15、キスバトル(後編)
王宮内の回廊を、リリアナは気分良さげに歩いていた。後ろの侍女たちは少々やつれているようにも見える。
その前に、マチルダは立ちはだかった。
「なあに? 邪魔なんだけど」
「あなたがフェリシアンにやったこと、反省してもらうから」
凛とした声をあげるマチルダに、リリアナは下品な高笑いをあげた。
「あっはははは! なにそれ! ショックでおかしくなっちゃった? あはは!」
「……黙りなさい」
マチルダの怒りが頂点に達した。
(フェリシアンに与えた苦しみ……償ってもらう)
マチルダは強い眼差しでリリアナに接近し、彼女の両肩を力強く掴んだ。
「なっ、何? 殴る気? そんなことしたらただじゃおかなっ――いだっ!」
次の瞬間、マチルダは勢いを付けてリリアナに頭突きをした。
王女二人の額が赤く腫れる。
そしてそのまま、じわじわと顔を近づける。
「そんなにキスがしたいなら、この私がしてあげるわ」
「はっ?! えっ……うそ、やだやだやだ! 離して!」
リリアナの目が見開かれる。後ろの侍女たちは恐ろしい光景を見ているかのごとく、ぎょっとして声を失う。
しかしマチルダだけは表情ひとつ変えない。その目は本気だ。
「……ほら、あと少し」
そう言って、リリアナの息を奪うほどの距離まで近づく。別の角度から見れば、もうこれは口付けしているようにすら見える距離である。
マチルダの狂気にリリアナは徐々に涙目になる。
「ひっ、ごめんなさいっ、ごめんなさいごめんなさい! からかうつもりだったの。本当に。本当よ……だから許してっ! もうこんなことしないからっ」
必死に顔を反らせて、マチルダから避けようと震えるリリアナ。マチルダはそんな彼女を無言で見下ろし、そのまま手を離した。
リリアナはやっと解放され、急いでマチルダから距離をとる。
「……本気でするわけないでしょ」
マチルダは無表情のまま、地を這うような低い声でそう言い捨てた。
「好きでもない相手にいきなり迫られる恐怖、わかった?」
リリアナは青い顔のまま、口元を押さえている。
「フェリシアンを巻き込むつもりだったみたいだけど、残念。噂の的はしばらく私たちね」
リリアナはそれを聞いて周囲を見渡し、ショックで腰を抜かす。
気がつくと周囲は騒がしくなっていた。ひそひそと先ほどの出来事を話す侍女、侍従、衛兵たち。
これだけ人が集まれば、リリアナにとって不名誉な噂が尾びれ背びれがついて流れることは間違いない。
そしてそれはリリアナにとって致命的であることをマチルダは知っていた。
(あなたのお母様――第二王妃ヘレーネは古風で厳格な思想の持ち主。姉妹でこんな噂が立ってしまったら、大好きなお母様から失望されるわね)
マチルダの完全勝利だった。リリアナは項垂れ、戦意喪失してしまっている。
(もう金輪際、あなたは私に近づけないわね。近付けばまた噂されてしまうもの)
マチルダは満足そうに微笑んで完璧な礼をする。
人混みを離れると、回廊の先にはレオニスがいた。しかしマチルダは表情ひとつ変えない。
一方彼の方は、ことの一部始終を見てしまったのか。顔を引き攣らせていた。
「おえっ……どういう状況だあれは。というか、本当はやってないんだろ?」
レオニスは珍しく動揺した様子でそう口を開く。
(ここからじゃ、本当にキスしてるみたいに見えたのね)
妹たちの度の超えた小競り合いを目撃してしまった心中は察するが、マチルダは正直、彼にどう思われようがどうでもよかった。
「お兄様のご想像にお任せします」
そう言い放ってそのまま足を止めずに、すれ違う。
しかしレオニスは彼女を引き留めるように、再び静かに声を上げた。
「……お、おい、待て。大丈夫なのか。あいつ、真っ青な顔して戻って行ったけど」
「あいつ?」
「その……フェリシアンが」
「フェリシアン? ……もしかして、さっきのも見ていたのですか」
「……ああ。さっきまでここにいたからさ」
レオニスの言葉に、マチルダの息が一瞬止まる。
(待っていてって言ったのに……)
リリアナを懲らしめるためとはいえ、彼にだけはあの現場を見られたくはなかった。
深いため息を吐きながら、マチルダは静かに部屋へ戻った。
部屋の中は、先ほどよりも顔色の悪いフェリシアンがいた。
「あれは直前で止めたの。本当にリリアナとキスするわけないでしょ」
「……振りだとしてもやりすぎです。どうしてあんなこと」
フェリシアンの声はどんよりと重かった。マチルダはそれを感じ取りながらも、軽く肩をすくめて茶化すように笑う。
「リリアナにあなたの痛みを分からせるためよ」
「だからってあんな方法を取らなくてもいいじゃないですか」
フェリシアンの瞳に影が差していた。静かな怒りがその奥に潜んでいるのが、マチルダにもはっきりと伝わる。
「どうしてあなたがそんなに怒るのよ?」
「逆になぜ怒らないと思うんです?」
いつになく強い口調。マチルダは戸惑いを隠せない。
(なんなのよ。確かに、常識はずれで狂った反撃をしたわ。でも私は、あなたを傷つけたリリアナを許せなかった。だからやり過ぎだったなんて思わない)
彼女は負けじと視線を返した。その強情な目に、フェリシアンは諦めるように、悲しげに目を細めた。
「あなたが誰かと口付けしようとしたことを、怒らないわけないじゃないですか」
「……っ、それは……」
「分かってますよ! 自分が身勝手なこと言ってるってことぐらい! でも別の方法だってあったはずです。もしかして、わざとですか? あの方だけでなく、私にも罰を与えるつもりであんなことを……!」
フェリシアンの声が段々と荒くなり、マチルダは唖然とする。
「……どうしてそうなるの」
(前の人生のキスなんて、特別でも何でもなかったじゃない。浮かれてたのは私だけで、いつもあなたは義務のように唇を合わせただけ)
マチルダの以前の人生での苦い記憶が蘇る。
あの経験があったからこそ、リリアナにあのような突飛な行動ができた。
形だけのキスなど何の意味もなく、リリアナを分からせるためなら、くれてやっても惜しくないと本気で思っていた。
しかし今、目の前にいるフェリシアンは、もうあの頃の彼ではない。
「……あなたが口付けしていいのは、私だけのはずです」
静かに放たれた彼の言葉に、マチルダは息を呑む。
もういつもの冷静なフェリシアンはいなかった。その瞳には嫉妬の炎が揺らめいている。見つめられるだけで胸が高鳴り、張りつめていた決意が崩れていくのが分かる。
しかし、硬直する彼女を見て、フェリシアンの表情が徐々に変わった。
(どうかしてるな……マチルダ様にこんなことを言うなんて)
理性が彼を引き戻し、フェリシアンは暗い顔で一歩退いた。
しかし今度はマチルダが手を伸ばす。
「来て」
唐突な言葉に、フェリシアンは困惑が隠せない。するとマチルダはそのまま彼に近づき、彼の頬に優しく手をやった。
彼女の手に導かれるまま彼が軽く屈むと、自然に目線の高さが近くなる。
胸がどくどくと高鳴っている。どちらの鼓動かは分からない。
マチルダは小さく息を吐く。
そして次の瞬間、彼の唇に触れた。
ほんの一瞬。
無垢でぎこちない一瞬だった。
二人の頬が同時に染まる。
彼の美しい碧眼に今、自分だけが映っている。
その自分が今まで見たこともないような、いじらしげな顔をしている。
マチルダはその恥ずかしさに耐えきれず、視線を逸らして声を上げた。
「ほ、ほら……。これでいい――っ」
言葉の途中なのに、フェリシアンの唇が再び降りてきた。
彼の睫毛が触れた気がした。後頭部には、彼の長い指が這う。そのまま引き寄せられ、マチルダは息をすることすら忘れてしまった。
急に世界が遠ざかったような、二人だけになってしまったような気がした。
以前の人生で、こんなに長く唇を重ねたことがあっただろうか。
マチルダが今まで知っていた口づけは、もはや口づけではなかったとすら思えた。
頭は混乱しているのに、不思議と心は穏やかだった。マチルダは身を委ねるように、そのままそっと目を閉じた。
お読みいただきありがとうございました!
ちょっと進展したところで以降不定期更新となります(週一で更新目指します)
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