!」

「ええ、……へ、平気。あなたこそ大丈夫?」


 マチルダはミレイユを気遣いながら真っ赤になった。

 しかしフェリシアンは、ミレイユに冷ややかな視線を向けている。


「お怪我はありませんか」

「ええ、な、ないわ」


(距離が……近い!)


 以前の人生でこんな風に守られたことなんてなかった。だから慣れない。

 マチルダの心臓は高鳴り、いつもより早口だ。彼女は急いでフェリシアンの腕から離れ、一息ついて汗を拭った。


(私、どうしちゃったの……)


 そう思いながら、呼吸を整える。

 そしてふと手元を見ると、手に持っていたはずの教本が一つ足りない。


(落とした……? わけではなさそう。さっきの講義堂に忘れたのかしら)


「さっきの部屋に忘れ物してしまったみたい」

「それならこのミレイユにお任せください! 今すぐとって参ります!」

「ううん、いいの。自分のことは自分でやるから」


(今はとにかく一人になりたい……)


 マチルダはミレイユの提案を断り、足早に一人で講義堂へ引き返した。


 残された二人の間に、沈黙が訪れる。

 ミレイユは困ったように首を傾げてフェリシアンを見上げた。

 すると彼は普通に歩いている彼女の足を凝視して、眉間に皺を寄せる。

 

「マチルダ様に嘘をついたのか」


 フェリシアンの声は、少し低く、そしてどこか困惑を含んでいた。


「あっ、ばれちゃった」

「……どういうつもり?」

「だ、だって朝から二人ともなんだか変でしたよ? 見てるともどかしいんで、きっかけを作ろうと思ったんです!」


 ミレイユは手を握りしめ、身を乗り出す。


「余計なお世話だ。君には関係ないし、それにたぶん……もう修復不可能だし」


 フェリシアンは俯きながら呟く。


「あんな顔をさせてしまったんだから」


(なんで泣きそうなの……?)


「話、聞いた方がいい……?」


 捨てられた子犬のような彼を見ると、ミレイユは自然とそう声をかけていた。


 


 ―――――


 


 講義堂はすでに昼休みの静けさに包まれていた。人影もまばらな室内に足を踏み入れた瞬間、マチルダは視線を感じて立ち止まる。


(見かけない顔……異国の人ね。留学生?)


 窓際に立っていたのは、褐色の肌に特徴的な垂れ目、癖っ毛がちな黒髪を持ったミステリアスな雰囲気の背の高い青年だ。

 学院の制服は身につけているその立ち姿には、なぜか不思議な存在感があった。


 目を奪われていると、青年もこちらを見て笑った。

 そして唐突に声が降ってきた。


「……わあ、もう覚えてないかなって思ってたんだけど。会いにきてくれたんだ。嬉しいな」


 唐突に投げかけられた声に、マチルダは思わず眉をひそめる。


「えっと、どなたかと間違えてない?」

「あれー? ……ま、この姿じゃ無理もないか」

「え?」

「ううん。こっちの話。僕はてっきり、君が僕に会いにきてくれたのかと……」


 軽く笑って肩をすくめる仕草は親しげで、初めて会った気がしない。

 青年は楽しげに口を開く。


「うーんと、じゃあはじめましてになるのかな? 僕はジェイス・クロード。先日公式にクロード侯爵家の跡継ぎになった者です」


 その名を聞き、マチルダは思い当たる。


「クロード伯が養子をとったという話は知っていたわ。それってあなたなのね」

「そうです。ふふ、伯爵の息子が異国人なんて変だよねぇ」

「変というか、珍しいことね。……それにしても、この国の言葉がお上手だけど、どちらの生まれなの?」

「東国だよ。六年前にクーデターがあってから、ずっとこの国で生活してるんだ」


 ジェイスはあっけらかんとした笑顔でそう言い切った。その顔はどこか儚げにも見えた。


(東国――あそこはクーデターが起こってから、ずっと情勢が悪化している。あれから東国の貴族は大半処刑されたときいたけど、亡命した人もいたと聞いたことがある……この人もそうなのね)


 マチルダは遠く離れた国に想いを馳せた。

 東国と聞けば、マチルダは思い出す人が一人いる。しかし目の前の青年は全く関係がない。

 以前の人生でも、こんな異国の青年と関わった記憶はなかった。今がどう考えても初対面だ。


「あの……私たちってどこで会ったのかしら? さっきそんな話をしてたでしょ?」


 その一言にジェイスは目を細め、意味深な笑みを浮かべた。


「会ってるけど、僕からは言えない。だから自力で思い出してね。王女様」


 その言葉を残し、ジェイスは講義堂を後にした。


 取り残されたマチルダは、胸の奥に小さなざわめきを覚えながら、忘れ物を手に取った。



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